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やがて天則の救世主  作者: 八代明日華
第三章:善と悪の境界に
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第六話『コール・メモリー』

 初めての海水浴は楽しかった。川で遊ぶことは幼少期に多々あったが、どこまでも広がる青い海で楽しむというのは、また別の趣があって興味深い。

 シュウはマイヤとお揃いの、クリアブルーの浮き輪に己の身をすっぽりと通したまま、波打ち際から少し沖に近づいたあたりを、ぷかぷかと気ままに漂っていた。先程まではマイヤと一緒に、沿岸の小石を選別したり、水底が浅いところで泳いだりしていたのだが、冷たい水に慣れていないからか。彼女が「くしゅんっ」と可愛らしいくしゃみをし始めたので、パラソルの下に戻したのだ。健康第一である。楽しい思い出は楽しいままで在って欲しい。


 とはいえ、一人で浮いているのも何となくもの悲しい。

 クラゲというのはこういう気分なのだろうか、とぼんやりと考えながら、そろそろ正午の中天に近づき始めた太陽を見上げる。空が澄んでいるせいかやたらと眩しい。すぐに目をそらしたが、少々ちかちかする。望遠鏡で太陽を覗いてはいけない理由が何となく理解できた。


 視点を落とすと、浜辺で遊ぶ仲間たちの様子が良く見える。

 エリナとリズベットは、まだ砂城造りに取り組んでいるようだ。アリアは飽きてしまったのか、エリックから巻き上げ……借りた大型の水鉄砲を乱射しながら、逃げ惑う彼を追いかけまわしている。ふんわりした白いトップスは締め付けが弱いのか、走るたびに極東大陸のメロンを思わせる胸元の果実が揺れて目の毒だ。エリックは大してそういうことに興味が無い――というより、本人の性的嗜好に合致しない『レディ』にはそういった感情を持てないらしく、どちらかと言うと水鉄砲の威力から逃げ惑うことに精一杯なようだが……他の海水浴客がそればかりでは居られないのか、若干辛そうである。


 日焼けも心配だ。色々な意味で、パーカーか薄いシャツを上から羽織る様に後から言っておかなくては、などと思いつつ、砂の築城場へと目線を戻す。


 波に攫われては崩れる砂の城を守るべく、エリナは外側に石を並べてみたり、貝殻で防波堤を作ってみたりと奮闘している。リズベットも何だかんだ楽しいのか、二人で試行錯誤している姿が微笑ましい。


 エリナが小さな、海岸から拾ってきたのだろうか、半透明の綺麗な意思を防波堤に置く。西方大陸風の大きな尖塔と、横に広がる城壁を持った、やたらと精巧な城が完成した。アリアほどではないかもしれないが、エリナもリズベットもかなり手先が器用だ。エリナは『認識改変』のために、自分、あるいは相手に押し付ける『認識(イメージ)』を細かく創り上げるからだろうか。リズベットの方は、将来の夢に役立てるつもりだという、趣味のパン作りの賜物だろう。


 完成した城塞は、遠目から見ても細かいディティールが窺えて、思わず感嘆のため息を漏らしてしまう。


 金色のツーサイドを揺らしながら、頬を紅潮させたエリナが天に向かって両手を突き上げる。


「で……できましたわ……私の完璧かつ最っ高にゴージャスな牙城が……!!」

「あっ波」

「うぎゃぁぁぁぁっ!?」


 直後、叩きつける様な波が防波堤の小石たちをなぎ倒し、砂のお城を破壊した。長きにわたる努力を、文字通り水泡へと帰されたエリナ。その怒りの天井たるやうかがい知れぬ程に高いだろう。彼女は暗い目つきでぷるぷると震えると、絞り出すように宣言する。


「も、もう許しませんわよ……! ピンク髪……いいえリズベット! これは禁じ手だと封じておりましたが……最早我慢なりません! あちらの海岸線から岩を持ってきますわよ! それを以てして波をせき止めます!!」

「うぅーん、なんか結局駄目な気がするけどなぁ~」


 苦笑するリズベット。その風景に、思わずシュウも微笑んでしまう。あまり経験が無い事だが、「友達と遊ぶ」というのは、こういう事なのかもしれない。

 

 思うに砂の城というのは、『作ることに意義がある』タイプの遊びだ。完成品をどう扱うか、その結果がどうであるかに関わらず、過程、つまり『砂の城を造った』という、その事実にこそ価値が発生する。

 無論、価値が無いならば意味が無い、というワケではない。しかし何かをどうしても求めたいのであれば、きっとそういうことなのだ。


 そんなことを考えながら波に揺られていると、イスラーフィールがデッキチェアから起き上がる。先程まで、どこぞで買ってきたと思しきトロピカルジュース片手に、やたらと優雅なくつろぎ方をしていた彼女。所謂ダイナマイトボディという奴は浜辺の視線を釘付けにしていた。

 いや、そんなことは今はどうでもよくて。


 彼女は虚空を指でなぞる。法術、『顕現型スラオシャ』のスキル、『情報閲覧』を行使しているのだ。彼女が見ているのは時間――育成学園の時計塔とリンクした、現在の時刻だろう。

 満足気に頷くと、学園長は立ち上がって、それから声を張り上げる。


「おーいお前ら、ちょっと休憩にしようぜ。丁度昼飯時だ」


 そこかしこから、仲間たちの返事がする。シュウも「了解しましたー」と叫んだ。なんだかんだ、三時間近く遊んでいたことになる。時が立つのは早いものだ、と、いつもとはちょっと違う意味で考えてしまった。

 ……つまりエリナは三時間も砂の城を造っていたという事なのだろうか。何となく普段の性格や行動から推測できることではあるが、負けず嫌いというか、凝り性というか……きっとそれは、彼女の強みだろうと思う。


「あ、私、荷物見てますね」

「バーカ、お前何しにここに来たんだ。海の家で昼飯を食うのも海水浴の一環だぞ。見張り番なんざスラオシャにでもやらせておけばいい」


 パーカーを羽織ったマイヤが、その場にとどまろうとする。イスラーフィールは悪戯っぽい表情で、その提案を却下した。彼女がぱちんと指を鳴らすと、パラソルの下に、見えないが、奇妙な威圧感。聖なる気配――()()。一説によれば存在する座標がこの世界とは違うという、聖霊(スプンタ)。そのうちの一柱。正確には、分け御霊。


 スラオシャ。伝令と情報を司る、天翔ける無限の善性(アムシャ・スプンタ)。ズルワーンの手によってイスラーフィールと契約した、彼女の法術の正体にして、力の根源そのもの。


 顕現型の名が示すように、イスラーフィールはスラオシャの分身をこの世界に出現させることができる。前述の通りこの世界とも『異境』とも異なる場所に肉体を持つため、その姿を視認することはできないが、しかし『そこに誰か/何かいる』ということだけは、神聖な重圧となって近づく者達に圧し掛かる。

 なるほど、警護役にとってこれ以上の存在は居るまい。こんなところで使ってい良いものなのかは不明だが。

 

 一方海岸線では、エリナが涙目になって休憩時間に抵抗していた。


「わ、私、城の完全防備が終わるまでこの場を離れませんわ……!!」

「駄目だよエリナちゃん。ちょっと休憩しよ? 別の事考えないと、良いアイディアも出てこないよ」

「ぐぬぬぬ……」


 優しく微笑みながら口にされたリズベットの提言に、何か思うところがあったのか。エリナはひとしきり唸ったあと、がくりと肩を落として立ち上がった。シュウとしてもどちらかと言うとリズベットの方に賛成である。根を詰めすぎると、意外と人の思考力というのは落ちるものだ。

 エリナが「壊れない砂の城」を目指すにしろ、何か別の事をするにしろ、休息は必要だろう。


「ごっはっん~ごっはっん~」


 整った綺麗なテンポで、しかしやたらと可愛らしい内容の鼻歌を歌いながら、アリアが水鉄砲を返しにやってくる。道具入れに使っているバケツに突っ込まれたそれは、中に並々と入っていたはずの海水を完全に空としていた。余程乱射が楽しかったらしい。さぞエリックは大変な思いをしたことだろう。

 そう思い彼女の背後をみると、予想通りグロッキーになったエリックが、肩で息をしながら、砂浜の傾斜を上ってくるところだった。


「ぜぇ、はぁ、ぜぇ、はぁ……れ、レディ・アリアの体力と気力と行動力は底なしかい……!? か弱い僕は既に死にそうなんだが……! どうして、ああも、元気なのか……!!」


 何となく同情せざるを得ない。アリアの元気の良さには、流石のシュウとマイヤも時々手を焼く。以前にも同じことを思い返した気がするが、彼女と一緒になって遊んでいると時折夜眠れないことがあるのだ。


 善悪大戦の折、後に『悪性存在』と呼ばれることになる勢力を率いた悪魔(ダエーワ)たち。彼らは自らの配下たちに、加護として夜に活動が活発になる力、つまり『眠ることの不必要さ』を与えたという。それゆえに魔族であるアリアが夜に強いのは納得がいくのだが、彼女の場合は昼も元気に過ぎるのだ。どちらかと言うと『疲労しない』という方が近い気がする。


「よっこいしょ」


 パラソルの下にたどり着くと、抱えていた浮き輪を下ろす。水に濡れているからなのか、それとも、シュウが両手を広げた分くらいには幅があるからなのか。浮き輪は存外重く、意図せずに声が出てしまう。

 その様子に、体を拭くためのタオルを持って来てくれたマイヤが思わず、といった調子で苦笑する。


「もう、年寄りくさいですよ、先輩。悪い事ではないですけども」

「ははは、精神は似たようなものかもしれないな」

「……私の身体に興奮していたのはどこの誰でしたっけ?」

「うっ」


 急にじっとりした目つきになったマイヤに、シュウは言葉を詰まらせる以外の選択肢を持たない。本当に申し訳なかったと思っている。だがどうしようもなかったとも思う。恋人の肌の柔らかさに何も感じなかったら、いざ『そういうこと』になった時に逆に大変だ。そう言訳する。させて欲しい。

 その気持ちを汲み取ってくれたのか、あるいは元々責めるつもりはなかったのか、すぐにマイヤは安心させるように微笑むと、白いタオルでシュウの身体を拭いてくれた。自分でやるよと声をかけると、たまにはこういうこともさせてください、と反論されてしまった。

 女の子に自分の身体を拭かれるというのは、中々ない経験である。なんだか悪い事をしているような気分になってしまうが、マイヤが楽しそうなのでそっとしておく。


 その頃になると、遠泳していたロザリアが、タオルを取りに帰還した。スレンダーな体型に、水に濡れたモスグリーンの競泳水着が張り付いて、スポーティな雰囲気を醸し出す。彼女の獲物であるレイピアのような肉体は、イスラーフィールやアリアとは別の意味で浜辺の注目を集めやすい。

 そんな彼女自身の視線はと言えば、集まりつつあるメンバーたちを把握するべくきょろきょろ動く。ふと、この場に影も形も見えない人物がいることに気付いたか、不思議そうに眼をぱちくり。


「あれ、アルケイデス先生はどちらに?」

「あぁ? あいつなら大分向こうの沿岸に行ったよ。この辺りは波が穏やかだからな。サーフィンすんのも久しぶりだし、暫く帰ってこないだろ」


 不機嫌そうに顔をしかめるイスラーフィール。ついで腰に手を当て大きくため息。モデル顔負けスタイルの彼女が、愁いを帯びたそんな表情をすると、腹が立つほど様になる。


「はーぁあ、私が誘っても聞く耳も持たねーんだもんなぁ。人付き合いの悪さはどこぞの呪術師以下だよ。なぁフェリドゥーン?」

「そこでどうして俺の方を見るんですか……?」

「鈍感仲間ってことだよ馬鹿め」


 心外である。確かに昔は察しが悪かったという自覚があるが、これでも最近はマイヤの赤面ひとつとっても、どういうことを考えているのかが何となくわかる様になってきたのだ。

 例えば今、遠慮がちに手を差し伸べてきた彼女の頬は朱色に染まっている。昔なら何か渡せということだろうか、じれったくて怒っているのだろうか、と思ったものだが、今なら手を繋いで欲しくて恥ずかしがっているのだと理解できる。というよりマイヤ自身、そんなに短気な娘ではない。

 

 シュウは彼女の手を取ると、淑女をエスコートする紳士が如く、ちょっと格好をつけて一礼すると、マイヤの手を引き歩き出す。


「あんまり似合ってなかったです」

「うっ」

「先輩は、変に格好つけるよりも自然体の方が、私にとっては、素敵に見えますよ」


 訂正。察しは今でも悪いかもしれない。

 恋人の嗜好を把握できていないという意味では。


「それから……その……手を繋ぐ方ではなく、腕を組む方でお願いしていいですか……」

「わ、分かった……」


 さらに訂正。赤面の意図を察するのもできていなかった模様である。

 シュウが腕を伸ばすと、マイヤの細い腕がするりと絡まってくる。肘に当たる柔らかい感触が、パーカー越しでもやたらと生々しくてごくりと喉が鳴ってしまう。

 こてん、と、マイヤの頭が、シュウの肩に預けられた。

 普段は、人目のある場所でこんなに密着することはない。もしかしたらマイヤもマイヤで、夏の熱に浮かされているのだろうか。

 だとしたら――今は、それに身を任せてしまってもいいかもしれない。


 腕を組んだままの体勢で、砂浜を上るのは難しかった。

 だがその難しさは、不思議と、嫌な気分を感じさせるものでは、なかった。

 


 ***



 『海の家』、というのは凄いもので、単純な休憩所であるだけでなく、駄菓子、飲み物、水鉄砲を始めとした海遊玩具に、ルアーや釣り竿と言った釣り道具、シュウも大変お世話になった浮き輪など、様々なモノを売る売店の役割も兼ねている。

 おまけにレスキュー隊たちの屯所である上に、食堂も備えるというのだから驚きだ。最早海で必要なものが何でも揃っているように思える。


 麦わら帽子のような網目状の、藁と木を組み合わせた店の外装は、趣があって心が躍る。ちょうどいい具合に日差しを遮ってくれる上に、吹き曝しであるため適量の潮風が入って来て気持ちがいい。


 一行は食堂エリアに向かうと、各々好きな食べ物を注文する。墨で料理名が書かれた木の札が、店の壁にかかっているというごつい形式のメニュー表。極東大陸では料亭などでたまにみた形式だが、中央大陸で目にすることになるとは思わなかった。


 ふと、鼻腔をくすぐるしおはゆい香りに気が付く。覚えのある匂いだ。シュウはメニューに視線を走らせると、その中に『匂いの持ち主』を見つけて頬を緩ませた。メニュー表と一緒で、ここで出会うとは想像していなかったから。


「極東大陸風焼きそばか。懐かしいな……」

「焼きそば……中央大陸一般のものは、この辺りの名産かと思っていたのですが、そういえば極東大陸が発祥だと聞きましたね」

「ああ。中央大陸風のやつは香辛料の風味が強めで、ソースそのものの味は控えめだからな……うん、こういった場所で出すジャンクフードとしては、極東風の方が相応しいのだろう」


 どうやらショッピングモールのフードコートよろしく、料理毎に担当の店が、海の家の中で分割配置されているらしい。二人は焼きそばを出している場所に足を進めると、大盛を一人前注文。シュウもマイヤもそこまで沢山食べる方ではない。なら、お皿のサイズが大きいものを一つ買って、分けた合った方が丁度いい。

 汗だくになって働く従業員たちの表情は、意外にも楽しそうであった。こういうところでの仕事は辛そうに思うが――あるいは、やりがいを感じている人だけが残っているのかもしれない。

 代金は意外と安かった。縁日の屋台でファストフードを買った時のような感覚である。


 やがて、大きな皿に盛りつけられた、野菜や肉と絡み合う、茶色い麺料理が提供された。作り立て特有の湯気を立てるそれこそが、極東大陸焼きそばである。中央大陸のそれは、ソースの色が茶色ではない。見慣れないカラーリングに、マイヤも目を丸くしていた。


 シュウたちはそのまま、テーブルのあるエリアに向かう。畳敷きの上に座布団が置かれている、極東大陸スタイル。麦藁で編まれた座布団をあてると、少しひんやりしていて気持ちがいい。

 見渡せば、仲間たちも各々好きな料理を買ってきたらしく、そこかしこで食べている姿が見える。アリアに至ってはシュウとマイヤが分けようとしている焼きそばの、さらに倍もありそうな量の汁蕎麦を啜っていた。上に大きな豚肉や様々な野菜、調味料が乗ったあれは、所謂『ラーメン』という奴だろう。おいしそうに頬張る彼女の姿に、マイヤと目を合わせて微笑んでしまう。


 冷める前に食べてしまおう、と、割りばしを割る。フォークもあったのだが、二人とも箸は使い慣れているのでこちらを選んだ。極東大陸料理なので、何となく雰囲気を優先したのもある。

 さすがはマイヤと言うべきか、正直な話シュウよりも箸を割るのが上手い。彼女は綺麗に形の揃ったそれを駆使して、焦げ茶色のソースがかかった、焼きそばの麺を口に運ぶ。


 小さな桜色の唇の向こうに、麺が消えていく。じっくりと味わう様に咀嚼した後、それを喉へと通した彼女は、少し目を見開いて驚くと、ふわりと嬉し気に微笑んだ。


「美味しい……。ちょっと甘辛いソースが良いですね」

「こっちでは余り使わない味かも知れないな」

 

 自然とこちらも笑顔になってしまう。

 中央大陸の料理は、食べ物そのものに味を付ける、ということはあまりない。香辛料で香りを高めたり、味を付けた別の素材やソースによって、食品に自由に好きな味を付与する、という形式が多いのだ。フォークとナイフを使った食事が下手なシュウでも食べる事ができるフムス、という料理があるが、あれはひよこ豆のペーストにパンであったりナンであったりを付けて食べる料理だ。


 そういう意味では、麺や野菜そのものにソースをしみこませて味を付ける極東大陸の料理は、マイヤにとっては新鮮だっただろう。技法自体は、嬉しいことによく極東料理を作ってくれる彼女にとって、最早珍しいものではない。が、今の焼きそばの様に、味の強いソースを使うものは、まだ彼女が出会ったことのないタイプだったようだ。実際、この手のソースは中央大陸ではあまり見ない。前述の通り味よりも香りを優先する傾向があるため、匂いがかき消えてしまうような、味の濃い調味料は好まれないのだ。


 もくもくと焼きそばを食べ続けていると、ふと、マイヤの口元に目が留まる。


「ん……マイ、ソースが付いている」

「え、本当ですか?」


 彼女は自分の唇のあたりを指でなぞるが、絶妙に場所が逸れてしまっていた。

 シュウは苦笑すると、それを拭きとって取ってやる。


「はは、こっちだよ」

「ありがとうございま……」


 ——無意識的に、マイヤの唇の傍についていたソース、それを舌でなめていた。

 ぴたりと硬直した彼女の様子で、自分が何をしたか思い至る。


 何度目かになるフリーズと同時に、首筋が燃えるように熱くなる。行儀が悪い、というのもあるが、何より、「恋人の唇に触れていた食べ物を自分が食べる」という動作を、完全に意図しない形で、流れるように実行してしまったということが原因だった。


「……」

「……わ、悪い」

「い、いえ……」


 目を合わせづらくなって、逸らしてしまう。


「それにしても懐かしい味だ……昔は、邑や近くの街のお祭りでよく食べた」

「極東大陸は、縁日が盛んな地域が多いと聞いています」

「かもしれないな。俺が覚えている限りだと、一週間毎日全く違うお祭りがあった時もある」


 極東大陸には、旧時代文明から残る風土の祭祀が数多く残っていた。そのせいか、毎日の様に何らかの特別な意味があったように記憶している。


「そういう時に焼きそばを食べると、師匠が決まって肉や野菜の味から産地を予想するんだ。彼の舌は凄くてな。殆ど外さなかったし、外しても非常に近い産地を選ぶことが多かった。それで正解すると、仲間たちと麦酒を飲んで大騒ぎするんだ。俺と、師匠の奥方とその子供たちは置いてけぼりになってしまってなぁ……それはそれで楽しかったが」

「ふふ、楽しいお師匠様なんですね」

「ああ。いつかマイにも紹介するよ。俺の、父親のような人だ」


 かみ砕く人参や玉ねぎは、やはり野菜で有名な中央大陸のそれだ、とても甘くて、透き通るような味をする。

 だが極東大陸のそれも負けてはいない。シュウ自身、人参や大根といった野菜を育てていた過去があるが、師匠のそれはまた別格だ。加えて彼は猟師であり、漁師であり、そして農家だった。生産者としてあれほど高レベルにまとまった人物は早々いないだろう。

 シュウの自慢の『父親』だ。


 ああ、いつかマイヤと本当の『家族』になったなら。

 彼のことも、『家族』として、マイヤに紹介できるのかもしれない。


 そんな事を想っていると、いつの間にやら焼きそばは完食していた。二人で「ごちそうさまでした」を言う。極東大陸風の食後句だ。中央大陸では別の――聖霊に感謝をする句が一般的だが、シュウにとってはこっちの方が性に合っているし、マイヤもどちらかというとこちらが気に入ったようだった。最近は良く食後に一緒に口にする。


 何かデザートでも探そうか、と思っていると、もう一人の『家族』が意気揚々と突撃してきた。さっきまでたこ焼きをつついては「ぎゃぁぁぁっ! デビル(ノウネ・)フィッシュ(ダエーワ)!? 聞いてない、聞いてないですわ! (わたくし)タコとイカだけはどうしてもだめですの!!」などと悲鳴を上げていたエリナが、それらはなんとか食べ終わったのか。両腕を、綿菓子やリンゴ飴といった、まさにお祭りでよく見かけるようなお菓子の袋で一杯にして、きらきらの笑顔で告げてくる。


「凄いですわ、これは革命ですわよお兄様! ここのお店、かき氷のシロップが何と十七色もあります!! おまけに練乳もかけ放題と来ました! 私、ちょっと全種制覇してまいります! お兄様もお食べになります?」


 さらさらのチップ状に砕いた氷。グラスの上に山の様に盛ったそれに、色とりどりのシロップをかけて楽しむ夏の定番デザート、かき氷――大体いちごやレモン、メロンあたりのシロップをよく見るが、見ればここには『スイカ』だとか『バナナ』、『ドラゴンフルーツ』なる見かけない名前に加えて、何故か『キュウリ』味のシロップまである。中央大陸では野菜よりもフルーツの類として扱われる、甘い品種が有名だからだろうか? シュウは極東大陸の野菜系ウリ科植物となじみが深いので、若干首をかしげてしまうが。


 丁度いい。折角だから頂くことにする。自分で取ってこようかとも思ったが、エリナの顔にでかでかと「お兄様の分も注文したい」と書いてある錯覚を覚えたので、苦笑しつつ彼女に依頼。


「そうだな。じゃぁ、一つ頼む。シロップは、エリナが好きなのをかけてくれ」

「かしこまりました!」


 満面の笑みで、かき氷の列に飛び込むエリナ。

 その様子に、マイヤがふと真顔になり、小さな声を漏らす。


「……かき氷のシロップは実際には味は一緒だという説が有力ですが」

「気分によって変わる味……ということにしておこう……」


 正直な話シュウとしても俗説だと信じたい。だって何度食べても違う味が付いている様にしか思えないのだ。あれで全部同じテイストをしているというのであれば、それは視覚と味覚というものの影響の圧倒的強さを示している様で若干恐ろしいからである。外見さえだましてしまえば、人間(パルス的な意味では無く)の脳は、簡単に別の味を受信してしまうのではないか—―それこそエリナの操る『認識』ではないが、少し、自分の見ているモノが真実なのか否か不安になってきてしまう。


 エリナがかき氷を持って来てくれるのを待ちながら、マイヤと談笑しつつ仲間たちの様子を見渡す。

 ふと、部屋の端に座る、ギターかウクレレのような形の、不思議な楽器を持った青年の姿が目に留まった。確か『琵琶』と言ったはずだ。中央大陸北東部に伝来の弦楽器だ。


 黒い頭巾を被った紅い瞳の彼は、それを鳴らしながら、優しい旋律の歌を奏で出す。琵琶のどこか南国めいた不思議な響きが、アリアもかくやと言うほどに上手な、青年の透き通った歌声を強力に印象付けてくる。

 その歌詞に、聞き覚えがあることに気付いた。


「ん、また懐かしいものが出てきたな」

「この曲ですか?」

「ああ」


 聖典に出てくる一節をアレンジした曲は、どこか不思議な懐かしさがある。昔、シュウはこの曲を良く聴いた記憶があった。師匠か、その奥方あたりが好んでいたのだろうか—―


 そんなことを思っていた矢先。

 マイヤが、不思議そうな表情で、シュウの抱く推測を否定した。


「でも、極東大陸の民謡ではありませんね」

「そうなのか?」

「はい。この辺りの地方から、中央大陸東部にかけての曲ですね。私も小さいころに聴いたことがあります」

「ふむ……大分昔に聴いた記憶があったから、てっきり邑で歌われていたものだと思ったんだが」


 確かに、旋律自体は中央大陸か、あるいはいっそ西方大陸の曲の方が近いかも知れない。第一、極東大陸は教会権力が薄く、聖典を題材にした歌は確かに聴いたことが無い。

 ちなみに、極東の教会勢力は全くのゼロ、というワケではない。『天則(サダメ)』はそれなりに浸透しているし、だからこそ法術師もいる。最も、魔物が然程多くないことが、権力が小さい理由ではないかとシュウは推測していた。実際シュウの邑でも、一番の強敵は山奥のイノシシたちだった。シュウが最初の頃、魔物に対して強気に出れなかった理由である。彼らの姿と、魔物の姿を重ねてしまったのだ。今でも時々、魔物の生活、という概念に想いを馳せることがある。最近は、アリアから「まものにはかぞくはいない」という話を聞いて、若干吹っ切れてきた気がするが。


 琵琶弾きの青年は、一度それを演奏するとすぐにどこかへと立ち去ってしまった。

 しかし彼の短くも熟練度の高い演奏は、シュウたちの耳に強く残る。


「そーらはー、あーおーくー、かーかげるひはー……めーぐるー、やーみをー……」


 マイヤが愛らしく唇を震わせ、冒頭の一節を優しく詠う。その続きはシュウも知っている。確か、そう――


「つーなぐつーばーさー……」


 それを続けたとき。


「え?」


 マイヤが訝し気な表情でシュウを見つめた。


「ん?」

「そこの歌詞は、確か『祓う(はーらう)(つーるーぎー)』だったように思うのですが」

「あれ……記憶違いか?」


 何せ、どこで聞いたのかも良く分からない歌だ。実際の歌詞と齟齬が在ってもおかしくない。

 だが、この部分はシュウが確り記憶していた数少ない部分だ。間違えてはいなかったと思うのだが……。


「でも確かに、この部分は……」


 記憶を掘り起こしてみるが、思い返せば思い返す程マイヤの方が正しく思えてくる。しかし、脳髄の奥、いっそ魂に刻まれている、とさえ言って良い場所で奏でられる歌声では――


『空は 蒼く 掲げる灯は 廻る 闇を 繋ぐ翼』


 ふっ、と。

 歌声が、耳の奥で響いた。


「うッ……!?」


 同時に、頭の中心がずきりと痛むような感覚。

 思わず頭部を押さえて顔をしかめる。


「先輩? ……先輩!? どうしたんですか、先輩!」

「だい、じょうぶだ……なんだか、急に頭痛が……」


 マイヤが顔色を変える。心配してくれているようだ。すぐに痛み自体は引いたので、半ば無理矢理ではあるが笑顔を作って安心させる。効果は一応あったか。マイヤはほっと胸をなでおろす。


「聞き覚えのある女の人の声が聞こえたような気がしたんだが……マイ、さっきの曲をもう一回歌ったか?」

「いえ……続きを思い出してはいましたが」

「そうか。じゃぁ、空耳かな……」

「もしかしたら、日に当たって疲れたのかもしれませんね。ぷかぷか浮いているだけでも結構体力は使いますし……」


 あのクラゲめいた行動にそこまで体力を奪う力があったのかどうかは怪しいが、しかし日の光にずっと当たっていると辛くなるのは分かる。吸血鬼というわけではないが、何だかんだ人類の身体も日光にはそれほど強くないのだ。


 しかし、だとしても――歌声は、鮮明に過ぎたように思う。

 幻聴、なのだろう。だが、どことも知らぬ場所から届いた音ではなく、あれはたしかに、シュウ自身の記憶の内から蘇ってきたものの様に思う。実際、声色自体は聞いたことがあるのだ。どこかで……そう、どこか、とても遠い場所で。


 それが何だったか思い出すことができず、煩悶としていると。


 どんっ、と、目の前に大量の氷を乗せたグラスが置かれた。頭上から、心底嬉しそうな声が響く。エリナだ。


「おっ待ちどうさまですわお兄様!! かき氷大盛に私と同じレモン・ブルーハーブ・ドラゴンフルーツと、三原色のちょっと珍しい味のシロップをかけ、加えて練乳を通常の三倍かけた名付けてエリナ・スペシャルでございます!! カロリー? 知りませんわ! たまにはハメを外すべきです! さぁ、どうぞお召し上がりください!!」


 グラスの上の氷には、彼女の言葉通り、黄色と碧、そして紅色のシロップがふんだんにかけられ、その上には練乳で「あい・して・ます」と三か所に分かれて描かれたヴェンディダート文字。やはりすさまじい技術力である。形が崩れない程度にシロップをたくさんかける技量もさることながら、チューブ状の練乳ボトルをつかってここまではっきりと文字を書けることが驚嘆に値する。これは凄い。感動を自分一人で消費しきれない。


「ありがとうエリナ。マイ、一緒に食べよう」

「はい、先輩」


 というわけでマイヤにもおすそ分けすることにした。スプーンは柄が長いタイプのそれ一つしかなかったので、マイヤと二人で使うことにする。

 レモン味の部分をスプーン上に乗せると、まずマイヤに。次にもう一度すくって、今度は自分に。


「きぃーッ!! この青髪はまたぞろ堂々とお兄様と同じスプーンを使って、よりにもよって私が用意したデザートを食べる!! お兄様が貴女を誘うのは許しますが、貴女がそれに頷くのは許可いたしませんわ!!」

「エリナも一緒に食べるか?」

「食べます!!」


 即答であった。

 身を乗り出してきたエリナの口に、すくった碧色(ブルーハーブ)部分のシロップ付き氷を突っ込む。

 

 脳裏でこだましたあの、どこか懐かしくて優しい歌声は、喜ぶエリナの歓声と、マイヤの小さな笑い声、それから、海の家の外から聞こえる潮騒にかき消されて。もう、聞こえることはなかった。

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