第1話 月晶を産む者【ジル】
目が覚めたとき、ジルは、自分の身体の奥に小さな重みが生まれているのを感じた。
まだ朝の光は薄い。
カーテンの向こうで、街がゆっくり目を覚まし始めている。遠くで車輪の音がして、窓の外を飛んでいく小さな魔法灯が、淡い光を残して消えた。
ジルは布団の中でしばらく動かなかった。
身体の中心に、ほんの少しだけ違和感がある。
痛い、というほどではない。
むしろ、毎月知っている感覚だった。
「……始まったかな」
呟いて、目を閉じる。
身体の中で、魔力がゆっくり動いていた。
血液とは違う。
呼吸とも違う。
自分の意思では動かしていないのに、確かにそこにあるもの。
身体の奥で生まれた魔力が、いつものように少しずつ集まり始めている。
ジルは枕元の時計を見た。
午前六時十二分。
月晶館へ連絡するには、少し早い。
でも、もう一度眠れる気もしなかった。
起き上がる。
その瞬間、腹の奥がきゅっと縮んだ。
「……う」
ジルは反射的に身体を丸める。
しばらく待つ。
痛みはすぐに引いた。
「今月も、これか」
ため息をついて、ベッドの脇に置いていた水を飲む。
月晶の形成が始まると、ジルにはいつも少しだけ吐き気が出る。
それから眠い。
身体が重い。
食欲も少し落ちる。
どれも珍しいことではない。
ジルにとっては、風邪を引いたときのようなものだった。
ただ、数日間だけ。
身体の中で、ひとつの月晶が育つ。
それが終われば、今度は外へ出す。
毎月繰り返していることだ。
だからジルは、さほど慌てなかった。
洗面所へ向かい、顔を洗う。
鏡の中の自分は、少し眠そうだった。
「今年何個目だっけ」
そんなことを考えて、笑う。
数えるのは、とっくにやめていた。
*
月晶館へ連絡をすると、担当の晶守がすぐに返事をくれた。
『おはようございます。始まりました?』
「たぶん。さっきからちょっと気持ち悪くて」
『では、いつも通りで大丈夫です。今日のお昼頃、診てもらいましょう』
「はーい」
『荷物はもうまとめています?』
「……まだ」
『ジル』
「今やります」
『よろしい』
電話を切って、ジルは笑った。
毎月、同じやり取りをしている。
月晶館へ行く。
形成を確認する。
数日過ごす。
形成が終わったら排出の日を決める。
排出する。
鑑定してもらう。
月晶を売る。
家へ帰る。
それだけ。
それだけなのに、月晶が形成される時期だけは、少しだけ生活の時間が変わる。
ジルは着替えて、必要なものを鞄に詰めた。
着替え。
歯ブラシ。
本。
充電器。
それから、いつもの小さな袋。
中には、月晶館へ持っていくための身の回り品が入っている。
「よし」
鞄を閉じる。
外へ出ると、朝の街はいつも通りだった。
パン屋から焼きたての匂いがする。
向かいの店では、店員が指先に小さな魔法を灯して、棚の埃を払っている。
通りを歩く人の中には、魔法道具を使っている者もいる。
特別な光景ではない。
魔法は、この街では水道や電気と同じくらい、生活の中にある。
ジルも、家ではよく使う。
火をつける。
窓を閉める。
少し重い荷物を浮かせる。
そういう、ごく小さな魔法なら誰でも使える。
ただし。
ジルのようなセレノ族だけは、少し事情が違う。
身体の中で、魔力を作る。
生きるために必要な分よりも、少し多く。
余った魔力は身体の中に溜まり続けることができない。
だから、結晶になる。
『月晶』になる。
それがセレノ族の身体だった。
ジルはそんなことを考えながら、月晶館へ向かった。
*
月晶館は、街の中心から少し離れた場所にある。
大きな石造りの建物だった。
正面には、月を模した銀色の紋章。
扉を開けると、受付の晶守が顔を上げた。
「おはようございます、ジル」
「おはようございます」
「今月も来ましたね」
「来ました」
「顔色、いつも通りです」
「それは褒めてる?」
「もちろん」
笑いながら、受付の晶守が手元の記録を確認する。
月晶館には、月晶を形成中のセレノが何人もいる。
毎月ここへ来る者。
形成期間だけ泊まる者。
普段から館で暮らしている者。
仕事をしながら、数日だけ休みを取って来る者。
理由はそれぞれだ。
ジルはその中でも、ごく普通の利用者だった。
「では、診察室へ」
「はい」
廊下を歩く。
途中、ソファに座っているセレノがいた。
「ジル、おはよ」
「おはよう」
「今月もう始まった?」
「うん。そっちは?」
「昨日」
「じゃあ一日先輩だ」
「そういう数え方する?」
二人で笑う。
その横を、晶守が月晶の資料を抱えて通り過ぎていく。
壁には、いくつかの案内が掲示されていた。
形成中の魔力管理について。
排出時の注意事項。
月晶の所有権について。
売却について。
そして、見学者向けの案内。
『月晶形成見学室』
ジルは何気なくそこを見る。
今日は公開形成の日ではないらしい。
その隣には、小さな子供向けの説明板があった。
『セレノの身体では、毎月新しい月晶が形成されます』
かわいらしい絵が描かれている。
ジルは少しだけ足を止めた。
自分の身体で起こっていることを、外の人が見に来る。
それもまた、月晶館では珍しいことではない。
「ジル?」
「あ、ごめん」
晶守に呼ばれて、歩き出した。
*
診察室では、身体の状態と魔力の流れを確認された。
「はい。形成、始まっていますね」
「やっぱり」
「予定通りです。今のところ特に問題ありません」
晶守が魔力測定器を確認する。
淡い光が、ジルの身体の周りに浮かんでは消える。
「今月は少し早いですね」
「そう?」
「前回より半日ほど」
「じゃあ、早く終わる?」
「そこは分かりません」
「ですよねー」
ジルは椅子の背にもたれた。
身体の奥では、まだ魔力が動いている。
目には見えない。
でも、自分には分かる。
少しずつ。
少しずつ。
自分の中にあるものが、形を持ちはじめている。
「じゃあ、今日から館で過ごします」
「はい。いつもの部屋を取ってあります」
「ありがとう」
「何かあったら、すぐ呼んでください」
「分かってます」
ジルは立ち上がる。
そのとき、また腹の奥がきゅっと痛んだ。
「……っ」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫。いつもの」
晶守は心配そうにジルを見る。
「無理はしないでくださいね」
「分かってるって」
ジルは笑った。
この痛みも、数日で終わる。
そのあとに待っているのは、排出だ。
そして、その先にはいつもの生活がある。
だから今は、これでいい。
*
三日目。
ジルは朝から眠っていた。
目を覚まして、ぼんやり天井を見る。
身体が重い。
魔力の動きも、かなり強くなっている。
形成はもう終盤だった。
「……そろそろかな」
ベッドから起き上がる。
昨日までより、少しだけ身体が軽い。
その代わり、腹の奥にははっきりとした存在感がある。
ジルは自分の身体に手を当てる。
そこには、まだ外からは何も見えない。
けれど確かに、
自分の中で月晶が形になっている。
数日間かけて育ててきた魔力が、もうひとつのまとまりになっている。
ジルは不思議な気持ちで、それを感じていた。
嫌ではない。
怖くもない。
ただ、
「今回もちゃんとできたな」
と思う。
*
四日目の午後。
「形成、完了しています」
晶守が告げた。
ジルは小さく息を吐いた。
「じゃあ、排出ですね」
「はい」
ここから先は、日程を決める。
排出室の空き。
担当する晶守。
個室か、共同の排出室か。
ジルは少し考えてから、
「いつもの個室で」
と答えた。
「時間は?」
「午後でお願いします」
「分かりました」
予定表に書き込まれる。
たったそれだけのことなのに、ジルは少し緊張した。
形成が終わった。
なら、次は出す。
分かっている。
毎月のことだ。
それでも排出だけは、いつも少しだけ身構える。
「明日の十四時でどうですか?」
「大丈夫です」
「では、明日の十四時」
「はい」
決まった。
*
翌日。
排出室は静かだった。
白い壁。
柔らかな照明。
身体を支えるための椅子。
必要な魔法具。
晶守がそばにいる。
ジルは椅子に座り、ゆっくり息を吐いた。
「大丈夫ですか?」
「うん」
「では、いつでも」
「始めます」
身体の奥が震える。
魔力が大きく動く。
ジルは目を閉じた。
力を込める。
「……っ」
痛みが来る。
形成のときとは違う。
身体の中で育っていたものが、今度は外へ向かっている。
ジルは呼吸を整える。
「ゆっくりで大丈夫です」
晶守の声がする。
もう一度、力を込める。
「……んっっ……」
身体の奥で、何かがほどける。
強い魔力が一瞬だけ部屋を満たした。
そして――
ジルの身体から、外へ出た。
足元に転がるそれを、晶守が受け止める。
手のひらに収まるほどの、淡い光を宿した楕円形の結晶。
ジルはその瞬間、大きく息を吐いた。
「……終わった」
「はい。お疲れさまでした」
身体から力が抜ける。
さっきまであれほど重かった身体が、急に軽くなった。
ジルは目を閉じたまま、しばらく動かなかった。
毎月、同じ。
けれど毎月、少しだけ違う。
それでも。
「今回も、無事」
そう呟く。
晶守が笑った。
「はい。無事です」
*
その月晶は、すぐに鑑定室へ運ばれた。
ジルも同席する。
鑑定士が月晶を光にかざす。
魔力を流す。
結晶の表面に、淡い紋様が浮かんだ。
「魔力効率上昇ですね」
「へえ」
「比較的扱いやすい効果です。需要もあります」
鑑定士が記録を書き込む。
「状態も良好。相場としては――」
提示された金額を見て、ジルは少し考えた。
売る。
それがジルの選択だった。
「お願いします」
「承知しました」
月晶が、専用の容器へ収められる。
数日間、自分の身体の中にあったもの。
今はもう、自分のものではない。
誰かが買う。
誰かが使う。
誰かの魔法を、少しだけ強くする。
ジルはそれを見送った。
寂しいとは思わなかった。
これもいつものことだ。
*
ジルは月晶館を出た。
外はもう暗くなっていた。
街には魔法灯が浮かんでいる。
店の窓から、夕食の匂いがする。
通りを歩く人の中に、月晶を使っている人もいる。
腕に淡い光をまとわせて荷物を運ぶ人。
小さな炎を指先に灯している子供。
空中に浮かぶ荷物を操りながら歩いている商人。
ジルはその光景を眺めながら歩く。
つい数時間前まで、自分の身体の中にあった魔力の結晶も、きっといつかこの街のどこかで使われる。
そう思うと、少しだけ不思議だった。
でも、ジルの生活はもう戻っている。
次の仕事。
次の休日。
次の食事。
そして――
来月。
また形成が始まる。
そのときになれば、また月晶館へ行けばいい。
ジルは振り返った。
夜の街の向こうに、月晶館の銀色の紋章が見える。
月の形をした、大きな光。
セレノたちが、毎月帰ってくる場所。
ジルは小さく手を振ってから、家へ向かって歩き出した。
月晶館の扉が、静かに閉じる。
そしてその中では、もう次のセレノの身体に、新しい魔力が集まり始めていた。




