希い
二ヵ月近く時が流れ、レィスアルの足もだいぶ癒えてきた。
この頃、彼女は私たちに対して、あまり悪態をつかなくなった。単に飽きただけなのかもしれない。しかし、バルコニーの椅子に腰を下ろし、じっとサルマキスを眺めている彼女を見ていると、そんな理由だけではないような気がした。
「ねえ、ラルム」
湖の方を見たまま、レィスアルは言った。
「もっと、近くで見てみたいわ」
私は何も言わず、ただ黙って頷いた。
まだ完全に傷の癒えていない彼女を抱いて、湖に続く小道を降りてゆく。
小さな……少し力を込めれば簡単に壊れてしまいそうな身体。
彼女は、こんなにも儚い姿をしていたのかと、今更ながらに感じる。
子供の頃はほとんど差のなかった身長も、今は私の方がずっと高い。並んで立てば、彼女の背は私の胸の高さほどしかないだろう。普段ダルフェイ以外に比較の対象がなかったので自覚したことはなかったが、私は結構大柄なようだ。たとえレィスアルが、平均より小柄なのだとしても。
「そこに下ろして」
湖の畔を指差し、レィスアルは言った。岸に腰を下ろし、折れそうなくらいに細く小さな素足を水に遊ばせながら、レィスアルは言った。
「綺麗なところね」
その言葉に私は頷き、彼女の隣に腰を下ろした。
しばらくの沈黙の後、不意に彼女は語り始めた。
「あの日、夜が明ける頃……・あたしはあなたのことが気になって、もう一度あの場所に戻ったのよ。でも、もうそこにあなたの姿はなくて、それからずっと、あなたはあの時死んだのだと思っていたわ」
私は何も言わなかった。彼女の方も、返事は期待していないようだった。ただ少し寂しげな目で遠くを見つめたまま、彼女は続けた。
「村に戻ると、それはもう大変な騒ぎになっていたわ。あたりまえよね。だってあなたの部屋でアムレが殺されていたんですもの。でもあたし、何故だか後のことなんて何も考えていなかったのよ。あなたを痛めつければ……あなたさえ消えてしまえば、何もかも終わるような気がしていたから」
「……」
「あなたが消えただけなら、きっとそんな騒ぎにはならなかったでしょうね。あたしは、全ての罪をあなたに押し付けようとしたわ。でも、アムレを殺したのはあたしの矢。言い逃れなんてできるわけがなかった。そうしているうちに、あなたを襲わせた男たちが裏切って、洗いざらい全て話してしまったのよ。許婚に浮気されたという私の気持ちも考慮されたみたいだけれど、正直そんなこと、あたしにはどうでもいいことだった。あたしは200年間の追放という裁きを受け、その刑が終わる最後の日に、あなたと再会したのよ」
再び沈黙が流れた。
小鳥たちの囀る声がする。
眩い夏の日差しが、レィスアルの足元で無数のきらめきとなり、揺れていた。
先に言葉を発したのは、今度も彼女の方だった。
「ねえラルム、他人を愛するって……どんな気持ち?」
彼女の言葉に、私はハッとして思わずその横顔を覗き込んだ。
空色の瞳は、冷たい悲しみを宿している。
生まれながらに愛さなければならない相手を定められながら、その相手の愛を得られることもなく……彼女はどんな深い絶望に、心を凍らせてきたのだろう。
彼女が彼女であるために必要だったその危うい心のバランスを、壊れそうな自尊心を……先に傷つけてしまったのは私の方だったのだ。たとえそれが、私自身の望んだことでなかったとしても。
初めて彼女と出会った、あの日。
あの時彼女が私に見せた、あの微笑みは真実だった。
共に愛情に飢え、傷ついていた二人。あの時、私に彼女が必要だったように……彼女にとってもまた、私は必要な存在だったのかもしれない。
私にとって、彼女こそが全てであったように、彼女にとってもまた唯一私だけが、同じ苦しみを抱えた仲間になれるはずだったのではなかっただろうか。
「一人で歩くことができるようになったら、出て行くわ」
レィスアルは言った。
それから私の方を向き、少し皮肉げな微笑みを浮かべて。
「ラルム、あなた綺麗になったわね」
と言った。
その言葉は、私にとって……レィスアルからの謝罪の言葉のように聞こえた。
私は彼女の肩を抱きよせ、ありがとうと一言言った。
本当のことよ。そういった彼女の瞳から、涙が一筋こぼれ落ちた。
その瞬間、長い間のわだかまりが、二人の間から嘘のように静かに消え去っていくのを感じた。
私たちは互いに涙を流しながら、しばらくそうして湖を見ていた。
苦く、淡い初恋の思い出が、白い光に包まれ消えてゆく。
憎しみを癒す方法はただ一つ、それは相手をゆるすこと……そして、そうすることによって初めて、自分自身もゆるされるのだ。
その考えは、やはり間違いではなかったと思った。
だけど、とてつもなく……せつない。
「帰ろう」
そう声をかけると、彼女は黙ってうなずいた。
陽が西の空に傾き始めている。
来たときと同じように彼女を抱えて家へ戻ると、ダルフェイがおかえりといって出迎えてくれた。
「今、お茶を入れるよ」
その優しい微笑みに、胸が熱くなる。
いつかレィスアルにも、心通わせることのできる相手が現れるだろうか。
そうであってほしいと、私は願った。
私の愛した、ただ一人の女性。まるで兄妹のように似通った二人だからこそ……誰よりも、何よりも幸せになって欲しい。
私は心から、そう願った……。
秋の初め。
傷の完治したレィスアルが、私たちの元を去っていく日がやってきた。
このまま、三人で暮らしてもいい……心配そうに、彼女に向けてそう提案したダルフェイに、少し困ったように苦笑して、レィスアルは言った。
「いつまでも、あなたたちが仲良くいちゃついているのを、あたしに見ていろというの?」
そんなのはごめんだわ。
その言葉に、ダルフェイは照れくさそうに頭をかいた。
「ずいぶん長い間お世話になってしまったわね。本当に感謝しているわ。あたしのことなら心配しないで。こう見えてもあたしは強い女よ。今までもこれからも、それは変わらないわ」
まっすぐに、私たちを見つめる空色の瞳。決して人に頭を下げない彼女だが、私にはそれがいっそ眩しく思えた。
「ラルム、最後に1つわがままを聞いてくれるかしら」
おそらく、私たちは二度と再び出会うことはないだろう。そんな予感に、私はうなずいた。
「……あなたの身体を、見せて欲しいわ」
予想外のレィスアルの言葉に私は少し驚いたが、彼女の目に好奇の色がないことに気づき、ゆっくりと衣服を脱ぎ去った。ダルフェイは何も言わずに、その場を離れた。彼もまた、レィスアルの心を察しているのだろう。
一糸まとわぬ姿になった私の身体を、レィスアルはしばらく、少し悲しくせつなげな瞳で見ていた。彼女が何を考えていたのか……それを完全に読み解くことはできないが、それでも多少は理解できるような気がする。
「ありがとう、ラルム。あなたはとても素敵な人よ」
お幸せに。
そして、さようなら。
そういって、彼女は森へ帰っていった。
彼女の後ろ姿の消えた扉を、私はずっと見つめていた。
その身体が、ふわりと布に包まれる。ダルフェイがガウンを持ってきてくれたのだ。
「行ってしまったね」
「ああ」
「寂しい?」
「……そうだな、少し、寂しい」
優しい腕が、私を抱きしめた。
こらえようとした涙が、後から後からあふれて止まらなくなった。
それは、幼い日のあこがれ。
愛ではなかったのかもしれないが、確かに私の初恋だった。
良いことも、悪いことも……全てが彼女と共に、思い出の中に消えていくのを私は感じた。
「彼女が、好きだった……」
私の言葉に、ダルフェイはただ黙ってうなずいた。
そうして彼は私の涙が止まるまで、ずっと胸を貸してくれていた……。




