白薔薇との再会
アルバ・クレールが店に現れたのは、開店から十日後のことだった。
午後二時。客が途切れた時間帯。
城が厨房でマドレーヌの仕込みをしていると、扉のベルが鳴った。
顔を上げる。
ガラス越しに見えた人影で、城の手が止まった。
金髪で長身、そして白いコートが潮風に揺れている。
城は手を拭いて、厨房から出た。
扉が開いた。
入ってきた女性は、店内をゆっくりと見回した。
白い外壁、小さなショーケース、木のカウンター、ハンドメイドの看板。
その視線が、最後に城のところで止まった。
「……久しぶりね、〈サイレントキリング〉」
流暢な日本語だった。かすかにフランス語のイントネーションが残っている。
城は答えなかった。
「まさかこんな場所にいるとは思わなかったけれど」
アルバ・クレール。コードネーム〈白薔薇〉。元A級暗殺者。
ヨーロッパを中心に活動していた同業者で、城とは過去に三度、同じ現場に立ったことがある。
業界では「感情のない人形」と呼ばれていた。
城の目には、そうは見えなかったことがあったが、それは黙っていた。
「エプロン姿は、初めて見たわ」
「そうだろうな」
「似合っていない」
「知っている」
城はカウンターの中に入った。
「何か飲むか?」
「……コーヒーお願い」
「砂糖は?」
「いらない」
城がコーヒーを淹れる間、アルバはカウンター席に座った。
ショーケースを見ている。視線が、プリンのところで少し止まった気がした。
◆
コーヒーを出した。
アルバがカップを受け取り一口飲む。
黙っている。
「こんな所に何しに来た?」
城が先に言った。
アルバがカップを置いた。
「引退‥本気なの?」
「ああ、本気だ」
「鴻上から聞いたわ。S級が突然辞めたって、業界がざわついてる」
「知ったことじゃない」
「私はそうは思わない」
アルバが城を見た。
灰色の目が、まっすぐ射抜く。
「あなたの腕が必要な依頼がある。報酬は今までの三倍出る。一件だけでいい。終わったら本当に引退してくれていい」
城は答えなかった。
「……ねえ、聞いてる?」
「ああ、聞いている」城はカウンターを拭いた。
「断る」
「そう、理由を聞いてもいい?」
「言った通りだ。引退した。もうその手の仕事はしない」
アルバが眉をわずかに動かした。
感情の乏しい顔に、かすかな戸惑いが滲んだ。
「……なぜ、菓子屋なの」
「親父が遺した店だ」
「それだけ?」
「それだけで十分だ」
沈黙。
アルバが再びコーヒーを口に運ぶ。
城はマドレーヌの仕込みに戻ろうとした。
「ねえ、城」
「なんだ」
「あれ、プリン?」
アルバが視線をショーケースに向けたまま言った。
声がほんの少しだけ変わった。
それは温度が一度上がったような、そんな変わり方だった。
城は振り返った。
「そうだが」
「……一個、もらえる?」
城がプリンを皿に盛って出した。
アルバがスプーンを手に取る。
一口、食べた。
「‥‥」
何も言わない。
もう一口、食べた。
城は黙って観察していた。
アルバの頬が赤くなり、口角がかすかに上がっていた。
「……顔が赤いぞ?」
「暑いだけよ」
「二月だが‥」
「暖房が効いてるのね」
「いや、暖房はつけていない」
アルバがスプーンを止めた。城を見た。
城はアルバを見返した。
「……美味しい」
ほとんど聞こえないような声だった。
「プリン、好きか?」
「……別に、甘いものが嫌いじゃないだけよ」
「そうか」
城は何も言わなかった。アルバも何も言わなかった。
アルバがプリンを食べ終わる。
皿が空になる。
少しの間、アルバは空の皿を見ていた。
「もう一個」
「あと二個あるぞ?」
「……じゃあ一個だけ」
城が二個目を出した。
アルバはまた食べたが、城は何も言わなかった。
◆
「引退は、撤回しないの?」
食べ終わってから、アルバが言った。
「しない」
「そう、分かった」
アルバがコートのボタンを留める。立ち上がる。財布を出す。
「いくら?」
「プリン二個とコーヒーで、九百円だ」
アルバが千円札を置いた。
「お釣りは」
「いらないわ」
踵を返して歩き出す。
扉に手をかけて、止まった。
振り返らずに言う。
「……また来るかもしれない」
「依頼の話は受けないぞ」
「分かってる」少し間があった。
「プリンが、また食べたくなるかもしれないから」
扉が閉まった。
城は百円玉のお釣りをレジに入れた。
(また来る、か)
業界で「感情のない人形」と言われた女が、プリンを美味しそうに食べていた。
城はそれを、特に誰かに言うつもりはなかった。
◆
三日後。
アルバがまた来た。
コーヒーを頼んで、プリンを頼む。
食べ終わったらそのまま帰った。
五日後。
また来た。
今日はガトーショコラも頼んで食べた。
食べた時アルバは少し目を閉じた。
「……甘いわね」
「チョコレートのケーキだからな」
「分かってる」少し間があった。
「美味しい、という意味よ」
「そうか」
一週間後。
またアルバが来た時、ちょうど良いタイミングで茉莉もいた。
カウンターで城にマドレーヌの配合を教えていた茉莉が、入ってきたアルバを見て、固まった。
アルバも茉莉を見て、一瞬だけ止まった。
城が二人を順番に見た。
「ああ茉莉、こっちはアルバ。昔の知り合いだ」
「昔の、知り合い」
「そうだ」
「……どんな知り合いですか」
「仕事関係だ」
茉莉がアルバを見る。アルバが茉莉を見る。
アルバが先に口を開いた。
「城の、教え子?」
「違います。私が教えてる方です」茉莉が背筋を伸ばした。
「製菓専門学校に通ってます。城さんには“私“が菓子作りを教えてます」
「そう」アルバがカウンターに座った。
「城のプリン、美味しいわよ。あなたが教えたの?」
茉莉が少し、顔を赤くした。
「……そ、そうですけど」
「上手く教えてるわ」
「……どうも」
茉莉がそっぽを向いた。城はコーヒーを三つ淹れた。
◆
その日の閉店後。
茉莉が帰り際に、小声で城に言った。
「あの人、何者ですか?」
「昔の同僚だ」
「……同僚」茉莉がアルバが座っていたカウンター席を見た。
「なんか、すごい人ですよね」
「そうだな」
「城さんと同じ雰囲気がする」
城は何も言わなかった。
「…………城さんって、前は何の仕事してたんですか?」
少しの沈黙。
「すまんな、教えられない仕事だ」
茉莉が城を見た。城は茉莉を見た。
茉莉が先に視線を外した。
「……まあ、聞かなくていいですけど。プリンが美味しければ、それでいいです」
「そうか」
「そうです」
茉莉がエプロンをリュックに押し込んで、勝手口に向かった。
振り返らずに言う。
「次は、タルトを教えます。卵と小麦粉と砂糖とバターだけで別物が作れる、って覚えておいてください」
「分かった」
「じゃあ、帰りますね!」
扉が閉まった。
城は一人になった。
コーヒーカップが三つ、カウンターに並んでいる。
城はそれを洗いながら、今日のことを思った。
甘いものが好きな、アルバ。
知り合いというだけで警戒する茉莉製菓学生。
(少し賑やかになってきたな)
悪い気はしなかった。
これも父が予想していたことだろうか、と思った。
たぶん、していない。
していないだろうが——
きっと、笑っている気がした。




