Part.1
その日は、朝から風がやけに強かった。
葵は、いつも以上にスカートの裾を押さえながら歩いていた。
前髪が目にかかっても、彼女の手はずっと、スカートに固定されている。
「……最悪。なんで今日に限って……黒パン忘れるのよ……」
黒パン――見せパンを、今日に限って忘れてしまった。
小さくぼやいたその声は、誰にも聞こえていないつもりだった。
けれど、綾には聞こえていた。
……というより、もうとっくに気づいていた。
葵が不自然にスカートをたぐり寄せてることも、階段でやたら慎重に動いていることも。
だから綾は、さりげなく葵の前に出て、風の少ない道へと導いた。
「葵、こっち行こう。風弱いから」
「……うん。ありがと」
「てかさ、黒パン忘れたでしょ」
「え……ばれてたか……」
葵が力なく笑うその顔を、綾はちらりと見た。
葵は今、きっとすごく不安なんだ。
なんでこの子が、こんなにビクビクしなきゃいけないんだろう。
ちゃんとしてるのに、毎日気をつけてるのに、たった一度のミスで、こんなに不安になるなんて。
『見られてるかも』とビクッとする感じ――小学生の頃から、変わってない。
大きな交差点の前で立ち止まったときだった。
風のタイミングを読んでいる葵を横目に、綾の背中に、何かが走った。
ビリッと、肌をなぞるような気配。
(……ん?)
反射的に振り返ると、数メートル後ろの男がスマホを持っていた。
だが――画面を見るにしては、妙に上向きに見える角度。
(……は?)
一気に、血の気が引いた。
じわじわ、胃の奥が冷たくなる感覚。
(やっぱり……)
綾は何も言わず、葵の腕を軽く引いた。
「ちょっとデパート寄っていい?」
「え? うん、別に」
葵が答えるのを待たずに、綾はデパートの中に入った。
わざと立ち止まって振り返る。
案の定、男は自然を装ってついてきていた。
(ふざけんな……!)
怒りと、恐怖と、焦りがぐちゃぐちゃに混ざって、吐きそうになる。
そして、男の仕草から、綾の中に1つの疑念がわく。
(まさか……葵を狙ってたりしないよね?)
今日の葵は黒パンを穿いていない。
普段から警戒心の強い葵の、ほんの僅かなほころび。
「ちょっと見たいものがあるから、先にお店行ってて」
「え? あたしも行こうか?」
「すぐ追いつくから」
何食わぬ顔でそう言って、綾はわざと葵を先に行かせる。
葵はちょっと不安そうにしながらも頷いて、先に進む。
その背中が、どれだけ無防備か……綾だけが、気づいている。
商品を見るフリをして、綾は後ろをチラ見する。
男はスマホをいじるふりをしながら、綾を素通りして、葵の後を追っていく。
(……!!)
思わず血の気が引いた。
(葵はダメ、絶対にっ!!!)
綾はすぐに男を追い越して、葵のもとへ駆け寄った。
「買いたいやつ、売ってなかったわ~」
葵は驚いたように振り返った。
「え……早くない?」
「見たら別に欲しくなかったっていうかさ」
葵は疑問を抱きつつも、それ以上は聞かなかった。
そして、綾の意識は再び背後の男に向く。
葵が何も知らずに笑っていられるように。
そして――あいつの手が葵に伸びたとき、絶対に、止めてやるために。
(つづく)




