表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『静寂の崩壊 ― ワイシャツに残った香水から始まった復讐劇 ―』  作者: たま


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/3

前編

数ある作品の中から本作をお選びいただき、ありがとうございます。

拙い部分もあるかと思いますが、最後までお楽しみいただければ嬉しいです。

静寂の崩壊

窓の外では、深夜の都会を走る車の走行音がかすかに響いている。広告代理店で働く私は、今日もプロジェクトの締め切りに追われ、持ち帰った仕事をリビングのテーブルに広げていた。時計の針は午前二時を回っている。玄関の鍵が開く音がして、夫の和也が帰宅した。

おかえりなさいという私の声に、和也は疲れ切った表情で短く応える。彼は大手新聞社の記者だ。最近は社会部の大きなヤマを追っているとかで、連日の残業に加え、休日出勤も当たり前になっていた。

和也が脱ぎ捨てたワイシャツを洗濯機に入れようと手に取ったとき、鼻を突く違和感があった。洗剤の匂いでも、彼の体臭でもない。ごく微かな、しかし主張の強い甘い香水の匂いだ。和也の首筋からも同じ匂いが漂っていることに気づき、私は胸の奥が冷えるのを感じた。

私たち夫婦は共働きで、家事は平等に分担するという約束で結婚したはずだった。しかし、和也が忙しくなるにつれて、料理も掃除も洗濯も、すべてが私の肩にのしかかるようになった。私が仕事で疲れて帰ってきても、シンクには汚れた食器が積み重なり、床には脱ぎ散らかされた靴下が転がっている。

「仕事だから仕方ない」

その言葉を盾に、彼は家庭という責任から静かに退場していった。私は自分に言い聞かせた。彼は今、世の中のために真実を追い求めているのだ。妻である私が支えなくてどうするのだと。しかし、その献身は、ワイシャツに染み付いた見知らぬ香水の匂いによって、脆くも崩れ去ろうとしていた。


事態が決定的な局面を迎えたのは、その一週間後のことだった。北海道の新聞社に勤務している大学時代の友人、小夜から突然の電話が入った。

「ねえ、ちょっと落ち着いて聞いて。今、札幌のすすきの近くにあるレストランにいるんだけど、和也くんを見かけたの」

心臓が大きく跳ね上がった。和也は今日、名古屋へ一泊二日の出張に行くと私に告げていたはずだ。

「何かの見間違いじゃないかな。彼は今、名古屋にいるはずよ」

私の震える声に、小夜は厳しい口調で返した。

「見間違いなわけないでしょ。今、写真を送るから確認して」

スマートフォンに届いた画像には、暖色の照明に照らされたレストランで、ワイングラスを傾ける和也の姿が鮮明に写っていた。そしてその向かいには、若く華やかな女性が座っている。和也は私に見せたこともないような、とろけるような笑顔で彼女を見つめていた。その手はテーブルの上で、女性の手に重なっている。

同僚との打ち合わせ、あるいは取材。そう信じようとした私の淡い期待は、小夜が追い打ちをかけるように送ってきた二枚目の写真で完全に粉砕された。店を出た二人は、互いの腰に手を回し、吸い寄せられるように近くのシティホテルへと消えていった。

それはまぎれもなく、恋人たちの仕草だった。


翌日、和也は「名古屋の土産だ」と言って、ういろうをぶら下げて帰宅した。私はそれを無言で受け取り、キッチンに置いた。彼は何食わぬ顔で、名古屋での取材がいかに過酷だったかを語り始めた。

「向こうの担当者がなかなか口を割らなくてさ。結局、深夜まで粘ってようやくネタを掴んだよ。本当に疲れた。明日の朝も早いから、先に寝るよ」

嘘をつく人間の口調には、独特の軽やかさがあることを、私はこの時初めて知った。彼は自分がついた嘘に酔いしれ、完璧に演じているつもりなのだろう。しかし、私にはわかる。彼の襟元から漂う、あの忌まわしい香水の匂いが。

私は広告会社でのキャリアを通じて、人間の欲望や嘘をいかにパッケージ化して魅力的に見せるかを学んできた。そのスキルが、皮肉にも夫の不貞を冷静に分析するために役立っている。

和也が寝室へ消えた後、私は彼の書斎に忍び込んだ。普段はプライバシーを尊重して入らない場所だが、今はそんな綺麗事は言っていられない。

デスクの引き出しには、鍵がかかっていた。しかし、和也は詰めが甘い。予備の鍵が、棚に置かれた分厚い百科事典の隙間に隠されていることを、私は知っていた。

引き出しを開けると、そこには数枚の領収書と、見慣れないスマートフォンの端末があった。領収書の日付は、ここ数ヶ月の「残業」や「休日出勤」の日と完璧に一致している。行き先は、高級レストラン、ホテル、そして女性もののジュエリーブランドのショップ。

スマートフォンの電源を入れると、ロックはかかっていなかった。メッセージアプリを開くと、吐き気がするほどの甘い言葉の羅列が並んでいた。相手は彼の会社の元インターン生、まだ二十代前半の女だった。

「奥さん、今日も家で待ってるの?かわいそう」

「いいんだよ、あいつは仕事しか興味がないから。俺たちのことなんて気づきもしない」

画面をスクロールする手が震える。怒りというより、あまりの軽薄さに眩暈がした。私は冷静に、すべてのメッセージと写真、領収書を自分の端末へ転送した。


私は静かに準備を進めた。広告業界のネットワークを駆使し、優秀な離婚弁護士を見つけるのは造作もないことだった。同時に、私はある仕掛けを施すことにした。

和也は、自分が追っている「特ダネ」が、来週の朝刊の一面を飾ることを誇らしげに語っていた。汚職事件のスクープらしい。彼はその功績で、将来の昇進は確実だと思い込んでいる。

しかし、私が得た情報によれば、そのネタは彼の浮気相手が持ち込んだものだった。彼女の父親は、その汚職事件に関わっている企業の役員だ。つまり、和也は情報を餌に、まんまとハニートラップにかかっていたのだ。

私が接触した弁護士を通じて得た真実は、さらに残酷なものだった。和也がつかんだ「特ダネ」は、相手企業がライバル会社を陥れるために流した偽情報であり、裏取りが不十分なまま掲載すれば、新聞社として致命的な誤報になる代物だった。

和也は自分の情欲のために、記者としての魂さえも売り渡していた。


決行の日は、彼が待ち望んでいたスクープが掲載されるはずの朝だった。

和也は上機嫌で食卓についた。私はいつものようにコーヒーを淹れ、トレイに乗せた書類を彼の前に置いた。

「これ、読んでみて」

和也は新聞を開こうとしていた手を止め、怪訝そうに私を見た。

「なんだよ、朝から。仕事の相談か?」

「いいえ、あなたの真実よ」

彼が手に取ったのは、小夜が撮った札幌での不倫写真、浮気相手との生々しいメッセージのコピー、そして、彼が追っているネタがいかに危険な偽情報であるかを裏付ける調査報告書だった。

和也の顔から血の気が引いていくのがわかった。

「これは、何かの間違いだ。説明させてくれ」

「説明なら、今から来る人たちにしてあげて」

チャイムが鳴った。ドアを開けると、そこには和也の上司である編集局長と、会社のコンプライアンス担当者、そして私の弁護士が立っていた。

「和也くん、君が抱えていたネタについて、重大な疑義が生じた。社内で緊急会議を行う。それから、個人的な不適切交際についても、会社として看過できない事態になっている」

編集局長の冷徹な声が響く。和也は口を金魚のようにパクパクとさせ、何も言い返せない。

私は一歩前に出た。

「和也、あなたが私に家事を押し付け、出張だと嘘をついて贅沢を三昧していた間に、私はあなたの破滅を準備していたの。あなたが愛していると言っていたあの女の子、彼女は父親の命令であなたに近づいただけよ。あなたが会社をクビになれば、彼女もすぐに去っていくでしょうね」

和也は床に膝をついた。誇り高き新聞記者のプライドは、音を立てて崩れ去った。

「そんな、嘘だ。頼む、許してくれ。やり直そう」

「やり直す?何を?私に家事をさせて、自分は外で不倫を謳歌する生活を?残念だけど、もうその席はないわ。離婚届、そこに置いてあるから。判を押しておいてね」

私は荷物をまとめていたバッグを肩にかけ、玄関へと向かった。

「ああ、そうそう。あなたが自慢していた特ダネ、もし今日掲載されていたら、あなたは一生業界から追放されていたわよ。私が事前に局長に連絡して止めてあげたんだから、感謝してほしいくらいね。おかげであなたは、単なる不倫でクビになるだけで済むんだから」

私は振り返らずにドアを閉めた。


数ヶ月後、私は新築のマンションにいた。離婚は成立し、和也からは多額の慰謝料を毟り取った。彼は会社を事実上の解雇となり、業界内に悪評が広まったせいで再就職もままならないと聞いている。

一方、あの若い浮気相手は、和也が失脚した瞬間に連絡を絶ち離れたらしい。和也は今、家賃数万円のアパートで、私がかつて一人でこなしていた家事に追われながら、孤独な日々を送っているという。

私は、小夜から送られてきたメッセージを開いた。そこには、一人で寂しくコンビニ弁当を食べている和也の、哀れな姿が写っていた。

「ざまぁ」

私は小さく呟き、スマートフォンの画面を消した。窓の外には、新しい朝の光が差し込んでいる。私のキャリアはこれからが本番だ。もう、誰かのために自分の時間を犠牲にすることはない。

自由とは、これほどまでに清々しいものだったのか。私は淹れたてのコーヒーの香りを深く吸い込み、最高の気分で新しい一日を始めた。


ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

誤字脱字のご連絡ありがとうございます。

感想もいつも励みになっております。

少しでも楽しんでいただけたなら、

評価やブックマークで応援していただけると励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ