第十九話『闇夜と朝日の境界に』
「ああ――逝ったか」
天井の見えぬ白亜の塔。霞む上空は淡い光に包まれて、内部に流れる時間が酷くゆっくりに見える……そんな錯覚を訪れる者に与えるだろう。
『教会』の総本山たる大聖堂で、白いローブの人間が一人、小さく呟いた。聞く者に畏怖と崇敬を与える、中性的なその声。常に何らかの、主に『愉快』の感情を込めているその人物にしては珍しく、今日は何の感情もこもっていない、静かな声だった。
いいや、何もこもっていないのではない。こめることができないのだ。誰かとの別離も、それに付随する心の機微も、人として当然持っているであろう数々の情動も。そのどれ一つとして持ち合わせぬ三代目ファザー・スピターマには、遠く東方の海で起こった一幕、その終着点を感じ取ったとしても、どのような反応をすればいいのか、分からなかったのだ。
弱ったな、と、自嘲気味に笑う。自分はもっと人間的、というか、『最もパルス的である』と信じていたのに—―どうやら思っていたよりも、ずっと非人間であったらしい。今ここに『彼』がいたならば、それは人を導く超越者としての証拠、猊下が真に救世主たるものの証でございます、とでも言ったのだろうか。
ハレルヤザグナル・キュリオスハート。奇妙な男だった。
三代目ファザー・スピターマが物心ついた時には、既に彼は『教会』の実権を殆ど掌握していた。『教会』は『長』の座に選ばれた者を最高権力とする、国家運営に照らし合わせるなら専制君主の組織だ。ファザー・スピターマの決定こそが全てであり、その意志の下、全ての機能が決定される。だがファザー・スピターマは政治のプロではない。元来その役割とは聖霊との交信や予言であり、組織のトップではない。そもそもの話、ファザーなる位が受け継がれていくのも、初代ファザー・スピターマが、善悪大戦の折に善側の先頭で戦っていた――ただそれだけの理由なのだ。
故にこそ、ファザーの代わりに実質的に教会を支配する者、というのは、往々にして別に存在するはずだ。『教会』が似たような構造の組織と大きく異なっていたのは、その権力者、というのが、この世界の数百年に渡る歴史の中で、常にあの老獪であった、ということだろう。彼は旧時代文明の頃から生きている、と言っていた。最初の肉体が、二代目ファザー・スピターマの代に限界を迎えたために、途中で乗り換えた、とも。
どのような手段でそれを成し遂げたのかは分からない。だが彼が、人間の寿命を極端に伸ばしたり、別の肉体を用意し、移り変わる力を所持していたのは確かだった。その力を以て、彼は平均寿命が四十代であったという善悪戦争当時の人間だった初代ファザーを百年以上に渡って生き永らえさせ、二代目も同様にした。恐らく、自分もそうなのだろう。
この世界には何人か、正当な手段で聖霊から授けられたものではない、非正規の法術を操る人物がいる。スピターマの知るうち、特級法術師七名の内三人がそれに該当した。一人は第四席、ガブリエラ・イスラーフィール。一人は第六席、シロナ・ソフィアオウル。そしてもう一人が、第七席、ハレルヤザグナル・キュリオスハートだ、というのは確かだ。彼の『ウォフマナフ』は、本来の『展開型ウォフマナフ』の名を借りているだけの、別の何かだ。
きっとそれを、人はこう呼ぶのだろう――『魔法』と。
無論、魔術と法術の間に生まれるという、堕ちた法術とは別の意味で。
「不安になれば、いつでも君が魔法をかけてくれた……ふふふ、今気が付いたけど、僕はどうやら相当、『じいや』が居なければ何もできない甘えん坊だったようだよ」
もう、この世界のどこにも存在しない、世話役に向かって語り掛ける。いつもなら即座に返ってきたしわがれ声が聞こえないのは、酷く違和感のある状況だ。
五百年の時を渡った彼の魂は、もうどうにもならないほどに限界を迎えていたはずだ。中には数百万の時を超えてなお強靭さを保つ魂もあると聞くが、ハレルヤザグナルは自らがそれである、とは決して認めなかった。そしてそれはスピターマも理解している。ハレルヤザグナルは本来、世界を渡るような器の人物ではなかったのである。
そんな彼が、己の魂を削ってまで三人のファザーに成し遂げてほしかったこととは、一体何なのだろうか? 彼をそこまでして駆り立てたのは、一体どのような未来だったのだろうか?
——答えは一つだ。
「君が遺したこの使命、果たして見せよう。僕は必ずや『救世主』の力を手に入れる。そして救って見せる、この世界を。つなげて見せる、あの橋の向こう側に」
ファザー・スピターマは、白銀の瞳を、白く霞む聖堂の頂点へと向けた。そこに写るのは、最早絵空事とは言えなくなった世界。二人のファザーと、『言の葉の継承者』が目指した、救済の未来。
いつも通りに口元を緩めて、法術師たちの頂点は宣戦する。
「待っているが良い、シュウ・フェリドゥーン……真の救世主になるのは、この僕だ」
***
うっすらと明らみ始めた大空を、濃紺色の巨体が舞った。水しぶきと共に腹をくの字に曲げ、激痛の悲鳴を上げるそれは、母艦級魔物『ケイオス・ケートス』である。
以前船を襲ってきたクラーケンの何倍もあるその全長は、まるで重力を喪ってしまったかのように、いとも簡単に吹き飛ばされていた。
下手人であるアルケイデスは、大きく振り上げた巨剣を逆手持ちに構え直す。アトラス・マージの重力制御を乗せた『ウルスラグナ』の一撃は、使い手には酷く軽く、対する受け手には異常な重さを感じさせる。加えて『ウルスラグナ』の展開する武器種は、剣の中でも最も幅広で、斬撃よりも打撃が得意とさえ言われるグレートソード。たとえどんな大型魔物であろうと、簡単に受け切ることは不可能だ。
既に戦闘開始から三十分余りが経過している。海岸線の魚人たちはほぼすべて駆逐された。アローンとロザリアのコンビネーションが存外に素晴らしく、極めて効率的にギルマンの大群を捌き切ったのだ。同門ゆえに技を知り尽くしていた、ということもあるのだろう。アローンの天候観測能力、正しくは空間観測の力がギルマンを一撃死させる『死点』を、個体ごとに事細かに指定。そこをロザリアの正確無比な刺突が貫き、レイピアを引き抜いてはまた次の個体を即死させていく――いっそ作業ともいえるほど、その戦いは一方的だった。
それゆえにアルケイデスはケイオス・ケートスとの戦闘に集中できた。故郷である中央大陸西方の海によく出没する母艦系だ。その生態は熟知しているし、倒し方も心得ている。
ケートスの身体は分厚い肉で覆われている。弾力性に富み斬り付けにくいが、反面、斬撃を通すことに成功した場合のダメージが大きい。巨体であるケートスは非常に体力が多く、持久力もある上にその体を活かして津波を引き起こしたり、尾による打撃、咆哮による音響衝撃波、そして潮を砲の如く噴き上げる遠距離攻撃と多彩な攻撃手段を持つため、この肉壁へのダメージを蓄積させることで弱らせ、戦闘を有利に運びやすくすることが可能なのだ。
無論、アルケイデスほどの攻撃力があれば、そんなセオリーに頼らずとも、一方的な戦闘が可能だ。加えて今回、相手は一体ではなく三体である。あまり時間をかけていることもできない。
まずはアトラス・マージの重力操作で自由を奪い、次いでステュムパリデス・マージによる多次元攻撃で全身の肉壁をびりびりに破く。機動力と攻撃力が低下した大鯨など恐るるに足りない。各個撃破でフィニッシュだ。
既に二体は倒し、塵へと還した。今打ち上げた個体が、最後のケイオス・ケートス。
「——ふんッ!!」
大地を揺るがす強烈な踏み込み。アルケイデスの身体が大きく上空へと射出される。大鯨のさらに上空へと陣取った『英雄』は、ケイオス・ケートスの分厚い肉へと白銀の巨剣を突き立てた。重力操作に寄って勢いのついた自由落下が、刺突の威力を大きく引き上げる。
もしもその瞬間を、影絵のように見たのであれば。刃を構えた屈強な体と、見上げるような巨体が交差した――そのようにだけ、見えた事だろう。
貫く、というよりは、引き裂き、内部を滅茶苦茶にする、と言っても過言ではない、いっそ残虐性さえ感じさせる貫通攻撃。
浅瀬へと着地したアルケイデスが、ゆっくりとその構えを解くと同時に、ケイオス・ケートスは胴体に大きく開いた孔を中心として、無数の肉片へと爆散。その欠片たちも、地上へと落下する前に灰色の塵と化して消滅した。
爆発の閃光が闇夜を照らす。銀の巨剣から魔物の鮮血を滴らせ、アルケイデスは振り返る。海岸線、最後に残った魚人の一群を一掃するためだ。
——だがその必要はなかった。
「我が正義に光をくべよ――『波濤の一突き、天をも焦がすが如く』」
雷撃を纏った渦潮が、突如として地上に顕現する。それはドリルの如く空間を引き裂きながら、ギルマンたちを跡形もなく消し飛ばした。
海電の槍撃は遥か彼方まで奔っていく。そこには誰もいないというのに、止まることができないのだ。ああ、かつてならそんなことはなかっただろう。迫りくる老いに、法術の制御がしきれていないのだ。
それでも、その姿を自分に見せたのは。
代替わりの時だ、と示すためか。
老いてもなお、結局のところ『この程度で済んでいる』と笑っているからだろうか。
かつての師であるディン・バルガスが、鈍色の銛を手に立っていた。住民の避難誘導が完全に終了し、救援に駆け付けてくれたのだ。
「助かりました、先生」
「ふん。儂の力など無くとも完結していただろうが――まぁ、若い者だけに手柄はやらん、ということだと思って見逃せ」
くくっ、と渋い笑みを浮かべる老海兵。余裕をかましていると足下を掬ってくるのは、十年近くが経っても何も変わっていないようだ。
あたり一帯が、急に静かになる。先程までの戦乱の音はまるで聴こえない、いっそ不気味なほどに穏やかな潮騒。それはまるで、先の見えなかった戦が、思いのほかあっさりと終了したことを示しているかのようだった。
「お疲れ様、ローゼ」
「兄さんこそ」
アローンとロザリアが、ぱん、とハイタッチを交わす。何やら複雑な事情がありそうな二人だったが、きっとこの先も乗り越えるのだろう。はにかむその姿に、やたらと年寄りくさい目線を持ってしまう。
「な、なにっ、もう終わっているだと!? 馬鹿な、僕の華麗で格好いい活躍の瞬間は……!?」
「あははー……やっぱり強い人がいっぱいいると相手にならないねぇ」
バルガスについてきたと思しきエリックとリズベットの姿も見える。エリックの方は手柄でも立てたかったのか、随分と残念そうな顔で項垂れていた。
――「母艦級魔物ごとき、相手にならん」、か。
リズベットの苦笑に、かつての己であれば放っただろう言葉を省みる。『英雄』は文句なしの最強であった。無論海上においても母艦級は簡単に滅殺できたし、時間こそかかったが成長しきった守護者も、やりようによっては撃退できる。
今自分は拘束を外し、『英雄』の力を取り戻した。やはり圧倒的だ。この一種の全能感とも呼べるものが、以前の自分に「悪性存在の全滅」という、余りにも修羅に過ぎる道を選ばせたのかもしれない。
だが、その圧倒的な力は、今のアルケイデスには不要なものだ。
アルケイデスは、「あー終わった終わった」と暢気に伸びをしている元相棒の姿に苦笑しながら、彼女に向かって依頼する。
「イスラーフィール」
無論、事細かに言う必要はない。一言だけで、情報の女王は全てを理解し、適切な行動をとってくれるだろう。彼女は極めて面倒くさそうに顔をしかめると、しかしため息一つを置き土産に、きちんと願いを聞き届けてくれた。
「へいへい、分かりましたよっと……プロメテウス・マージ」
紡ぐ。
瞬間、アルケイデスの全身に満ちていた法力が、三分の一ほどまでに減衰した。
もともと『武装型ウルスラグナ』には、十の特殊技能と十二の奥義が備わっている。アトラス・マージを発動している場合に限り、そこに十三番目の奥義として『鋼の神の創世神話』が追加されるわけだが――これらに含まれない、いわば十一番目の特殊技能とでもいうべきものが搭載されていた。
それこそがプロメテウス・マージ。奥義は『天峰拘束、焔の待つは予言の刻』。
この力は極めて簡単に言ってしまえば、『ウルスラグナ』の安全装置だ。極めて深い『天則』への妄信――より正確に言うならば、『天則』に予言された未来を避けられ得ぬことへの確信と絶望を軸に発動するアルケイデス/マグナスの法術は、圧倒的な力を持つ代わりに、もしも暴走や反逆といった状況に置かれた場合、『教会』にとって絶大に不利益になる。
そのため、アルケイデスを特級法術師第二席の座から降ろすと決めたとき、キュリオスハート翁は彼に呪いをかけた。それこそが、法術の機能を制限するこの拘束だったわけである。何らかの形で自分が命を落としても発動を続けるように、法術の一部分へと組み込んだあたりが実に嫌らしい。どうやって成し遂げたのかは不明だが、しかし自分の子供たちの発言する法術をある程度コントロールする教育法を心得ていたような男だ。もしかしたら最初から、他人の法術に介入する方法を持っていたのかもしれない。
最も――一種の暗示、簡単な精神干渉であるプロメテウス・マージは、外部から簡単にはがすことができる。いや、簡単とは言っても、普通ならば法術に介入することなど不可能だ。しかしそれは、相手が普通ならば、の話。全ての情報系法術師の頂点に立ち、幻術によって情報の書き換えを可能とするガブリエラ・イスラーフィールは、決して『普通』の域には入らない超人だ。
「二度は使わん」
「ええーケチ。もっと使ってくれてもいいじゃないですかー」
「変にお前を傷つけても困るだろう、リエ」
「……!!」
スタイルの良いその体が、驚くほどきれいにフリーズする。受け取った情報と吐き出そうとする情報がブッキングしているのだろう。その姿だけを見れば、彼女もなんてことはない二十代女性のように思えるのだが。
「ま、まぁ、そこまで言うなら考えてやらんこともない……うん、学園が所持する戦力のコンディションを保つことも学園長として当然の仕事だからな」
照れ隠しでもしているつもりだろうか。公の場での言動と同じ、威圧感のある口調に戻ったイスラーフィールが、そっぽを向きながら早口でまくし立てる。やはり彼女はこうしている方が似合う。
ずっと昔、まだ何の力もなかった頃のアルケイデスは、多分イスラーフィールのそういうところに支えられていたのだと思うし、彼女がそんな人間だからこそ、自分を一度踏み外した道へと引きずり戻してくれたのだろう。
きっと――それが、誤魔化しようのない己の想いの源流なのだと、『英雄』は十年越しに気付くのだった。
その様子に何か感じたのだろうか。バルガスが可笑しそうにくつくつ笑う。
「相変わらず凸凹した奴らだ……ほれ、そんなことをやっている間に、終わった様だぞ」
彼がごつごつした指を彼方に向ければ、今まさに、太陽が昇ろうとしている水平線――その中央に。
少年少女たちの姿が、見え始めていた。長い長い闇夜と、これから先を示す朝日の境界に揺蕩う彼らは、いつもよりも距離が近く、打ち解けているように思える。
アルケイデスはそこに、善と悪の境界、その崩壊を見た。ああきっと彼らなら本当に、自分が諦めた未来を、掴むことができるのだろう。
それは善の勝利とも、悪の勝利とも違う、救済の世界だ。
「おぉーいお前ら、さっさと戻ってこーい!」
イスラーフィールが大声を張り上げる。何らかの法術か呪術でも使ったのだろうか。届くはず名の無い距離にいるのに、シュウたちもまた、それに気づいて手を振った。
その様子に、思わず破顔してしまう。ああなんと平和なのだろう。
夏の初め、動乱の一日は、こうして静かに、しかし確かに、幕を下ろしたのだった。




