仮初の恋人
黒川くんの恋人役は案外順調だった。
会社帰りにご飯を一緒に食べたり、休日に出かけたり。やっていることは普通の恋人と変わらない。
唯一の違いといえば恋人としての触れ合いがないくらいだけど、それは仮初の関係だから当然だ。
ああでも、手を繋ぐことはあったわね。
休日に出かけた先で、人混みの中はぐれないようにするために手を繋いだ。
元々つき合った相手も一人しかいなかった私にとって剛人以外との接触は新鮮だった。
体が大きいから手も大きいのよね。
私の手をすっぽりと包んでも余るくらいの黒川くんと手を繋いでいると、守られているような安心感を覚えてしまう。
街中でも私が車道側を歩かないように配慮してくれたり、歩き疲れないように気をつかってくれたり、気配りが上手な人だと思う。
ある意味快適すぎて、この状況に慣れてしまうのはまずい気がする……。
私の乏しい恋愛経験と照らし合わせても黒川くんは恋人の扱いが上手いことがわかるから。
でも考えてみれば、結衣に対して恋人として振る舞うだけなら休日まで一緒に出かける必要はないのでは?
そう気づいたのは何回目かのデートの後だ。
大概鈍いという自覚はある。
でも誘ってくれるから断れないのよね……。
そんなことをつらつらと考えながらフロアの廊下を歩いていたら物陰から声が聞こえた。
「あんな人のどこがいいの? 婚約者にも捨てられてるじゃない」
廊下を曲がった先、あまり使われることのない会議室の前に結衣と黒川くんがいる。
会議室の向こうに資料室があり、私は仕事のために持ち出していた資料を返しに来て二人が一緒にいる場面に遭遇してしまったようだ。
「僕としては良かったですよ。あの人が別れてくれたおかげで先輩とつき合えることになりましたしね」
結衣が腕に手をかようとするのをスルリとかわして、黒川くんはそう言った。
「それに、先輩の元彼とつき合っているのはあなたでしょう? 他に恋人がいるのに何でそんなことを僕に言えるのか、理解に苦しみますね」
「な……にを言ってるの? 私は誰ともつき合ってないわ」
一瞬動揺を見せながらも結衣が否定する。
私が剛人と別れた時のやり取りを黒川くんに見られていたなんて思ってもいないのだろう。
それともあれからまだ少ししか経っていないのにすでに別れたのかもしれない。
給湯室での彼女たちのやり取りを思い返しながらそう思う。
「二人とも、ここは社内よ。個人的なことは他所で話してくれないかしら?」
自分の存在がわかるようにあえて靴音を立てながら近づくと私は言った。
「先輩」
黒川くんは嬉しそうに小さく微笑み、結衣は苦虫を噛み潰したような顔をしている。
なんて対照的な顔。
「関係ない人は口出ししないでください」
「関係あるかどうかではなく、社内モラル的に就業時間中にこんなところで個人的な話をしないように、ということよ」
そう言うと私は二人の間を通り抜ける。
そして目的地である資料室の扉に手をかけた。
「手伝います」
そう言って黒川くんが私の手から資料を取り上げる。
すごく重かった訳ではないけれど、でも身軽になって私は扉を開けた。
「ああ、そういえば課長が呼んでいたわよ」
ここに来る直前に託された伝言を伝えれば、この場に留まり続けるのは得策ではないと思ったのか結衣がくるりと身を翻して去って行く。
「疑っていたわけじゃないけれど、本当に言い寄ってきてるのね」
「そんなことで嘘はつきません」
私がそう言えば、黒川くんが少し不服そうに答える。
そして私たちは資料を返すために部屋へ入ったのだった。




