月夜の夢
静かな月明りの中、たくさんの蛍が舞っている。
ラルムは湖岸の倒木に腰を下ろし、月光に輝く小雨色の長い髪を風に住まわせながら、その風景を眺めていた。
星々を映す、深い闇色の湖。
その中央に青白く揺らめく丸い月は、黄泉の世界への入り口のようにも見えた。
それでも、サルマキスは美しい。
晴れの日も雨の日も、昼も夜も、それぞれに違った色を見せてくれる。深く澄んだ水の色は天を映す鏡のようであり……だからこそこの湖を見ていると、僕はいつもどこか遠い世界の幻を見ているような錯覚におちいった。
ときどき、サルマキスが本当にラルムをさらっていってしまうのではないかと不安になる。
ラルムはいつか、この世界に別れを告げるときが来たら湖の一部になりたいと語っていた。
湖面に浮かぶ、物言わぬ白い肢体……不吉なその映像は、しかしあまりにも静寂に満ちて美しい。
僕はラルムの隣に座り、夜風に揺れているその髪を一房手に取った。
それから細い肩に触れ、僕はその体が水の精霊にさらわれてしまわないように、そっと抱きすくめた。
腕にこもる僕の不安に気付いたのか、湖を見つめたままラルムがたずねた。
「……どうした?」
感情の乏しい、低音だが硬質な印象を抱かせる声。
でも僕は、ラルムが見た目ほどクールではないことを知っている。
規則正しい心音が、少し早さを増していた。
「ラルムは僕より、湖のほうが好きみたいだ」
「馬鹿な。湖に嫉妬しているのか?」
クス……とラルムが笑う。
「お前が共にいてくれるなら、私はサルマキスを離れ、この森を出てどこか別な世界へ行ってもいい」
「ラルム……」
「だが、それでも……」
ラルムは言った。
「……それでもいつか永遠の眠りにつくときがきたら、私はあの景色の一部になりたい。そう思うと、何故か目が離せなくなる」
「……」
「そんな顔をするな。お前がそばにいてくれるようになってからは、私は一度も死にたいなどと思ったことはない。だが、私は絶対にお前より長生きしたくないな。お前がもし私の目の前から消えてしまったら、その時は迷わずこの湖に身を沈めるつもりだ」
「君を一人にしたりなんかしないよ」
僕はラルムを抱きしめ、その唇に口付けた。どこかひんやりとした薄桃色の唇。それに熱を持たせるように、深く深く唇を合わせる。そうしながら、僕はラルムの胸元をくつろげた。夜着の合わせ目など、細い紐で結んでいるだけで、少し力を込めれば簡単に解けてしまう。
形のよい、張りのある乳房がこぼれる。決して大きいとはいえないが、肋骨の浮いた体にそれは特に際立って、痛々しくも優美に見えた。
ラルムは何も隠そうとはしなかったが、服を脱がせるときはいつも少し泣きそうな顔をする。
月光の中浮かび上がるように輝く、その白くすべらかな身体を見ていると、完璧という言葉はラルムのためにこそあるように思えた。
あまりにも綺麗で……その背に翼がないのが不思議なぐらいだ。
こんなにも美しいのに、何故ラルムは自分を愛せなかったのか……過去を知った今なら、それは痛いぐらいに分かる。
まだ自分の身体が特異なものであることを受け入れられずにいたとき一方的に受けた屈辱は、ラルムの存在、自尊心の全てを否定し、両性具有であるというその事実にひどい罪悪感を与えた。
そんな過去を無きものにしようと、かたくなに男であろうとしていたラルムを、そうと気づかないまま僕は愛した。
僕の想いを受け入れてくれたとき、ラルムはどんな思いでいたのだろう。
僕が愛しているのは男でも女でもなく、ただラルムというその人なのだといってみても、結局こうして求めているのは女性としての役割に他ならないのではないかと、僕はときどき考える。
けれど、男だとか女だとか……誰かを愛するのにそれは本当に重要なことなのだろうか?
僕が愛した人は男でも女でもなく、またどちらでもあった。
僕はラルムを抱きしめたいと願い、ラルムはそれを受け入れてくれた。
それだけが、僕たちの間にある全てで……それ以外必要なものなど、何もないと僕は思う。
しなやかな腕が僕の首に絡みつく。震える指先が僕の肩に傷をつける、その痛みさえ愛しい。
熱に浮かされたような瞳で僕を見つめ、ふとラルムが微笑んだ。
とてつもなく妖艶で、淫らで……だけど、まるで降り注ぐ月光のように、何処までも澄んでけがれのない人。
長い脚を僕の腰に絡みつかせ、切なげに喘ぐ姿。
甘い声を、必死に抑えようとしている様子が愛しい。そしてそんなラルムの最後の理性を吹き飛ばす、その瞬間が嬉しい。長い髪を振り乱し、狂おしいほどに堕ちてゆく……その美しさに、目が眩みそうになる。
互いの熱を貪り合うように、僕たちは愛し合った。まるでこの時、この瞬間のためだけに生きているかのように、交わす言葉もなく、溺れるような快楽に身をゆだね――……。
倒れそうに仰け反る、細い身体。
灰色の髪が、夜の闇に舞うように、銀色の光を弾く。
空を切ったその手をつかみ、僕はラルムの身体を、胸にしっかりと抱き寄せた。
細く掠れたような吐息を残し、僕の腕の中で意識を失う愛しい人。
その、死にも似た気だるい余韻の中で、僕は思う。
美しい恋人を奪われ、嫉妬しているのは湖の方かもしれないと……。
月明かりに、銀色の魚が一匹跳ねて、消えた。
夜明けはまだ、遠い。




