第2話 晴太とゆき その2
晴太にとってその日一番の事件が起こったのは、昼休みのことであった。
彼のこの日の昼食メニューは購買で購入したパンとコーヒー牛乳である。
彼がいつものように佐藤と二人で談笑をしながら食事をしていると、いきなり彼の机の前に数人の女子生徒たちが現れた。
「なるほど、お二人とも今日は購買の焼きそばパンなのね。ふーん」
「えっと……。なに?」
晴太が怪訝そうに答えると、おでこの広い、気の強そうな女子生徒が彼の机の上にドカッとタッパーを置いた。
「いやね、あんた達、毎日同じようなものばかり食べてたら栄養が偏るでしょ。親切な私がサラダ作ってきたんだけど、食べる?」
彼女、森葵は料理部に所属する料理下手で名の知れたクラスメイトである。
彼女は仕切りたがりな性格な上に特別容姿が悪いわけではないが、さして美人でもないため男子からの人気は薄い。
しかし女子グループの中では中心的な存在であり、晴太たちは彼女の施しを無碍にするわけにはいかなかった。
「あー、俺今飲んだばっかりのこの水筒の中身、三十種類の野菜のエキスがブレンドされた特製の野菜ジュースなんだわ。ということで俺の栄養は十分なんで広橋、有り難く頂いとけよ」
晴太は佐藤のこの発言が森の料理から逃げるための方便であることを知っていた。
しかし彼は特にそれについてはなにも言及しなかった。
それどころか嫌な顔ひとつせずに、即座に目の前の物体を口に運んだ。
はぐっ……。モグモグ……。
「お味はどう?」
「うん。なかなかイケるんじゃないかな。結構美味いよこれ」
その発言は真っ赤な嘘である。
サラダをどう間違えればここまで不味く出来るのか晴太には皆目理解出来なかったが、彼の舌はタッパーの内容物に触れた瞬間、猛烈な拒絶反応を起こしていた。
おそらくは料理部で披露するための試作品なのだろうが、波風を立てることを極端に嫌う性格の彼には地雷を踏んでまで素直な感想を言う勇気はなかった。
彼は涙目になりながら、無心でサラダを食し続けた。
「すごい広橋君、泣くほど美味しいんだね」
佐藤のようになんらかの口実を取り繕って実験台を逃れたであろう他の女子たちの白々しい言葉を耳にしながら、晴太は見事森のサラダを完食してみせた。
そして親指を立て森にグーサインを送るなり、すぐさまトイレに駆けこんだ。
しかし、やはり森に悪いと思い直したのか、結局サラダは戻さなかった。
晴太がこのような強靭なメンタルを持ち合わせていられるのには理由がある。
それは彼の小さな相棒のお陰であった。
晴太は例えどんな理不尽なことが起ころうとも、後でゆきへの笑い話に出来ると考えれば大抵のことは乗り切れた。
そして帰宅するなり、今日も彼はいの一番にゆきに語り掛けるのだった。
「いやあ今日もいろんなことがあったな。中島先生にとばっちりでキレられた事件。森サラダ頑張って食べたよ事件。なぜか体育祭の実行委員に選出されてしまう事件。どれもハードでタフなイベントばかりだったよ……」
ゆきは茎を上下に揺さぶりながら、うんうんと頷くようにして聞いている。
愚痴や不満も含めて、彼が惜しげもなく本心を打ち明けられる相手はこの不思議な植物のみである。
晴太の慎重な性格は人付き合いにおいても徹底されており、彼は佐藤のような友人相手でさえも一定の心の距離感を保ち、深く関わり過ぎないように努めていた。
ゆえに晴太は常に心のどこかに孤独感を抱えており、ゆえに彼にとってこのゆきは唯一の拠り所であった。
「おっと。ついつい喋り過ぎちゃったな。頷いて聞いてくれるとつい調子に乗っちゃう佐藤の気持ちも分かるってもんだ。それより買ってきたぞ、週刊少年プルルート」
待ってましたとばかりに、ゆきは全身の葉をピンと立てて喜びを表現した。
ゆきはこの漫画週刊雑誌に連載されている、「異能戦士ビビり崎チャラ男」という漫画の大ファンであった。
晴太はにんまりとした笑みを浮かべると、一度ゆきの目の前に雑誌をちらつかせた後にわざと取り上げるような仕草をしてみせた。
「前回は確かチャラ男が敵の強さにガチで絶望して本気で寝返ろうと頭を下げたところで終わったんだっけ。まあ待て。俺が先に読む。ゆきは俺が楽しんでからその後だ」
晴太にとってそれはほんの軽い冗談に過ぎなかった。
しかしその瞬間、突然ゆきの茎が長く太く成長し、晴太の右腕に素早く絡まった。
そして獲物に巻き付く大蛇のように一気に締め上げると、晴太の腕はギチギチと悲鳴を上げた。
「いててててててててて……ウソウソウソ! さ、最初から冗談だって。一緒に読もう。俺もその方が楽しいし!」
このように晴太が調子に乗り過ぎればゆきはごく稀に怒ることもある。
とは言え、このようなことは滅多になく、基本的に晴太とゆきの生活はいつも平和で、いつも一緒であった。
* * * *
実のところ、ゆきの葉にはとんでもない効能が秘められている。
葉を直接食べる、もしくはすり潰した粉を煎じて飲むことにより、所有者と認めた人間の願いをなんでも叶えてしまう万能の薬となるのである。
しかし晴太はこの能力を過去十年間一度たりとも使用したことがなかった。
一応鋼鉄から種を譲り受けたときの説明では、使用するにあたっての代償はないとされていたが、そこは慎重な晴太の性格である。
彼はいつの日か訪れるかもしれない考えたくもない結末、ゆきとの別れが訪れたときに力に依存し過ぎた自分になってしまわぬよう、普段の生活ではなるべくその力を封印するように心掛けていた。
それは例え学校の中間テストでピンチの教科があったとしても例外ではない。
力を借りさえすれば満点を取るなどおそらく造作もないことだろうが、晴太の頭の選択肢には最初からそのようなズルの二文字は存在していなかった。
「わっ、びっくりしたじゃないか! いきなりそんな体を伸ばして」
晴太は危うく椅子から転げ落ちそうになった。スマホを弄っていた最中に突然視界に緑色の物体が入ってくれば無理もない。
今日はテスト直前の最後の日曜日。
晴太はこの日自室に籠って苦手教科の勉強に励むつもりでいたのだが、まったくもって捗っていなかった。
「勉強はしなくていいのかって? ちょっと休憩だよ。葉の力? 使うわけないだろこんな程度のことで。さーて、そろそろ本腰を入れて取り掛かるかな」
晴太は机に向かうと苦手な英語の問題集を開き、手を動かし始めた。
しかし数分後、すぐにその手は止まり意を決したように立ち上がった。
「そうだゆき。散歩にいこう」
いい顔をして言っているが、明らかな現実逃避行為である。
ゆきはぐるぐると派手に体を振り回し、拒否の姿勢を見せた。さらにはそんなことをしている場合かと、激しく葉をばたつかせ抗議した。
「ふん、いくら止めたって無駄だぜ。どうせこのまま机に座ってても捗らないし、多分俺には気分転換のために外の空気を浴びることが必要みたいなんだ。ほらゆきも行くぞ」
晴太は明らかに乗り気でなさそうな相棒を鉢ごと持ち上げると階段を降り、そのまま玄関から外へと連れ出した。
ゆきの外見はどうみても普通の観葉植物であるからして、会話しているところさえ目撃されなければ外で連れ歩いても問題はない。
晴太はゆきを自転車の籠に入れると、ゆっくりと漕ぎ出した。
天気は雲一つない快晴である。暖かい日差しと心地よい風を浴びながら、晴太はまるでテストの存在など最初からなかったかの如く能天気な口調で語りかけた。
「どうだゆき。お日様が気持ちいいだろ。はは、まさに絶好のお散歩日和だな」
ゆきからのリアクションはなかった。しかし晴太がふと籠の中に目を遣ると、不貞腐れていたはずのゆきは気持ちよさそうに身を乗り出して伸びていた。
彼は目を細め、さらに自転車を漕ぎ進めた。
なんとなしに自転車の足が止まったのは個人経営の小さなフラワーショップの前だった。
当然店先には色とりどりの花がぎっしりと並んでいる。
晴太はそれらとゆきを見比べながら、自信たっぷりに言い放った。
「うーん、花は付いちゃいないが、葉姿や枝の付きぶりの美しさはこのどれよりもゆきのほうが上だな。間違いない」
するとゆきはまるで腕組みをするように枝を絡ませ、さも当たり前のように頷いた。晴太は晴太で中々の親バカであるが、ゆき本人も中々のナルシストである。
さらにゆきは得意気な様子でジェスチャーをし、晴太にとって中々に衝撃的な情報を伝えた。
「えっ、お前ってもうすぐ花を付けるの? ……ああそうか、もうそろそろそんな時期か」
晴太はこれまでの長い付き合いにおいて、ゆきの花というものを見たことがない。
ゆえに完全に彼の記憶から抜け落ちていたのだが、彼は以前鋼鉄から淡雪草は十年に一度だけ花をつけるものだと説明を受けていたことを思い出した。
「私の花はこいつらとは比べ物にならないほど綺麗だから期待していろ? そうか、それは楽しみだな」
晴太はゆきの花をつけた姿を想像し、楽しみという言葉とは裏腹に少々の不安を感じていた。
鋼鉄の言っていたことが本当ならばそれは彼にとって少々、心臓に悪いイベントになり兼ねないからである。
「おや。君、珍しい植物を持っているね」
「えっ?」
不用意に店の前で立ち止まって考え込んだのは慎重な晴太らしくない失策だったと言わざるを得ない。
彼に声を掛けたのはショップの店主らしき眼鏡を掛けた中年の男だった。
ゆきはすかさずぴたりと動きを止めて観葉植物に擬態したが、店主は興味津々といった様子でまじまじとそのほうを見つめていた。
一見普通の植物にしか見えないとはいえ、相手が専門家となると話は別である。
「ふむ。ナデシコ科の植物に似ているけど、見ない形をしているなあ。君、それをどこで手に入れたんだい」
店主は目をギラつかせながら問いかけた。晴太は焦りつつ、苦し紛れに答えた。
「えっと、叔父さんから種をもらったんです」
「そうか……。うんうん、かなりの美人さんだね。それによく手入れされている。これからもその子のこと、大事にしてやってくれよ」
「えっ? はい、勿論です。あの、急いでるので俺はこれで」
「ああ。慌てて籠から落としたりしないようにな」
あまり突っ込んだことを聞かれずに済んだことに対して胸を撫で下ろしつつ、晴太は再び自転車を走らせた。
褒められたことがよほど嬉しかったのか、足取りは軽く、またゆきは喜んだ犬の尻尾のように茎を小刻みに左右に揺らしていた。
「着いたぞ。ここが目的地だ」
晴太が再び自転車を止めたのはとある山道の途中であった。
そこはちょうど街を一望できる見晴らしのいい場所であり、彼は以前にも何度かゆきを連れてここに来たことがあった。
晴太は周りに人がいないことを確認すると、ゆきを日当たりのいい地面の上に置き、自分は近くの木陰に腰を下ろした。
「ふぁああ、相変わらずいい眺めだなあ。お前もそう思うだろ?」
人のいる街とはまた違った新鮮な空気と、長閑な時間の流れ。
自身の気分転換の為でもあるが、晴太は久しぶりにゆきにその空気を味わわせてやりたかった。
無防備に枝を垂らしてくつろぐ相棒の姿に萌えながら、晴太はふとゆきと出会った頃のことを振り返っていた。
実を言うと晴太が最初にこの山にゆきを連れて来たときは、ゆきを捨てるためであった。
人の言葉を理解して反応を示すこの異界の植物を不気味に感じた当時の晴太は、あろうことかゆきをこの山に置き去りにして逃げるつもりでいた。
「でも結局、置いてかないでってあまりに必死に嘆願するもんだから可哀想になっちゃったんだよなあ」
以来、ずっとこの二人は一緒である。
思えばその頃から彼には他人と心の距離を置く癖がついており、思えばその頃から彼はゆきのような存在を必要としていた。
「いつか可愛い彼女でも作りたいとは思うけど、今はゆきがいればそれでいいかな」
晴太は聞こえないように小さく呟いた。
小一時間ほどゆきに日光浴をプレゼントした後、晴太は山を下った。
その後帰宅してからの晴太の勉強は、まあそこそこ程度には捗ったのだった。