引き篭り師弟と、吹雪の夜2
「アニム、大丈夫か?」
つい本音が出て、ぶすっと唇が尖ってしまいた。あちらのおふたりに聞こえてないと良いけど。
「気持ち的には、あんまり、大丈夫ない」
「それも、そうだな」
師匠は眉を垂らしながら、苦笑いを浮かべていた。アラケルさんに撫でくり回されていた手をとって、ぽんぽんと軽く触れてくれている。嫌な気持ちが、するりと解けていく。
「さっきの、ししょーの、雷魔法?」
「いや。アニムの中にあるオレの魔力だ。一応、お前の負の感情つーか防衛反応に連携するように組んであるんだが。そんなに、嫌だったのか? お前、スキンシップ嫌いじゃないだろうに」
師匠の視線が、触れている手に落とされた。
師匠の掌に全体重を預けている私の手。そう言えば、普通ならあそこまで嫌だって思わないんだよね。
「んー。ししょーない、男性だから?」
そうだ。最近、師匠とのスキンシップが増えてから、特にそう思えるのだろう。師匠には触れて欲しいと思う反面、他の男性から異性として触られるのが――って、違う違う! そもそも、ここにいらっしゃるのは師匠の旧友さんやお客さんばかりで孫扱いだし、異性的に軽い調子で触られる機会がなかったから、びっくりしただけだ。うん。
師匠を見ると、薄く開いていた瞼が心持ち開いていた。そりゃそうだ、告白にもとれちゃうよね!
「っていうか、初対面の人に、あんな風、触られたら、嫌ない?」
「そりゃそうだ」
師匠が呆れた顔で腕を組んだ。
グラビスさんとアラケルさんには聞こえないよう小声で会話していたので、自然と顔の距離が近くなっていたようだ。
案の定、アラケルさんが口の端を釣り上げて、横から覗き込んできた。後から「あっ、またお前は失礼な!」とグラビスさんの怒りを含んだ声が追ってくる。
「おふたりさん、仲良いっすねー」
にやけたアラケルさんが、私と師匠の肩に腕を回してくる。寄りかかられると、重いんですけど。
師匠は年長者の余裕を浮かべたまま、そことなくアラケルさんの腕を払った。師匠がキレないで大人な対応してる!
変な部分に感動してぽけっといると、少し乱れた髪を整えられた。
「当たり前だろ」
もちろん、師匠にだ。アラケルさん側。師匠の腕がさり気無く間に入ってくれた。
ちょっとした仕草に、胸が無責任にぎゅっとなる。
「アニムはこう見えて、一人弟子だしな。お前ら親子だって、充分仲良く見えるぜ?」
あれ? なんでだろう。師匠に仲がいいのを肯定してもらったのに、鈍い痛みが走る。嬉しいはずなのに、おかしい。
「うへぇーあんなむっさい親父と仲良く見えてもなぁー俺もアニムと親密な関係になりたいなぁー良いだろ、お師匠さん」
申し訳ないが、私の中の警戒心けいかいしんが総立ちで反対と腕を振り上げている。満場一致で反対だ。
「一人弟子っていうくらいだから、可愛いのはわかりますケド、美味しい外見なのにもったいないっすよー俺、魔法には自信あるし、釣り合うと思うんだケドなぁー」
弟子。そうだ、私は師匠の弟子なんだから、守られているんだ。頭の中に生まれた靄もやを振り払い、師匠を見上げる。
仲が良く見えてるなら、それだけで喜ばしいんだ。アラケルさんの言葉に引っ張られた気持ちで、贅沢になってきている自分に気付かされた。私は……いつか自分の世界に帰るんだから、超えちゃいけない。想いの一線を。
「いい加減にせんか、アラケル。何度も言うが、ウィータ様は、本来ならお前のようなひよっこが軽く口をきいて良いお方ではないのだぞ。ウィータ様の寛大なお心に甘えて、調子に乗るでない。アニム様とて、お前より年上なのだ。そもそも、女性に対して失礼であろうが!」
「でも、おふたりさんとも、見た目は俺と同じくらいじゃねぇー?」
アラケルさんは指で耳栓をするだけで、お父様の言うことを聞く気は皆無な様子だ。師匠をちらりと横目でとらえて「俺のがイケてるケドな」と小さく笑いやがりました。
なんですって?! どう考えても、師匠の方がかっこいいよ!
っていうか、私も凄く眺められている。足の先から頭のてっぺんまで何度も見られると、居心地が悪いのだけど。いやいや、ここは大人の余裕で対応せねば。
「ししょー、二百六十才です。私、十九才です」
「アニムってば、まじもんに若いわけ? ってーか、俺と同じくらいだと思ってたわ。ちなみに俺は十七才。年が近いもん同士、話もあっちの相性も良さそうじゃね?」
そっちかい。さらに視線に遠慮がなくなってしまった。しかも、瞳が一気に細められ、ちろりと舌が下唇をなぞったじゃないか。
ブリザードです。悪寒が全力疾走です。鳥肌がさらに背伸びしていく。
腕を抱え込んで震えていると、グラビスさんから湯気が出ているのが見えた。
「馬鹿もん!! 下品にも程があるわ! お前は野宿でもしておれ!」
「んだよ、親父。いやだなぁー俺は魔法の相性ってたんだよ。変な風に受け取る親父がえろ親父なんじゃね?」
「ぐぬっ」
グラビスさんが、口を硬く結んだ。頑張って、お父様!
実際、年の近さが魔法の相性に繋がるかなんて私にはわからないが、今だけは絶対違う意味で言ったでしょうと断言出来る。アラケルさん口は達者なんだろう。あぁ言えばこう言う、タイプ。
「グラビス、落ち着けよ」
さっきから師匠が空気だ。珍しい。顔を真っ赤にして怒りに耐えているグラビスさんの肩を叩いて宥めている。
「あーやだやだ。今からアニムの得意魔法を聞こうとしてたんだよねーちなみに俺は世界でも数少ない精霊魔法の上級者。精霊を呼び出して使役すること自体難しいんだケド、そいつの力を吸収して自分で練り直せるんだぜー? 大抵の奴は言うこと聞かせられるつーか、押さえつけられるつーか」
あっ、すっごい上から目線。仰け反って前髪をふぁさーと払払った。
「精霊魔法、ですか」
精霊魔法は召喚術と並んでハイレベルな魔法だと教えてもらった覚えがある。
ちなみに、センさんも精霊魔法の使い手さんだ。けれど、センさんの場合は言うことを聞かせるというよりは、精霊さんたちがセンさんを大好きで、進んでお手伝いしているという感じた。
どちらが良くて悪いのか明言する知識はないけれど、個人的にはセンさんの方がお人柄が出ている気がして素敵だなぁと思う。
「すごい、ですね。でも、私は魔法、使えないです」
私の言葉に、アラケルさんは少しうんざりと首を傾けた。
えーと、なぜでしょう。魔法が使えないことに驚いているのかとも考えただけど、正直そういった反応とは違う気がする。
「それは、わかるんだケド。内側に魔法が溢れてるっぽいから、精霊自身かと思ったんだよね。ねぇ、部屋で精霊魔法について話しようぜ。ついでに、俺に内側見せてくれたら、色々よくしてやるよ?」
腰に手が回されそうになって、思わず短い叫び声があがりそうになった。色気もない感じに。それを何とか耐えて、一歩後ろに下がった。
合気道や柔道が使えたら、間違いなく投げ飛ばしていた。チートになりたい!
「えっえん遠慮しておきます!」
「照れなくてもいいのにナ」
ひえぇ! 話が通じない系だ!! 勘弁してください、この手の人間が一番苦手だ!
「ししょー、ししょー。私の言葉、通じてないですよ!」
私の冷や汗に気がついたのか、アラケルさんの言葉に引っかかったのか。師匠がアラケルさんの首根っこを引っ張ってくれた。
「ったく。アラケルつったか。お前、手を出す相手は選べ」
師匠の眼光を鋭く感じたのは、私の願望だったのかな。
他の人が怒っていると、自分が冷静になれるって本当だ。アラケルさんの首根っこを掴んでいる師匠が、鋭い目つきをしているおかげで、私は幾分か落ち着きを取り戻せた。
「えー、俺なんか悪いこと言いましたっけー」
当のアラケルさんは、あっけらかんとしている。悪びれた様子はない。
今まで通り、飾らずにありのままを語ればいい。
そう頭では理解しているのに、年齢が上の方々には平気に言える現実も、年下の、しかも初対面の方に告げるのは勇気がいるみたいだ。
「私、この世界で異質。だから、浄化されてる。この世界に……受け入れられてない」
言葉も生活知識もゼロから身につけるとなった時点で、安いプライドなんて捨てたはずなのに。現実も口に出来ない、自分の中に残っていた甘えに唇を噛み締めた。
それに……私は、どうしたいのだろうか。今しがた呟いた独り言。受けれいられたいの? 受け入れられるってことは、元の世界と切り離されるっていう意味なのに?
「アニム」
持ち上げられた髪の一房が、つっと師匠の指を滑っていった。
ただそれだけなのに。掴まれたわけでも、引き寄せられたわけでもないのに。師匠の視線があまりに強くて……泣きたくなった。
「し、しょー?」
「アニムはアニムだ。お前がお前なら、それでいい」
眠たそうに落とされた瞼の奥、アイスブルーの薄い色。紡がれた声だって、淡々としているのに。どうしようもなく、呼吸が苦しくなる。
私の本名は「アニム」じゃないのに。師匠が呼んでくれる度、自分が「アニム」になっていくのはどうしてだろう。
「アラケルさん、ついていけるほど、知識、ないです。魔法使えない、基礎 勉強中、ごめんなさい」
「へぇー。あっそ。じゃあ、アニムは、なんで大魔法使い唯一の弟子なワケ?」
ちょっと小馬鹿にするような笑いが、胸に刺さる。
そのまま、アラケルさん、だるそうな態度で師匠の腕を手の甲で叩いた。その仕草に、グラビスさんが雪景色顔負けに蒼白になっていく。見ている方が可哀想になってしまうくらい、動揺が手に取るようにわかる。
「えっと。弟子、いうよりは、お手伝い?」
場を和ませたくて、高めの声が出てしまった。わざとらしくないと良いけど。
こちらの世界の人、特に師匠の周りに集まる方々は優秀だったり魔法の道に携わっていたりする場合が多い。そのような人たちから見れば、師匠が私みたいな魔力もない人間を弟子にとっている、不思議でたまらないだろう。
私が師匠の召喚術失敗に巻き込まれたから面倒見てもらっていると知っているのも、極一部の方々だけだし。
「手伝いー? それなら式神で充分じゃね? それとも、大魔法使いな割に、式神作れねぇとかは、ないよなぁ?」
「何を言うか! ウィータ様の式神は感情さえ持つ、まれに見る完成度なのだぞ!」
「ふーん」
私が言葉を紡げずに横に大きく頭を振ったところで、グラビスさんが代弁してくださった。
師匠は、本来感情が薄いか全く持たないらしい式神さんに想いを抱かせるほど、すごい人だ。師匠は人としても、魔法使いとしても素敵な人。それは、絶対。
「ししょー、式神さんたちにも、好かれているです。特に、生まれたばっかり、フィーニスとフィーネ、子猫の式神たち、ししょー、大好き」
子猫式神のフィーニスとフィーネ。二人は主っていう以上に、師匠自体が大好きだ。師匠も先輩式神のウーヌスさんも、まるで親そのものだ。
「自分はフィーニス殿とフィーネ殿にお会いした機会ありませんが……わかる気がします」
フィーニスたちをグラビスさんに認めてもらったのが嬉しいのと同時。自分の至らなさに悔しくなった。
今まで出会った訪問者さんたちは年長者が多く、事情を知らなくても察して下さる方がほとんどだった。センさんやホーラさん、それにラスターさんも『旧友の弟子』である私に、優しくしてくれている。
「ふーん。てか、それはそれでしょ。結局アニムは何で今のポジションなわけ? 何が得意なの?」
アラケルさんのようにストレートな言葉をぶつけられるのが、こんなに苦しいだなんて……。
『きっと、私、頑張ってるつもりでいたんだ。認められてるつもりで、いた』
久しぶりに使った日本語は、空気に溶け込んで消えていく。だれにも届かない、大きさで。けれど、形になってしまった言葉に、さらに情けなさが増す。
『私、ししょーの隣にいるのが当たり前に思っていたの?』
自分の未熟さを棚にあげて辛くなるなんて、駄目だ。駄目すぎる。
床を睨み、ぐっと唇を横に引く。笑わなきゃ。何もできないなら、せめて師匠に恥をかかせちゃいけない。
「そう、突っかからないでくれ」
そんな私の背中へ静かに触れてきたのは、師匠のぬくもりだった。はっと顔があがる。
「こっちにも色々事情があんだよ。こう見えて、アニムも魔法使う以外は優秀なんだぜ?」
思わぬ言葉に、私自身が驚いてしまう。
ぽかんと口を開けている私に、師匠はとろんとした笑みをくれた。泣きたくなって、またうつ向いてしまう。
「へぇ。例えばぁ?」
「そうだなぁ。木登りとか、魚の掴み取りとか、野性的な部分か?」
おどけた調子で、にやりと笑う師匠。グラビスさんが、小さく吹き出したのが聞こえた。でも、嫌な感じではなく、あたたかい笑いだ。「こっこれは失礼!」と生真面目に謝って下さるグラビスさん。へへっと、照れ笑いを浮かべられた。
師匠は耳を抓るだけで、許してあげよう。
「ししょー、木登り得意は、自慢けど、もっと言い方!」
「冗談だよ。アニムは魔薬や魔法道具の調合や料理なんかは、結構腕がいいし、助かってる。飲み込みも早いし、好奇心も旺盛だしな」
「そういうもんすか?」
アラケルさんは、いまいち納得がいかない様子だ。
でも、私は大きくなっていく鼓動を抑えるのに必死で、そこまで気に止める余裕がない。私を庇っての言葉なのは理解しているけど、それでも師匠の言葉は嬉い。頭を撫でてくれる手つきはとっても優しいし、微笑みかけてくれるアイスブルーの瞳は綺麗だ。
「あの、ししょー。お世辞でも、嬉しい、ですよ」
「アニム、オレは世辞なんていう人間か?」
頬が熱くなっていく。蒸気がたちのぼりそうな頬。
わざとらしく咳払いをしてみるが、喉の奥で詰まってしまい、余計に羞恥が強まっただけだった。
「わかった!」
広めの談話室に響いたのは、手を打ち鳴らした音。大きな声にも驚いて、背が伸びたよ。
三人の注目を浴びたのはアラケルさんだった。満面の笑みで、何度も頷いている。たちまち、グラビスさんの眉間に皺が寄っていった。
「お前は、また下らぬ考えを巡らせておったのではあるまいな?」
「小さい問題にも思考を回転させて向き合うのが進歩の道ってネ」
「減らず口め。それで、何がわかったのだ? ようやく、お前もウィータ様の凄さを感じたのか?」
グラビスさんから疲れた声が絞り出された。そんなグラビスさんの言葉を全く聞いていない様子のアラケルさん。再び、私を凝視してくる。
ちょっ、ちょっと寒気を感じる視線だ。
「アニムって、ヨトギが上手いから置いてもらって――」
アラケルさんの言葉は最後まで続かなかった。だんっという、床が抜けるかと思える衝撃と音に、遮られて。
あまりの風圧で、本当に家が揺れた錯覚に陥ったよ。いまだに足元がぐらぐらしている気がする。
「愚か者! ウィータ様、ここは愚息の首を落としてお詫び申し上げます!」
「いでぇ! だって、そうじゃねぇかよ! さっきからの触れ合い方とか反応とか見てたら、ふつーそう考えるって! てか、床に押し付けんな、服が汚れる!」
えっと。アラケルさんが言った単語が理解出来なかったのと、グラビスさんの激怒っぷりに、きょとんとするしかない。アラケルさんは髪を掴まれて、床にうつぶせ状態だ。
教えてもらおうと師匠を見上げて、考えを改めた。静かにお怒りだ。長めの前髪に眼が隠れているけど、糸よりも細くなっているよ。目を開けばビームが出そうな勢いだ。
「それにしても、恋仲やご夫婦など、言いようがあろうにっ! 無礼にもほどがあるわ!」
おぉぉ。屈強戦士のようなグラビスさんの本気の怒声は、本気で体を震わせるよ。たたた助けて、フィーネにフィーニス! ピンクのぷにぷに肉球で、私の頬をふみふみして癒して!
「んだよ! 狭い空間に二人で居るんだから、可笑しくない話じゃね? 式神にさせる奴だっているしよぉ。それに、なんも出来ない奴、じょーしき的に考えても、自分の女や婚姻結ぶメリットなくね? あっ、あれか。長生きな上、大魔法使いだから、逆に幼児趣味的なっ――」
突然やかましかった声が止んだ。
師匠が、うっとおしそうに垂れていたアラケルさんの前髪を持ち上げている。雑草を抜く時の手つきだ。
って、師匠、もしかしなくても、めちゃくちゃ怒ってる?!
「くそ餓鬼の常識なんざ知らねぇし、男女関係の捉え方からわかるてめぇの女性経験を踏まえて同情はしてやる。けど、これ以上、余計な口ききやがるようなら、その歯、全部砕いて舌を引っこ抜くぞ」
師匠が吐き捨てるように言い放った。さすがに唾を吐きかけたりはしないが、そうしても可笑しくないくらい、嫌悪に満ちた声だ。
師匠は、私に背を向けてしゃがみこんでいるので顔は見えない。それでも、全身からお怒りオーラが発せられているのはわかる。黒い暗黒の使者を召喚しそう。
「もっ申し訳ございませぬ! 自分の教育が至らぬばかりに、ウィータ様とアニム殿を煩わせてしまい申した!」
アラケルさんだけでなくグラビスさんまでも血の気をなくしていくので、相当な殺気なのでしょう。
腹を切りかねない位うろたえたグラビスさんの声に、冷静になったのだろう。師匠は片眉を下げて、立ち上がる。
「いや。グラビスを責めているわけじゃねぇよ。オレも短気を起こして悪かった」
師匠の声は、いつも通り少し高めの声に戻っていた。声どころか全身を震わせているグラビスさんの肩を軽く叩いている。
人事のように見ている私だけど、先程から体が強ばって全く動けない。アラケルさんが最初に口にした単語は理解出来なかった。けれども、おふたりのやり取りから推測出来てしまったのだ。
以前、「式神の日常応用編」という本を書庫で見つけて、読んだことがあった。師匠からしたら基礎も基礎な内容だったので、きっと存在自体忘れていたのだろう。生々しい表記のある本は、私に見つけられないようにしているという情報を、センさんから聞いていたから。
そこには、性行為の際、命を狙われるリスクと金銭面を考慮すると、娼館へ足を運ぶよりも安全かつ経済的な方法として、式神に夜の世話をさせるのが良いと記述があったのだ。
もちろん、師匠が私をそういう扱いにしようと考えているなんて思いつきもしないし、旧友の皆さんも師匠の人柄を知っているので同じだろう。
けれど、私たちの状況をアラケルさんのように考える方がいても可笑しくはないのだ。私がちゃんと魔法を使えれば……優秀な魔法使いなら、一笑できるのに。
「アニム、嫌な思いさせたな」
違う。私は自分の中に生まれている感情にやましさを感じているから、下を向いてしまうんだ。師匠に庇ってもらう資格なんてない。心のどこかが、そう叫ぶ。
「アニム殿、誠に申し訳ありませぬ! 愚息、お前も精魂込めてお詫び申し上げろ」
グラビスさんが床に両拳をついて、頭を下げてた。不良少年の代わりに必死で頭を下げている親の図だ。お約束通り、頭を抑えるけられている当の本人は顔をずらして、舌打ちをするだけ。テンプレ過ぎるよ。
冷静に考えている自分に気がつき、慌てて両手を振った。拗ねているアラケルさんはともかく、グラビスさんに謝られる理由はない。
「嫌思う、なにかありました? 意味不明だけど、みんな激しくて、びっくりしてただけ。グラビスさんも、立ってください」
「……そっか。じゃあ、アニム、用意してくれてる軽食をグラビスたちに渡してやってくれ」
必要以上に柔らかい師匠の声。気遣いを感じた。私の心の内などお見通し、そう言われているようだ。
駄目だ、今は考え込むのはやめなきゃ。後で一人になってから、ベッドの中で落ち込めば良いだけ。歯を食いしばりそうになり、へらりと笑うことで回避する。
「はい、ですよ。あとは、籠入れるだけ、だから、すぐ用意しちゃうです」
何よりショックだったのは、腕に触れようとした師匠の手が宙で固まったこと。
きっと師匠のことだから、さっきのアラケルさんの触れ方云々を気にして、私が嫌な思いをしないために手を止めたのだろう。
わかっている。頭ではいくらでも可能性を用意できるし、受け止められる。
「だから、大丈夫、ですよ」
でも、肺が悲鳴をあげる。冷たい空気は澄んでいるのに、熱にうなされているように呼吸が苦しい。とても不細工に笑っている自覚はあっても、どうしようもない。
師匠は振り返り、床に額を付けているグラビスさんの肩を叩いた。触れた。それにまた、心臓がぎゅうっとなる。
「ほら、グラビスがいつまでもそうやってるから、アニムの奴、気に病んでるぞ? 離れの建物の風呂を沸かしてるから、あったまって寝ろ。明日は早くに出るからな」
「はいっ! 頂戴いたします! ご用意いただいた夜食は、せめて自分で運びますゆえ、調理場に失礼いたします」
グラビスさんは目にも止まらない速さで、調理場へ駆け込んで行った。師匠の発言は絶対という感じだ。大柄な男性がする可愛い行動に、思わず、くすりと笑いが溢れてしまった。
師匠も柔らかい苦笑を浮かべている。
「さて。アニム、お前はもう寝て大丈夫だ。付き合わせて悪かった。体も冷えたよな」
「平気。部屋、あっためてあるから。おやすみなさい」
精一杯の笑顔を作る。でも、上手くいかず、ストールを握る手に力が入ってしまう。
最初に思った、さすがに女子高生年齢と十九歳を間違えるなんてとか、ちゃらお寒いとか、そんな考えは微塵も残っていない。ただ、自分の存在の小ささと努力不足が、忌々しい。
「おやすみ、アニム」
私の心中を察してか、師匠が眉を下げた。
「子猫たちもそろそろウーヌスとの勉強が終わるはずだ。部屋に行ったら、思いっきり甘やかして、一緒に寝てやれ。じゃないと、明日の朝食で子猫たちはバンズをふたつしか食べられないだろうからな」
冗談ぽく柔らかく囁かれて、涙腺が緩んでしまう。
心配をかけてはいけない。ちゃんとした笑顔を作らなきゃ。どうか、唇が震えていませんように。口角をきゅっと上げてみせる。
なのに、師匠は呆れ笑いを向けてくる。
「アニム。お前が後ろめたくなる必要なんて何もない。いつも通り、ぐっすり寝ろ。けど、ちゃんと鍵はしておけよ?」
耳の淵に柔らかい感触が襲ってきて、ぞくりと震えてしまう。
甘いあまい声。蕩けるように名前を呼ばれた。そして、耳の奥に届く掠れた吐息。じんと、下腹部が痺れる声。おへその下が、得も言われぬ熱で疼く。
おまけにと、反対側の耳辺りの髪に絡んだ指が、つっと首筋を滑っていく。耐えられずに、びくんと、体が勝手に跳ねてしまったた。
「っう、ししょー、どうしたの? こんなしたら、ししょー、変なこと、言われる、よ? それ、私、すごく嫌だ」
師匠ってば、一体どういうつもりだろう。
床から起き上がり服の埃を払っているアラケルさんを盗み見る。彼は自分の服を汚れを睨んで、ぶつくさと言っているので、こちらの様子には気がついていないようだ。でも、こんなの見られたら、アラケルさんの口を開かせるだけなのに!
「ししょ?」
確かに、触れてもらえなかったことに傷ついた。でも、今は、いらぬ疑惑を拭うことの方が大切なはず。
ぎゅっと。師匠の胸元を掴むと、その手さえ柔らかく撫でられて……瞳の奥が熱をもっていく。
「あほ弟子。師匠を気にかけるなんて、百年早ぇよ。それに、ほら。震えてる。あと、子猫たちを撫でるのに夢中になりすぎて、寝るの忘れるなよ。オレは、そっちのが心配だ」
おまけにと、ちゅっと額にキスを落とされた。
グラビスさんがいらっしゃらなくて良かった。たった今、冷えていた体が燃え上がっていく。
私を慰めてくれているだけなのか、気まぐれなのか、アラケルさんに対する意地なのか。師匠が何を考えて行動しているのか理解出来ない。けれど、師匠のことだから、私の揺らぎを汲んでくれたのだろう。
「ん、だいじょーぶ」
いけないと考えてはいるのに、肩に顔を埋めてしまう自分が憎らしい。弱い、弱い。私は、弱い。力とか知識じゃなくて、心が弱い。
ただ、ぎゅっと抱きしめられて、幸せを感じてしまったのは確かだ。あやすような手つきに、甘えてしまう。
「ほれ、森の主も裸足で逃げ出しそうな奇妙な顔で笑うな」
「ひひょー、ほっへた、いたひ」
師匠に頬を思い切り引っ張られた。けらけらと意地悪く笑う師匠は、二人の時と、全く変わらない様子だ。手を離したかと思うと「小娘は早く寝ろ」と背中を押してきた。
熱くなった身体を、今度は自分の腕で抱きしめたまま踵を返す。薄暗い廊下が、感触を思い出させて、涙腺を刺激してくる。メインの階段じゃなくて、裏階段で二階にあがろう。少しでも自室への距離が短い方がいい。
ぎしっとなった階段の悲鳴に混じって聞こえたのは、押し殺した声だった。
「いいか、くそ餓鬼。グラビスに免じて、今日は許してやる。それに、てめぇがオレたちを、どう見ようと関係ねぇ。けれど、アニムを傷つけたり手を出したりしたら――」
「なっなんだよ。吹雪の中に叩き出すって? まぁ、俺くらいの精霊魔法の使い手なら一晩くらい――」
「これ以上あいつを傷つけたり触れたりしたら、ご自慢の精霊魔法も体も一生使い物にならねぇようにしてやるから、そのつもりでいろ」
階段を駆け上がる音に混じって聞こえた声は、耳にしたことのない響きだった。冷酷で慈悲の欠片もない音。でも、そんな声さえも、師匠のモノだと思うと不思議と怖くはない。
それよりも、私は自己嫌悪で流れてくる涙を拭うのに、必死だった。空気に触れては消えていく息に混じりたい、そう思いながら足を動かした。




