第十八話『キュリオスハート』
クールマ島は、世界最大の母艦級海洋性魔物の甲羅であると同時に、陸生・水生問わず様々な魔物たちが生活する場所だ。シュウたちが上空からこの島の様子を観察したときにも、様々な生物が生活し、あまつさえ魔族までもが暮らしていた跡を確認することができていた。
だがその多くはきっと、まやかしであったのだろう。南方大陸に実在する、本物のアジ・クールマ。彼、もしくは彼女の背負ったクールマ島の様子を投影していただけのようだ。その証拠に、着陸したシュウたちがいくら周囲を見渡しても、魔物の姿は見られず、気配も感じ取ることができなかった。いや、そもそもの話、シュウは気配感知が苦手なのだが。
しかし不思議そうにあたりを見渡すアリアの姿を見る限り、本当に魔物たちは消えてしまったらしい。あれほどの大規模な精神干渉、どれほどの力があれば維持できるのだろうか。イスラーフィールの操る幻術とはまた違ったベクトルの異質さに、戦慄を隠すことができない。
足下を覆う草も、乱立する木々も、川のせせらぎも、聞こえる鳥の声も。どれも、わずかにこの世界の常識とは『ずれて』いた。
熱帯雨林のそれにも似た生態系から、極寒の北方大陸まで行かなければ見ることもできないような大型動物の足跡まで。ありとあらゆる風景が、まるでパッチワークのように混在する、不思議な空間。
日常生活の中では、決してこのような場所に足を踏み入れることはないだろう。しかしシュウたちは知っている。毎日のように潜り、腕を磨き、様々な戦いも、色々な出会いと思いでも築き上げてきた、近くて遠い場所と、この風景は良く似ていた。
異境とこの世界を繋ぐ『門』から這い出た、アリアたち魔族の世界。本来の生態系を侵食して展開した、魔物たちの跋扈する異風景。それを人々は『迷宮』と呼び、中央大陸の中心に陣取る巨大な森林型迷宮をこそ、人々はその名で呼称する。
すなわち、『樹海』と。
島の風景は、『樹海』の様子とよく似ていた。特に生態系や森林の生育速度・規模が明らかに狂っているあたりが実にそれっぽい。シュウは農作物以外の植物に詳しいわけではない。無論、農作物にもそこまで詳しいわけではないのだが。確かに農作業をしていたが、専業の農家になる前に法術師になってしまったがゆえに――いや、そういう話ではなく。
なんにせよ、そんなシュウであっても、さすがに身の丈数メートルを超すようなワラビが、一般的なそれと同種だとは信じられないし、そもそもワラビがそんなに成長しないことくらいわかっている。
木々の間を飛ぶ極彩色の鳥は、極東大陸の南部諸島でも見かけるクイナというやつの仲間だろう。だがクイナはあんなに高く飛ばない。師匠たちにつれられて、一度南部諸島に遊びに行った事があるから分かる。
そんな、この世界と似て非なる空間。
『異境』の一欠片は、前述の通り接続点たる『門』を通ってこの世界へと舞い降りる。
原則として、一つの門から流出する風景は一つだとされていた。しかしこの場合は明らかに、様々な風景が島一つに入り乱れ過ぎである。流石に霜の降りたバナナの木が自生する環境は考えられない。いや、もしかしたらするのかもしれないが。こう、一般人の想像力の範囲内では無理だ。
「こういう性質はやたらと忠実に再現していますのね」
「アジ・クールマも母艦級ですから、体内に『門』を持っていますから……」
「しかし、そうなるとさっきまで上にいた魔物たちも、別に幻影ではなく本物だったと考えていい気がするが……」
実際、アジ・クールマがクジラ型の海魔を何体も呼び寄せているのを見た。今でも海岸では、アルケイデスやイスラーフィールの主導の下、ギルマンや母艦級の掃討作戦が行われているのだろう。早く自分たちも根源を絶ち、彼らと合流しなくては。
そのためには、無数の海洋性魔物を放出する『門』を破壊して回る必要がある。ここまで景色を外側に引き出してしまった接続点だ。恐らくは守護者が存在しているだろう。
偽物とはいえ、全ての母艦級を統率する個体。世界の境界、その数も桁違いとみた。守護者との連戦は厳しい戦いになるだろう。あのアルケイデスですら苦戦する、最強クラスの魔物たちだ。
しかし今のシュウには、仲間たちと力を合わせれば絶対に負けない、という強い自信があった。
何か物理的、あるいは戦略的な視点、言うなれば事実の集合から導き出した結論ではない。通常、戦況を見極め、次の行動に移るための基盤には、決して使ってはならないとされる、感情論の類だ。そこには何の根拠もないし、思った通りの結末になる保証もない。
――そうだとしても。
「行こう。皆の力を俺に貸してくれ」
シュウは仲間たちの方を振り返ると、スラエオータナを一際強く握りしめて、呼びかける。
ふと、シュウは自分を見つめるマイヤの視線に気づく。いつものそれより、数倍優しい眼差しだ。なんだか恥ずかしくなってきてしまう。青色と言うのは精神鎮静効果がある、とどこぞで聞いた記憶が在るのだが、マイヤの宝石のような瞳は、むしろこちらの心拍数を上げに上げてはいまいか?
「ど……どうしたんだマイ。何かおかしなことをしただろうか、俺は」
「いいえ。寧ろ逆——先輩が、私たちを頼ってくれたことに、ちょっと感動していただけですよ」
静かに首を振ると、向日葵の様な笑顔を向けてくれるマイヤ。今まさに敵の牙城に乗り込もうという場面にも拘らず、得も言われぬ安心感を抱く。その笑顔にずっと支えられてきた。月夜での誓いを想うなら、これからもずっと、自分を支えてほしいと、そう思う。
そんな風に、考えるようになったことを。
「以前までの先輩なら、あんなことは言わなかったと思います。きっと自分には、誰も力を貸してはくれまいと……もしかしたら私たちに内緒で、一人で探索を始めてしまったかもしれません」
「あ……」
マイヤは、シュウの成長だと。
そう表現してくれたのだ。
「……駄目だったか?」
「まさか。そんなはずないじゃないですか。そうやってすぐに不安がる性格、先輩の悪いところですよ」
まぁ、そういうところも好きですけど、と、マイヤは軽く、けれどとても嬉しい付け足しをしてくれる。
「青髪だけに良いところは持って行かせませんわ! 私もご一緒します」
「ありがとう、頼もしいよ。でも、無理はしないでくれ。エリナに倒れられたら、俺も悲しい」
「了解ですわ! このエリナ、無理をしない程度に全力でお兄様をお助けいたします!」
嬉しそうな声を上げるエリナの姿に、シュウはぶんぶん左右に動く子犬の尻尾を幻視した。思わずふふっ、と小さな笑いが漏れる。
胸の奥が、ぼんやりと温かくなるのが分かった。
もう何度目になるかは分からないが、改めて、マイヤには感謝してもしきれないと、強く思う。だってそうだろう、どんな些細な変化でも、それが進歩だと褒めてくれる人なんて、誰にだっているわけではあるまい。それが愛しい恋人なら尚更だ。加えて自分の良くない所、改善すべきところまでしっかり分析・指摘したうえで、否定せずに包み込んでくれる――きっと普通の人にはできないことだ。
エリナにも新しい感謝を上げたい。自分でも気づいていないところで、きっとシュウは彼女に何度も勇気づけられているのだ。仲間たちを信じることができるようになったのも、マイヤと交わした約束に加えて、彼女の存在が関与しているのは想像に難くない。エリナがシュウを信じ、シュウを頼り、シュウを助けてくれるから、シュウもまた、彼女を信じ、頼ることができるのだ。
――自分は果報者だ。
こんなにも愛おしい少女たちと仲間でいられるだけでも恵まれているのに、その両方から、最大級の愛情を注いでもらえているだなんて。
その恩はきっと、一生をかけて返していかなくてはならないものだ。これから先、どんな未来を辿ることができるのか、まだシュウには自信がないけれど……きっとその不安も振り切って、彼女たちへの感謝を示していかなくてはなるまい。
そしてそのためにも、この偽りの海洋王を倒し、この世界の海に平穏を取り戻さなくては。
「ん……」
ぴくり、と。
少し離れたところで、アリアが閉じていた瞼を開けた。紅い瞳が映すのは、ここではないどこかの風景。風のささやきや川のせせらぎ、零れ落ちる氷河の音に耳を傾け、肌を預けていた彼女には、もうこの島の景色の全てが頭に入っているらしい。
彼女はついと顔を上げると、あたりを見渡しながら島の奥へと進んでいく。どうやら、何かを感じ取ったと見える。
シュウ達は頷くと、彼女の後を追う。
——『それ』は、すぐに目の前に現れた。
「……なんだこれは」
「扉……ですね……」
「旧時代的ですわ……なんというか、こう、カタルシス的なものが何もないですわね」
アリアに導かれてたどり着いたのは、『樹海』とよく似た森林の奥、少し開けた場所に鎮座していた、木張りで古風な扉であった。いかにもおんぼろ、と言った様子だが、使用されている木材は、これまでに実物・図鑑上の記録どちらをとっても見たことのない植物のものだ。作り方も少々乱雑で、シュウ達の世界における文明レベルよりは数段劣る様に思える。金属製のドアノブも、僅かに錆びつき始めていた。
魔族の作った扉――この場所に魔族が住んでいるわけではなかろう。恐らくだが、偽アジ・クールマへと化身する際に、キュリオスハート翁が作り出したものだ。『迷宮』を思わせる島の風景もそうだが、こういった部分には拘る人物だったらしい。
「劇場主義、といいますか……」
「そういうところに拘る姿勢、紛れもなくお父様のものです。あの人は結局のところ、物語の様な展開を求めていましたから」
懐かしむような。あるいは、忌々しいものに対する恨みを込めたような――どうとも形容のできない不思議な面持ちで、エリナはその扉を見つめる。
ハレルヤザグナル。
エリナの運命を捻じ曲げた、雑な言い方をすれば『悪人』であることに変わりはない。いかな『天則』の体現者とはいえ、その全てがイスラーフィールのような人物とは限らないし、むしろシュウたちにとっては敵対的な思想を持っている者の方が多いだろう。
しかし彼は、エリナにとってはやはり『父親』なのだろう。彼女をここまで育て、歪んだ形であっても導いたのは、他でもない七人目の特級法術師なのだ。
そも運命を捻じ曲げる影響力だけならイスラーフィールもアルケイデスもみんな持っている。下手をすればマイヤもそうだ。特級法術師、あるいはそうなるべき者は、皆そうだとでもいうのだろうか……?
アリアの赤い双眸が、静かにシュウを見つめてくる。ルビーの様な瞳に映る自分の顔が、思ったよりも緊張していないように見えて、ああ、自分も慣れてきたのだな、と自覚した。
——大丈夫だ。行ける。
「しゅう、いこう、このおくだよ」
「ああ……マイ、エリナ、いいか?」
「はい」
「勿論ですわ。決着をつけましょう」
全員で、頷き合う。
何かあった時に自分が仲間たちの盾になれるよう、シュウはスラエオータナを構えるとゆっくり扉を開く。存外に軽い。少し押すだけで、簡単に開いてしまった。
——だがその向こうに広がっていた景色は、想像だにしないモノだった。
シュウは本能的に、今自分が取るべき行動を自覚する。
「——マイ、絶対に俺の傍を離れないでくれ」
「え? ……ひゃっ」
困惑するマイヤを抱き寄せて、背中に闇の翼を展開。同時にスラエオータナを掲げると、その吸収効果を空間全体に向けて使用する。見る見るうちに翼が輝きを増し、一回りも二回りも巨大化した。
「エリナ、人格を魔族側に変えられるか?」
「お安い御用ですわ。ですが何故……」
両目が赤色に切り替わり『エリナ』の人格が表層に出た。そのまま彼女は小さな体を伸ばして、ひょいと扉の奥を見る。
「——!!」
彼女も、気付いたようだ。
ああ、気付かざるを得まい。
空気が違う。まるで違うのだ。シュウたちの住む世界からすれば、『淀んでいる』と言っても過言ではあるまい。『迷宮』の中でも極々稀にしか見られないという、空間の魔力が極端に濃くなる現象――『瘴気』だ。
いいや、それすらも適切ではあるまい。シュウたちの足を踏み入れた空間は、その瘴気状態すらも遥かに超越する、余りにも濃密な魔力で満ち満ちていた。
どうやら、周囲は森の様だった。扉を中心にして、半径5メートルほどが円形の広場になっているらしい。人の手が入った場所――にしては、誰かの命の気配はまるで感じられない。
見上げた空は、不気味なほどに薄暗く。
立ち込める雲は毒々しい紫紺。隙間から除く空の色は、鮮血を思わせる紅の色。
その中に在って、まるで天に浮かんだ坂月の様な、白銀の月だけが、爛々と照り輝いていた。
あまりにも異様——これまで読んだどの資料にも、訪れたどんな場所でも、こんな風景は見たことが無い。
「あ……」
声に振り返れば、アリアの身体に異変が起きていた。いや、それを異変と呼ぶのはおかしい。寧ろ、これまでの彼女の姿こそが、異変が起きた後の姿だったのだから。
アリアの、星屑の様な銀色の髪に包まれた側頭部。そこから出発し、緩く湾曲して後方に流れていた、黒曜石を思わせる一対の角。
それが、しゅわん、と快い音を立て、無数の粒子へと分解されてしまう。あるべき姿――彼女が暮らしていた世界における、魔族の本当の姿。
そう、魔族たちの世界だ。
あの扉を超えたこちら側は、アジ・クールマの体内などではなく。
シュウ達のそれとは、起源を同じくする別の世界——『異境』だったのである。
そこに満ちる魔力の密度たるや、恐らく人間たちの世界のどこを探しても、この場所と同等のものを見つけることはできないだろうと確信できるレベル。以前、『エリナ』の襲撃を受けたリズベットが全身に魔力を浴びてショック症状を起こしていたが、あれから分かる通り人間の身体は極めて濃度の高い魔力に耐えられるようにはできていない。
シュウはいい。スラエオータナの力がある。スラエオータナは魔力と法力を無効化し、吸収・コントロールする力を持っているからだ。また、エリナも構わない。彼女は『エリナ』を表に出すことで、疑似的に魔族としての力を手に入れることができる。アリアは言わずもがな、本来、こちらの世界の方が適正な居場所だ。
しかしマイヤは違う。彼女は普通の人間だ。何の対策も無しに長時間ここで過ごすのは、正直な話命にかかわる可能性が高い。
すぐに事態を収束させ、元の世界に戻らなければ。
その焦燥は、思わぬ形で解決されることになった。
「しゅう、あれ……」
アリアが、つい、と前方を指し示す。その白く細い指を辿っていけば、広間を囲む森の向こうから、何者かが姿を現すところだった。
それは、枯れ木のような容姿の老人だった。
誇張ではない。白く、萎れた法衣から覗く肌は驚くほどしわがれ、焦げ付いたような色をしている。
マイヤのような、育成学園の学年主席に与えられるそれとよく似た、しかしもっと豪奢な帯――教会で実際に使われているクスティを、男性の装着作法である腰紐として巻いたその姿は、一度だけ、こちらは女性作法であるストール状の装備ではあったが、イスラーフィールが纏っていた特級法術師の正装束。
足取りは驚くほど確か。フードの奥に見える瞳には、理解の出来ぬほどにぎらついた、妄執とも呼べる何かが見え隠れした。
——しかしその体は、半透明に透けていた。実体もないように見える。
「我々が『異境』と呼ぶ世界は、厳密にはここそのものではない。この世界は、あくまでその一端――移動型迷宮、『呪甲魔蛇』の内部を借りているに過ぎない」
見た目にたがわぬ、しわがれた声が紡がれる。力強い、とは言い難いが、良く通る声だ。聞いているだけで、奇妙な畏敬の念が湧いて来る。それは多分、エリナが時たま無意識に使う、自分を魅力的に思わせる精神干渉スキルと似たようなもので――
きん、と微かな音を立てて、スラエオータナが小さく輝く。途端に思考がクリアになった。スラエオータナが持つ法術破壊の力が、『展開型ウォフマナフ』による干渉を破ってくれたのだ。
その様子に、老人がくっ、と笑う気配声がした。彼は鷹揚に手を広げると、慇懃に語りかけてくる。
「無論、このように魂だけとなって残留するのに、ここほど最適な場所もないがね。迷宮はアンデッドの類に極めて寛容だ――お初お目にかかる、当代の『救世主』。それから、邪神の依代に――ああ、こちらは未覚醒に終わったようだが、貴女が此度の『青の魔女』か……そしてエリナ、我が娘よ。よくぞここまでたどり着いてくれた」
「おとう、さま……」
掠れたエリナの声が全てを物語っていた。
「キュリオスハート翁……」
マイヤの口から、その名が告げられる。
半ば幽霊のような状態で佇む老法術師こそが、特級法術師第七席、『言の葉の継承者』——
「いかにも。アーシェローカにおける我が名はハレルヤザグナル・キュリオスハート。本来の名前ではないが、それを告げたところで無意味だろう」
アジ・クールマの出現に伴う騒動、その全ての発端となった人物である。それどころかシュウにとっては、アリアを処刑するためにマグナスを遣わし、エリナを使って法術師たちを襲撃させた、これまで関わってきた大事件の全ての仕掛け手に当たる人物だ。
「なに、そう身構えなくてもいい。とっくに私は消え去る身……二百年など生ぬるい。五百年前、異なる世界からこの世界線へと召喚され、それからずっと、歴代のファザー・スピターマに仕えてきたが……二度も肉体を入れ替えた。流石に魂の方が限界だ。あの蛇の身がエリナに打ち倒されたその時に、私のサダメはもう決まったのだよ……ああ、実に惜しい。やはりお前を後継者にするべきだった、エリナ。お前を『救世主』の下へ向かわせたのは、我が生涯最大の失策であったか……いいや、やはりお前を使わなければ、仮初の肉体を作り出すほどの法術師の魂魄、集めることはできなんだ」
その口調は、子供の成長を喜ぶ父親のようだった。
以前エリナが、孤児院に居た頃、キュリオスハートが『良い父親』である、という概念に疑問を持つ子供は一人もいなかった、という話をしていた。この老賢者は常に正しくて、その行動に疑問を持つことこそがおかしなものなのだと。
きっとその考えは、彼のこういった口調や所作からも導き出されていたに違いない。まさしく、その全身が人を操ることに特化している。
――だが。
「恐れながら、キュリオスハート翁。エリナをモノのように言わないでいただきたい」
「ほう?」
暗く俯いた妹の表情を見れば、ハレルヤザグナルの言葉は、決して彼女を讃えるようなものではないのだと、はっきりと分かった。
要するに彼は、エリナに語り掛けているように見えて、その実一切彼女を見ていないのだ。己の差配と、それがもたらした結果だけが、キュリオスハートの瞳には映っている。
きっと、組織の上位に立つ者としては、非常に優れた視点なのだろう。だからこそ彼は、その言葉を信じるならば、この世界が分裂するより前からずっと『教会』の長を支え続けてくることができたのだ。
けれどその視点は、『父親』としては不合格だ。
「エリナは俺の妹です。彼女が妹として過ごしてくれた数日間は、血の繋がった家族の居ない俺にとって、かけがえのない宝物だ。その時間を否定することは、たとえ特級法術師であってもゆるしはしない。貴方が、エリナの父を名乗るのなら、なおさらだ」
自分にそれを語る資格があるのかは分からない。第一シュウには実の両親がいないし、誰かの父親というわけでもない。あくまでもその感想は、推測に基づくものでしかないのだ。
けれどエリナと過ごした時間はまやかしでも空想でもなければ、弄られた『認識』でもない。本物の、エリナがエリナとして積み重ねた時間。シュウと共有してくれた、大切な時間なのだ。
踏みにじらせなど、絶対にしない。
「……お兄様……」
「先輩……」
エリナの身体から緊張が抜ける。マイヤも腕の中で微笑んでくれた。それでこそ先輩です、と、褒めてくれたような気がする。するだけかもしれないが。
「ふ、ふふふ、ふはははは……」
フードの奥から、ひび割れた笑い声が漏れ出る。今にも崩れてしまいそうな半透明の身体をくつくつと揺らすハレルヤザグナル。彼は妙に納得がいった、と言わんばかりの表情を薄っすらと見せた後、どこか遠くを見つめて頷いた。
「ああ、やはり貴方は『救世主』だ、シュウ・フェリドゥーン……それに貴方が、他ならぬ貴方が、『時間』を語るとは……くくく、これも天則ということか。あの小童めの打ち立てた『天則』などではない、本物の――」
「なに……?」
——今彼が落とした情報は、とても重要なものだ。恐らくここで問い詰める必要性のあるタイプの。特に重大なのは、偽物の『天則』という言葉だ。それは何を意味するのだ? 『天則』とは、初代のファザー・スピターマが遺し、代々のファザー・スピターマが更新していく、この世界の終局予言ではないのか?
その意味を問うことは、しかしできなかった。理由は至極単純で、ハレルヤザグナルの半透明の身体が、ますます色を喪いながら、光の粒となって崩壊し始めたからだ。恐らくは『展開型ウォフマナフ』の力で維持していたと思しき、彼の魂がいよいよ限界を迎えたのだろう。
満足気に瞳を閉じて、ハレルヤザグナルは白い髭に覆われた口を、笑みの形に変えた。
「……どうやらここまでのようだ。私が消えれば、我が偽りの肉体たる儀式台も消え去る。海は冷たかろう。せいぜい、落下しないように気を付けてくれたまえ」
その口から最後まで、エリナに対する父親としての言葉は出なかった。
それは結局、彼にとってエリナはその程度の存在だったからなのだろうか。
それとも――
「ああそれから、最後に一つ言っておこう——おめでとう、シュウ・フェリドゥーン。君は紛うことなき『救世主』だ。我々の誰もが望んた通りに、君は覚醒を果たした。あとは――」
——彼の見定めた『救世主』に、全てを託したからだったのだろうか。
「その天則すらも超越しろ。そしてたどり着くが良い――あの橋の、向こう側に」
その言葉を残して。
五百年に渡りこの世界を見つめ、二百年間をその肉体を以て生きた『言の葉の継承者』は、今度こそ完全に、この世を去った。
後にはただ、『異境』の一部だという風景が、残るだけだった。
「……エリナ」
「いいえ……いいえ。悲しくなどありませんわ。お父様にとって私が記号でしかないように、私にとってもお父様は記号でしかない。ただ――」
声をかければ、エリナは気丈に応えてきた。その碧と紅の瞳に涙はないし、実際、暗い表情をしているわけでもない。しかし結局のところ、何の感情も表に出ていないように見えるのは。
「——ただ、最後まで家族として話をできなかったことは、少し寂しく思います」
どんな形であれ、キュリオスハート翁はエリナの『父親』だった、ということなのだろう。
振り切る様に首を左右に振ると、彼女は打って変わって明るい表情で、ぱん、と手を叩いた。
「ですから! 代わりにお兄様に家族になってもらいませんと! さぁ早く帰りますわよ。というかいつまでお兄様に引っ付いてるつもりなのですマイヤは!!」
「なっ……これはひっついてるわけではなく、『異境』で過ごすための応急処置的な行動であって――」
「……嫌だったか?」
「……そういうわけでもありません……」
正直離れてしまうのが惜しくもあります、と続けるマイヤ。なんとまぁ可愛らしい事を言ってくれるのだろうか。いつまでも抱き締めていたくなる。
だがそうもいかないのが辛いところだ。第一このままにしていると、憤怒のあまりフリーズしたエリナが復帰できなくなる気がする。
ずずん、と、遠くで重低音がした。何かが崩れる音だ。アジ・クールマが沈む、というのは本当の話なのだろう。早くこの異界から脱出しなければ、戻れなくなってしまうかもしれない。
「アリア、帰るぞ」
「あ――」
少し離れたところに立って、空を眺めていたアリアを呼ぶ。彼女は弾かれた様にこちらを見た。
——その表情が、これまで見たこともないほど、一切の感情が抜け落ちたもののように見えて……否、見たことはある。今のは、シュウと彼女が初めて出会ったとき。あの湖のほとりで、自分に語り掛けてきたときの彼女と、同じ顔だ。
あの時の彼女の言葉が、今のシュウには分かる。アリア=ザッハークは、シュウ・フェリドゥーンにこう言ったのだ。
「……どうかしたのか?」
「んーん、なんでもない」
——あなたも、おなじ。
——わたしと、おなじ。
ハレルヤザグナルの口にした言葉が、今更ながらに脳裏によみがえる。彼はアリアを『邪神の依代』と表現した。
聞いたことなど、一度もないはずなのに――その名前が、どうにも頭から離れない。
——脳の奥、自分でも分からないどこかで。
聞いたことがあるはずなのに、聞いたことのない声で、誰かが、歌っているような気がした。




