第十六話『いつわりの鎧』
ごうと風を切る音がする。耳元で渦巻くその重厚な音色が、今自分が紛れもなく『飛んでいる』ことを理解させた。何らかの方法で回収した魔力を、世界呪術『仮称:武装型スラエオータナ』の生み出すクリスタルの槍へと吸収させることで発動する疑似魔術、『翼持つ者』。その力は、マイヤの『女神に祈りを』が形成する光の翼や、エリナが足場としている仮想力場と同等に、シュウを自由落下の法則から解き放っていた。
もう一度、闇の翼を震わせる。すると僅かに飛翔速度が上がった。なるほど、こうやって加速するのか。理解できると中々面白い。こんな時でなければこの場でアクロバットでもして、どこまで動けるのか試してみたかったところだ。最も、慣れないうちに激しい空中機動を行ったら、いくら乗り物酔いに強いシュウでもダウンしてしまいそうな気がするが。
「見えてきましたよ」
すぐ隣を飛ぶマイヤが、ついと指を向ける。
その先に、七海を支配する最強の海洋性魔物――『呪甲魔蛇』が待つ。
最も、遠くからでも既にその威容を見ることはできた。マイヤが『見えてきた』と言ったのは、その姿を視認した、ということではないのだ。
即ち――海の魔王の身体、その詳細な様子までもを確かめることが、可能になった、という合図。
「なんですの、あれ……」
エリナが、いつも強気な彼女にしては珍しい、僅かに怯えの混じった声を上げた。その気持ちは理解できる。シュウでさえ、自らの背を冷たい汗が流れ落ちるのを感じたほどだ。重力のくびきからは解放されているはずなのに、足元が重く歪んで墜落してしまいそうな錯覚に陥る。
それだけの圧力――イスラーフィール風に言うなら『情報の重さ』が、敵対者には存在する、ということだ。
島を背負う亀、という形容が、誇張でも比喩でもなんでもないことを、シュウは改めて思い知る。
アジ・クールマは、島の姿をしていた。文字通りだ。
そこに在ったのは、シャロームの街の二倍、三倍もあるかというほどの規模を持つ岩の島。背の上を見れば見たこともない植物が自生し、その合間を海洋性魔物や、なんと陸生の魔物までもが行き来している。
それだけではない――よく見れば、既に風化し崩れ去ってはいるものの、明らかに誰かが住んでいたと思しき集落の跡まであるではないか! 今や持ち主を喪ったその廃屋は、かつて海の魔王が、魔族たちの活動拠点であったことを指し示していた。
天然の浮島、などと呼べれば可愛い方。
これはその領域をはるかに超えている――まるで、御伽噺の中に出てくる移動要塞だ。
ゆっくり、ゆっくりと進路を前進していくアジ・クールマ。そのボディを支えるのは、これまた一枚一枚が街一つ分ほどありそうなヒレ。それを見てやっと、この魔物は亀であり、背中に背負った島は甲羅なのだ、ということを理解できた。とてもではないが信じられない話だ。もっと別の、旧時代の統一世界にも、今の世界にも『異境』にも存在しない、架空の生物が実体を持った姿だと説明されても、理解できてしまうかもしれない。
そんな巨体だ。母艦級魔物たちを召喚する『門』がいくつあるのかなんて想像もつかないし、そもそも体のどこにあるのかも分からない。それは門を閉じる事の不可能性を指し示すと同時に、アジ・クールマがそこにいる限り、無限に魔物は増殖し続けることを意味していた。
人間たちが海上を掌握できない理由――その全てを、一瞬にして理解できた気がした。
ふとシュウは、スラエオータナの槍を握る自らの右手が、じっとりと嫌な汗をかいていたことに気付く。出所は際限なく湧き出る疑問と、それに端を発する不安だ。
バルガスが最初、シュウたちに語った目的は「アジ・クールマを元の棲息海域に帰すこと」。海洋性魔物指令個体、その統率者たるアジ・クールマの存在は、ただいるだけで、あらゆる海の魔物に影響を与える。テリトリーの崩壊も、海洋性魔物の上陸も、全ては七海の魔王の混乱に端を発するのだ。
故に、アジ・クールマは撃退・討滅するのではなく、本来のテリトリーたる南海へと戻すべきだろう。何が原因で目を覚まし、どのような方法でこの東の海へと姿を見せたのかは分からない。だが恐らく、尋常なものではなかっただろう。起こして悪かった、と謝罪の一つでもして、再び眠ってもらうべきなのだ。シュウも、それが正しいと思う。
だが—―目の前の巨体を実際に見てしまうと、それがとてつもなく難しいことに思えてくる。全力で戦ってもなお倒せない、殺せない……と言った事態なら力不足でしかないが、最初から殺さないことを前提とした戦闘というのは、『手加減』という非常に難しい技術を要求してくる。自分の実力と相手の力量、全てを完璧に把握できなければそれはできない。相手の力が強ければ強いほど、それは大きく分厚い壁となって立ちはだかる。
無力化だけでは駄目だ。前述の通り、アジ・クールマの体内には無数の『門』がある。それら全てを無効化し、その上で動きを止める――言葉にすれば短く思えるが、難易度は極めて高い上に、必要な時間も膨大だろう。
確かに魔王の歩みは遅い。だが順当に戦っていれば、シュウたちが『門』を全て潰すよりも先に、その巨体が海岸を破壊する方が速いのは火を見るよりも明らかだ。
どうするべきなのだろうか、自分たちは。
何を以てして、あの威容に立ち向かえばいいのだろうか。
シュウの胸の内に、暗雲が立ち込める。この場にいる戦力全てをどのように活用すれば、不可能に近い『完全無力化』の未来を掴むことができるのか。脳をフル回転させて考えるものの、シュウの知識と戦略スキルでは捻出に時間がかかる。
やはり考える前に動くべきか、と、無謀な決断を下しかけた、その時。
「先輩、危ない!!」
マイヤの悲鳴が耳を貫く。体は勝手に動いた。シュウは闇の翼を震わせ、僅かに右へと逸れる。
そのすぐ横を、灰色の極光が通過した。極太の剣を思わせるその一撃は、海上、即ち眼下を泳ぐ『島』から照射されたものであったらしい。直後、極光が通過した空間がばちばちばち、と嫌な音を立て、何もない空間から岩の欠片の様な者が剥離した。
いや。何もない空間ではない。
岩片の正体は、『石化した空気』だ。
前身の鳥肌が逆立つ。もしもマイヤの声があと一瞬遅かったら。もしもシュウの身体が、彼女の声に半自動的に反応していなかったら。今、自分の命は尽きていた可能性が高い。
愛の力が起こす奇跡があるのなら、多分今のはその一部だ、と、シュウは遅れてやってきた動悸を落ち着かせながら感謝する。
眼下のアジ・クールマをじっと見つめる。一体あの島のどこから、今しがたの一撃が撃ち出されたのだろう。次は必ず避けなくては、と、砲門の様なモノを探して岩肌をつぶさに観察し始めた、その瞬間。
ずるり、と。
島の外縁が、這い出でた。
それは、岩石の鎧を鱗代わりに纏った、巨大な蛇であった。
背にはアジ・クールマと同じく、普通の島と同じく木々や川のようなものが配置され、その巨体が持ち上がるにつれて、上部で生活していた魔物や『異境』の動物たちが悲鳴を上げて落下していく。
灰色かつ三角形の頭には、真紅の瞳がぎらりと輝き、口腔内からちらちらと二股の舌が見え隠れする。毒々しい色のそれが、先ほどの一撃は、この魔物の口から放たれたブレス攻撃であったのだ、とシュウに示す。
世界蛇、という言葉を思い出した。確か世界最大クラスの迷宮『世界樹』が存在する大陸の伝承に登場する魔物で、旧時代文明の頃北方の大地を取り巻いていたが、当時の戦の聖霊と相討ったという最強クラスの怪物だ。目の前の蛇は島を取り巻いているのに対し、その魔物は世界そのものの外縁であった、という言い伝えだが、性質的にはよく似ている気がする。
蛇の亀——その名の意味を、シュウは今、正式に理解した。誇張でも虚飾でも、何かしらの伝承に由来するこじつけでもなく、文字通り、この魔物は島を構築する蛇と、島を背負った亀の融合体であったのだ。
起き上がった蛇は、金属を噛み合わせたかのような、不気味な咆哮を上げる。
それ呼応してか、海中から玄武の啼声も轟く。重く、重く、海の底のどこまでをも呑み込んでしまいそうな、重厚な声だった。
異様過ぎる光景に、シュウも、エリナも、マイヤでさえも、圧倒されていた。喉から声が出てこない。辛うじて浮遊するだけの精神力を保っているが、それ以外の部分はてんで駄目だ。指の一本さえも動かすことが難しい。呆然自失とはこのことである。
そんな緊迫した状況にあって。
「『××××××××××』」
アリアだけが、言葉を紡げた。呟いたそれは、何かの名前だろうか。ダエーワ語の名前を、スプンタ語に変換してくれたらしい。込められた意味が理解できた。
「『巌碑連なる霊峰の鋼蛇』……?」
「うん、あのへびさんのなまえ……でも……」
問い返せば、返ってくるのは煮え切らない返事。いつも明るいその表情は、今ばかりは不安と困惑に彩られていた。
「しゅう、あのしま、へびがめさんじゃない。わたしがあったことがあるのは、あんなのじゃなかった」
「何……?」
「あれはにせものだよ。へびがめさんのかっこうをしているだけの、べつのなにか」
息を呑んだのは、いかなる理由か。体に走る戦慄の、出所はどこだろうか。
アリアが彼女自身に課した業――『ザッハーク』という肩書の重みを、改めて認識したからだろうか? ありとあらゆる悪性存在の頂点に立つ魔族。その中でも聖典に名を記された『王』の称号を冠する彼女にとっては、ともすれば、海洋の王たるアジ・クールマですら、己に傅く『へびがめさん』でしかないのかもしれない。
もしも彼女と、違う形で出逢っていたなら。もしも彼女が心優しい少女ではなく、時空の女神が垣間見せた魔族のような、邪悪な王であったなら—―そのとき果たして自分たちは、彼女に立ち向かうことができたのだろうか? 所詮はIF、アリアは悪心に満たされた破壊の化身ではないが故に、考えないように蓋をしてきた推測。それが今、勝手に心の奥底から這い出てきたことが、震えの原因だろうか。
あるいはこれに紐づけられた現実、つまりは『異境』には、南方大陸に居を構えるそれとは別のアジ・クールマがいるのだ、という事実だろうか? 薄々感づいてはいたが、この絶望の象徴のような海魔ですら、アリアたちの世界にとっては生態系の一角でしかないのだ。
それは自分たちの住む世界とはあまりにも異なる社会だ。以前アリアが、『異境』には社会や大都市といったものは形成されず、概ね人間が想像するものと同じような文明が形成されている、という話をしてくれたことがあった。誰かと言葉を交わしたり、文字を刻み、関係性を育む……そんな世界ではないのだ、と。
悪性存在は確かに力に敏感だ。自分より強力な悪性存在には近づかない。それでも、その力関係は絶対ではない。アジ・クールマほどの巨大な魔物であれば、戦う意思などなくとも近づくだけで何らかの被害を魔族たちに齎すだろう。
そんな世界で果たして、彼らが、誰かと誰かの繋がりを求める生き方をすることができるだろうか? それがきっと不可能であることに気付いたから、シュウは今、喉の奥から声にならない悲鳴を上げかけているのではないか?
どちらもきっと、理由の一つだ。
覚悟してはいたことである。いつかどこかで、『魔族』としてのアリアと向き合う日がくるのではないか、といううっすらとした予感が、今確実な『予想』へと変わっただけ。アジ・クールマが複数体存在する可能性については、バルガスがすでに提唱している。こちらも考慮の内にはあった。
けれども――アリアの言葉が齎した衝撃は、その二つを合わせただけの規模では、なかった。
「嘘ですわ……まさか、本当に……?」
絞り出されたエリナの声は、聞いたことのないほど掠れていた。恐怖や怯え――そういった負の感情が、彼女をがくがく震えさせる。
アリアを抱えたマイヤも、信じられない推測に行き当たった、と言わんばかりに言葉を失っていた。
推測の内に、無かったわけではない。どこかに絡んでいるだろう、というのは、イスラーフィールの言葉からずっと警戒していた。それはマイヤもエリナも一緒のはずだ。
だけれども、まさかこんなところでぶち当たるとは、想像すらしていない!
ディン・バルガスとその船団が、シャロームビーチの海洋で遭遇し。
海洋性魔物のテリトリーを狂わせて。
今、シュウたちの前にその巨体を曝した海洋の王、『呪甲魔蛇』は――
——南方大陸に悠然と鎮座する個体とは別物。
それどころか、そもそも全ての海洋性悪性存在の統率個体などではないのだ。
ではその正体はなんだというのだ。一体どのような手法を以てすれば、この世界の全ての存在、それこそ『情報の女王』と、彼女に力を貸す聖霊の目すらも欺き、アジ・クールマの名を騙ることができるのだろう。目の前で鎌首をもたげる灰色の大蛇も、その背に魔物を飼う岸壁の玄武も、どう見ても虚像などではない。
そんなことができるのは、世界そのものを騙せるほどの、精神干渉だけだ。
同じことのできる娘よりも、はるかに強大なその力。
人はその肩書をこう呼ぶ。『天則に従う者』と。
人はその御業をこう呼ぶ。『展開型ウォフマナフ』と。
人はその称号をこう呼ぶ。『言の葉の継承者』と。
人は、その名をこう呼ぶ。そうとも、二百年に渡って呼び続けてきた。
海と大地を騙し切り、この茶番を汲み上げた『魔物』の名は――
「ハレルヤザグナル・キュリオスハート……!!」
その名前がシュウの喉から絞り出されたと同時に。
岩石の蛇は、まるで「ようやく気付いたのか」、と笑う様に、ふしゅるると灰色の吐息を漏らした。




