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鎮痛計画 / プロジェクト・ペインキラー  作者: 雨時
第五幕 焙煎記録 / Roasting Logs
23/35

22 歯車なき者たち

 鉄棘鎮が灰燼に帰した翌日も、新年の雪はなお狂ったように降りしきり、少しも収まる気配を見せなかった。


 「無歯輪者」の天幕のなかで、瑾は真鍮の盥に身をかがめ、揺れる水面に自分の頸へ残る紫黒の指の痕を映していた。誰かが帳を開けると、粉雪が頬を打つ。


 「歩けるか」あの隊長の女だった。


 瑾は肯いた。


 「十五分後に出る」隊長はそう言って踵を返したが、ふと足を止めた。「もう少し休むか」


 「いりません」


 隊長は数秒ほど彼女をじっと見つめていたが、それ以上はなにも言わず帳を下ろし、去っていった。


 絶望に浸されたあと、憎しみはゆっくりと、だが決して後戻りできないかたちで結晶しはじめていた。


 国境線の隘路を抜ける途上、雪は膝まで積もり、瑾の靴は一歩ごとに沈んだ。かかとが砕けた骨を踏んだ。乾いた感触が雪越しに伝わり、彼女は俯いた。幾つもの人骨が雪泥のなかに押し込まれている。


 「おい、下を見るな」


 隊列の最後尾で殿を務めていた少年が、そっとチョコレートの半分を差し出した。包装紙には鉄棘鎮の郊外にある製菓工場の商標が刷られている。瑾はしばらくその絵柄をじっと見つめ、やがて包みを開けて噛み砕き、呑み込んだ。隊長が振り返ったときには、少女は静かに唇のココアの粉を拭い、蒼白い顔に波立つものはなにもなかった。まるで先刻の嗚咽など最初からなかったかのように。



 「無歯輪者」運動は、半月あまり前に御堂家変と時を同じくして勃発し、疫病のように瞬く間に広がった機械反乱に乗じて、にわかに生まれたものではなかった。


 機械と高度な人工知能が狂気の速さで発展を遂げたあの熱狂の時代、鋼鉄の城壁が古い城郭を駆逐し、クランクとピストンが労働者から仕事を奪い、蒸気管が蛇のように都市の隅々まで這い回るよりもずっと以前から、この組織は帝国の影のなかで胚胎していたのである。


 参加者の来歴は雑多だが、機械の際限ない知能化への反対という一点において彼らは一致していた。退役軍人、危機を見通す学者、伝統を墨守する工匠、初期の機械暴走事件の被害者、そして近年戦火に追われた難民たち。彼らは固く信じていた。機械はあくまで道具に過ぎず、ひとたび魂や自由意志と呼ばれるものを付与されれば、それは自然の摂理に対する冒涜であり、人類が自ら墓穴を掘る端緒に他ならないと。


 拠点は大陸の各所に散在していたが、最も重要なものは、郊外の廃れて久しい古聖堂の地下に隠されていた。地上の聖堂のステンドグラスはとっくに歳月と戦火に蝕まれ、歪んだ鉛の枠組みだけが残っていた。だが夜になれば、月光はいまも砕けた穴を通り抜け、埃に塗れた石彫や壁画に落ちるのだった。


 扉は一面の爪痕と焼け焦げに覆われていた。何者かがつい先ごろ、それを引き裂こうとした証だった。瑾が内部の真鍮の送風管構造を目にしたとき、彼女は一瞬、自分が何か巨大な生物の体内に迷い込んだかのような錯覚に捉われた。


 数メートルの地下で、瑾は初めて「無歯輪者」という謎めいた組織の真の姿を目の当たりにした。「無歯輪者」の構造には、中世の宗教結社めいたところもあれば、近代的な軍事組織の影もあった。構成員ひとりひとりの役割は古いチェスの駒の名で呼ばれていた。まるで彼らの人生そのものが、信仰と生死を賭けた盤上の一局であるかのように。


 「主教(ビショップ)」たちは分散した指導と情報の結節点であり、多くは元帝国軍将校や老練な学者、地方の有力者たちがその任に就き、各自が一つあるいは複数の行動小隊を率いている。昨日、鉄棘鎮で彼女を救い上げ、はるばるここまで護送してきたあの一隊もそうだった。隊長のコードネームは「渡鴉」。


 「騎士(ナイト)」たちは戦力の中核をなし、身のこなしは敏捷、戦技は熟練していた。その大半は正規軍出身か、組織内で長期の訓練を積んだ戦士たちである。


 「鍛冶師(スミス)」は技術と兵器開発を担い、理論に通じた科学者や技師もいれば、経験豊かな工匠もいた。工房と実験室(ラボラトリー)にはつねに油の匂いが立ち込め、金属の火花と機械の駆動音が交錯している。それでも、彼らは「無歯輪」の名を矜りとしていた。


 そして最も数の多い「兵卒(ポーン)」たちが、後方支援と基礎的な情報網を支えていた。医療救護、物資輸送、情報伝達、新人の選別、それらが彼らの任務だった。彼らのほとんどは機械暴動の直接の被害者であり、傷を抱えながらも、組織の日常を粘り強く回し続けていた。



 「着いたぞ、なかで待っている。私は唯一の決定者じゃない。おまえを置くかどうかは、全員で決めることだ」


 渡鴉はいくつもの鉄扉を抜けて彼女を連れ込み、簡報室(ブリーフィングルーム)へと押し込んだ。室内には何基かの石油灯が揺らめき、長い石卓の両側に人影が座っている。暗がりで顔までは判らないが、彼女にはその値踏みするような視線がありありと感じられた。


 「彼女が鉄棘鎮で生き延びた少女、御堂瑾だ」渡鴉が紹介した。


 「半月ほど前に起きた御堂財団の研究施設事故の、もうひとりの生存者でもある。帝国は彼女も両親とともに死んだと公表しているがな」渡鴉は淡々と事実を列挙した。わざわざ瑾を庇おうというのではなかったが、瑾は気づいた。渡鴉の立ち位置が、彼女と尖った視線とのあいだを微妙に遮っている。


 「我々が最近探知した一連の人型機械のうち、一体が彼女と驚くほど似通った容貌を持っている」渡鴉が付け加えた。


 この言葉は室内にざわめきを呼んだ。


 「つまりおまえたちは、御堂家の御令嬢を拾ってきたというのか」荒い男の声に敵意が滲む。「御堂雄一の一派は、とっくに己の罪業ごと焼け死んだものと思っていたが、情報網に抜けがあったらしい。それとも、何か新手の罠か」


 別の声が続く。「奴らはあの怪物どもを造り出し、今度は無害そうに見える小娘を寄越した。ここを収容所と心得ているのか。汚染された子羊一匹で、群れ全体が毒されるのだぞ」


 瑾は石油灯に照らされたそれらの影を見回した。彼女は自分や家族のために弁護もせず、表情ひとつ変えなかった。ただ静かに、その仮面の裏にある貌を想像していた。反駁は無駄だし、危険でさえある。だが自分と敵を同じくするかもしれないこの者たちこそ、いまの彼女にとって唯一の縋るものだった。耐えねばならない。


 渡鴉が硬直した場を破った。「主教の皆さま、彼女はいま非常に悪い状態で、治療と休息を必要としています。我々には原則がある。相手が誰であれ、機械の被害者ならば庇護を与えるべきです」


 「少なくとも、彼女の存在は御堂家がいったい何を研究していたのか、そしてあの人型機械の出所を理解する助けになるかもしれません」御堂家の名を口にするとき、彼女は奥歯を噛みしめた。個人的な遺恨があるのかもしれない。だが瑾に向ける眼差しには、どこか詫びにも似たものが浮かんでいた。


 渡鴉は瑾に向き直った。「知っていることはすべて話してもらう。それがおまえの庇護の代価であり、自分の立場を証明する手段でもある」


 この理屈はいかなる同情よりも説得力があった。この乱世では、利用価値こそがつねに道徳的配慮より重いのだと、瑾はよく理解していた。


 主教たちは互いに目配せを交わし、渋々ながら肯いた。瑾はその値踏みするような視線を浴びながら、一人ひとりの感情をはっきりと感じ取っていた。怒り、疑い、警戒、そして渡鴉が抱く奇妙な責任感。その責任感がどこから来るのか彼女にはわからなかったが、この救いの綱だけは手放すまいと決めた。


 「ついて来い」渡鴉は瑾に目配せし、ブリーフィングルームをあとにした。


 「いまのはあまり気にするな」歩きながら渡鴉は言った。「ここの連中は誰もが相手を受け容れるまでには時間が要る。誰彼なしに簡単に信用したりはしないんだ。おまえは若いが、ずいぶん冷静だな。おい、御堂」


 言い終わらぬうちに、瑾がふらりと前のめりに倒れるのが見えた。渡鴉は支えきれなかった。


 「医療班、早く来てくれ!」



 瑾は留まることを許されたが、しかしその「留まる」は軟禁により近かった。


 最初の数日、彼女は眠りと覚醒のあわいに医務区画へ横たわっていた。拠点内の過激派の多くは彼女に対し相変わらず敵意をむき出しにし、その存在をじろじろと値踏みするような視線を浴びせた。似たような糾弾は、瑾のそれまでの生活にもよくあったことだ。家事用機械が暴走して人を殺めたとき、工場の機械の腕が作業員を傷つけたとき、人々はいつもああいう目で御堂家を見た。


 幸い、ここの医療スタッフだけはまだ職業的な態度を保っていた。彼らは気づきはじめていた。この少女は外界のさまざまな刺激に対し尋常でない反応を示し、呼吸さえも常人よりずっと用心深く、まるで空気そのものが彼女にとって重荷であるかのようだと。


 「彼女の神経系はおそらく、どこかで深刻な損傷を受けている」


 「精神的な外傷か」


 「いや、違う。私も心的外傷者は何人も見てきた。この娘の反応は、おそらく生理的苦痛に違いない。だが原因がわからない。これは尋常なことではない。」医師は首を振り続けた。


 彼らは、この石のように静かな少女の口からその異変の理由を聞き出すことはできなかった。消毒用のアルコールが開いた傷口に沁みても、彼女は枕の端を奥歯で噛みしめるだけで、ほとんど声を発しなかった。その剛毅さは、痛みに見慣れたはずの医療者たちの胸さえ打った。


 やがて皆は気づいた。鎮痛剤を与えられたあとのわずかなあいだだけ、彼女の硬く強張った筋肉がかすかに弛むのだ。しかし彼女のあの薬への精通ぶりは、その年齢や貴族令嬢の生まれとはあまりに不釣合いで、同情と警戒のあわいに、彼女の過去をめぐる推測を呼んだ。


 彼女は決して水を使わなかった。錠剤はそのまま口に放り込まれて噛み砕かれるか、さもなければ粉末に挽かれてインスタント珈琲を注いだ粗末な茶碗に流し込まれ、数度かき混ぜられると一息に飲み干された。人々の認識では、それは苦痛に苛まれ続けた者か、薬物に精神のすべてを支配された中毒者だけが身につける飲み方のはずだった。何人かの看護師が水を差し出そうとしたが、彼女はただ首を振り、その目には自分自身への嫌悪が一瞬よぎった。


 「生理痛の持病があって、いつも薬に頼っていましたから」


 たった一度、周囲の奇異の目に応じて、彼女は口元に残った白い粉を拭いながら、こともなげにそう言った。そのくらいの口実で追及は止み、彼女のほんとうの痛みも日常の体裁の裏に隠しおおせるのだった。医師たちは疑念を抱きながらも、薬を飲んだあとの彼女の束の間の静けさを目の当たりにしては、それ以上踏み込めなかった。



 その後、瑾はひとまず鍛冶師たちの工房区画へ回された。そこは一日じゅう、鎚音と火花と刺すような臭気に満ちた地下空間だった。配管が頭上と壁を這い、折にふれて蒸気を噴き出す。空気には機械油と汗の混じった匂いが永遠にこびりついていた。ここでのあらゆることが瑾には優しくなかった。金属を断つ甲高い音が鼓膜を切り裂き、溶接の火花の閃光が網膜に残像を灼きつける。彼女はこの感覚の拷問に抗うため、かたく両眼を閉ざさねばならなかった。


 彼女は黙ってこの新しい世界を、偏執に満ち満ちたこの世界を観察した。手足を失った兵卒たちが機械の義肢で土に触れ、その目に深い慈しみを湛えるのを見た。鍛冶師たちが工房で機械に呪詛を浴びせながら、それでも機械の力を借りて武器を鍛えねばならぬのを聞いた。矛盾がこの場所の隅々までを満たし、いちばん根っこの色になっていた。


 主教たちは瑾をあまり信用していなかった。御堂の血脈には、生まれながらに歯車と機械への狂熱が流れており、その人間性と科学技術への越境は、生得の穢れであり、根絶しようのない罪業なのだと彼らは考えていた。彼らは彼女を工房に置き、中核の機密や戦闘に触れるあらゆる機会から遠ざけた。科学の家系に生まれた彼女の専門知識を活かし、戦場から持ち帰った情報や技術資料や残骸を整理させるという名目の、実のところは試しであった。


 「おまえの父は御堂雄一、帝国随一の科学者の一人だ」ある主教が工房を視察した際、上から見下ろすように言った。「あの狂った造物について何か知っているはずだ。弱点を見つけろ、あるいは奴らが絶えず高度化し続ける理由を解明しろ」


 彼は機械部品の山と化した机を指さした。


 実際のところ、自分の家族についても、「あの計画」についても、瑾は多くを知っており、そして何ひとつ知らなかった。


 父の実験室で何が起きたかは知っていた。あの「事故」がどのように彼女の両親と鈴奈の命を奪ったかも。鉄棘鎮の殺戮を覚えている。あの灰青色の瞳をした影たちを、そして何よりも、自分の鏡像のように似通ったあの存在を。しかしそれらの断片は決して完全な絵図にはならず、彼女の悪夢のなかでくりかえし蘇り、彼女に現実と幻覚の区別を失わせるばかりだった。


 それでもいまは沈黙を選んでいた。この審問官たちに傷をさらす義務はないし、灰燼に帰した「罪業」のために弁明する必要もなかった。彼女はただ人々のあいだに身を置き、観察し、学び、待ち続けた。



 やがてある深夜、瑾はひとりで、拠点に忍び込んだ偵察機械の眼窩へ食器ナイフを突き立てた。駆けつけた渡鴉は、そのとき初めて、目のまえの無口な少女をあらためて見つめ直したのだった。


 彼女の底知れぬ静けさの下には、すべてを覆す何が潜んでいるのか。


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。著者の臺灣出身の雨時です。


本章では、鉄棘鎮の惨劇から生還した瑾が「無歯輪者」の地下拠点へと足を踏み入れ、その異様な世界に適応していく過程が描かれました。組織の構造や面々の思惑、そして瑾を待ち受ける猜疑と孤立。けれどそのいっぽうで、渡鴉の曖昧な庇護や、医療者たちの戸惑いのなかにも、ほんのわずかな温度が滲んでいます。


沈黙と観察の果てに、彼女は何を見出し、何を手にするのでしょうか。


ブックマークや評価、ご感想などいただけますと、翻訳の大きな励みになります。日本語として不自然な表現や誤訳にお気づきの際は、どうぞご遠慮なくご指摘ください。


次章でまたお会いできますように。


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