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葛の花、紅き刃に咲く 〜弐


…一方、虎口に残された与一と光政


「さぁ、光政様

 僕はどうしても生き延びて此処を抜けたいです」


「与一殿、私も家族がいる身です

 此処で死ぬ気など毛頭ござらん

 其れに此処は私が奉公していた城

 相手の出方もわかっています」


 不安そうに弓を構えていた与一

 光政は其れに比べると幾分と余裕があるように見える


 広場に残された二人

 太鼓の音が消えてからというもの、今度は逆に耳をつくような静寂が訪れていた

 

「与一殿、あそこが見えますか?

 あの場所から矢の一斉射撃が来ます」


 光政が指さした場所

 其処は正面の鏡石から上方に位置されたやぐらだった


 櫓とは高い位置に築かれた城郭の建築物のこと

 其の役目は城への侵入を食い止めるため、敵の様子を伺ったり、武器や食料を保管したりと多岐に渡る

 其のため、矢倉と記されることも多い

 

 与一は目を凝らして櫓を見た

 雉の村出身の与一

 其の村の伝統芸とも呼べるのは、薬学だけでなく動物の狩猟

 幼い頃から父総士と共に山に出ては、遠くの動物を見定め、其の動きを見切って弓で射止めていた

 其の視力は常人を遥かに凌ぐものだった


 与一は構えていた弓を一旦左手で下方に納めながら、右手で背中の矢筒から一本の矢を取り出した

 ややあって足を肩幅に踏み開き、姿勢を作った

 更に右手に持った矢を左手に持った弓に重ね、弓の下部を左の膝頭に乗せて、右手を腰に置いた

 次の瞬間には右手人差し指が弦に掛けられていた


 光政は其の自然で美しい一連の動作に目を奪われていた

 藤原道場で玄信とともに剣技を習得した男

 武芸に秀でた光政を以てしても、与一の動きは目を奪われるものがあった


 与一は構わず続けた

 長く細い息を吐きながら、両手が同じ高さになるように静かに持ち上げていく

 

 キリキリキリ


 此の静けさだからこそ聞こえる

 与一が弦を引き始めた音


 与一は胸を開きながら、弓と弦の間に身体を入れるようにして両手を均等に引き分けていった


 桃を護るために、僕は

 僕は此の人達を止めるしかないんだ

 殺さず…


 …時が止まる

 与一は視線、矢尻を一直線に櫓に定め、微動だにしなかった

 

 と、次の瞬間

 

 ビュンっ!!!!


 それまでの静けさが嘘だったかのように、急速に流れ出した時間

 

 其れは与一が櫓目掛けて矢を放った瞬間から始まった

 

 放たれた矢は、物凄い速さで櫓へと飛んでいく

 光政は未だ事態を読み込めていない


 ヒューーーー、ドスっ!!


 与一の矢は櫓の中に吸い込まれ、何かに突き刺さった

 光政も目を凝らして櫓の方を見るが、櫓の中は暗く、矢が何に刺さったのか見えなかった

 其れも其のはず、与一らがいた場所から櫓までは約一三丈(現代でいう40m)

 通常人の視力では、其の距離にある櫓の中の暗闇に何があるか見通すことなどできない


 光政が与一に対し、技術だけではなく其の身体能力に感心した時、櫓の方からは悲鳴にも似た怒号が聞こえてきた


「この餓鬼が!!

 舐め腐りおってぇぇぇ!!!」

 

 次の瞬間、櫓の中から複数の顔が露になった

 其の中の一人、先程怒号を上げた男だろうか、苦痛に顔を歪めながら左肩の辺りを抑えている


 まさか、狙ったのか

 致命傷を避けて


 光政が再び与一を見る

 与一は光政が考えていることを悟ったかのように、櫓を見つめながら頷いた


「桃との約束、誰も殺さない」


 光政が口を挟む隙なく、与一が続けた

 

「しゃがんで隠れてた奴もいたのか、そこまではわからなかった

十、二十、少なく見積もっても三十はいそうですね

 矢が、足りないな」


 与一は櫓を睨みつけながら焦りの表情を浮かべた

 左腰と背中に背負った矢筒にはそれぞれ十二本の矢が納められている

 先程放った1本を抜けば、残りは二十三本

 与一が一本も外さなかったとしても、数が足りない

 

「与一殿、最大で五十、あそこに隠れることが出来ます」

 

「…多いな

 手練れの弓兵はいますか?」


「与一殿程の者には出会ったことがありませんが、十数人位は」


「そうで…」


 ヒュンっ!


 与一が言い終える前に飛んできた一本の矢

 其れは与一と光政の足元、斜めに突き刺さった


「くっ!」

 

 弓を放った武士が悔しさのあまり大きな声を上げた

 櫓の中にいた其の男は、次の矢を放たんと再び矢筒に手を伸ばしていた


「何をしておるっ!!

 射れ!殺すのだっ!

 裏切り者の光政も道連れじゃぁ!!」


 先程、えんじ色の袴を着た男が金切声を上げた

 周りの武士も其の声に倣って弓を構え始める


「与一殿、私の後方で弓のご準備を」


 そう言って光政は、地面に刺さった矢を引き抜いて与一に手渡した

 

「こうすれば、矢が減りづらいでしょう」


 光政の一言に力強く頷いた与一

 

「放てぇぇぇい!」


 其の声の後、櫓の中から一斉に矢が放たれた

 それらはほんの少しだけ放物線を描きながら与一らのほうへと向かってくる


 ストン、ブスっ!


 矢の殆どは光政の足元の地面に突き刺さる

 其れも其のはず、櫓の中は長弓を構えるには手狭であったため、武士の殆どが小さな弓(半弓と呼ばれる)を装備していた

 弓矢による射程は弓自体の素材のほか、弓の大きさに左右される

 其れに加え、射る者の技術

 大きな弓を扱うには、腕力だけでなく、知識、経験、技術が必要であった

 約十三丈の距離にいる光政らを、半弓で狙える者は少なかった


 カキィィィーン


 与一目掛けて正確に飛んできていた一本の矢

 刀を抜いて、光政が薙ぎ払った

 

 途端、暗転した空から、雨が降り出した


 光政は、地面に落ちた矢を見ながら、玄信からの教えを思い出していた  


…「いいか、俺達の剣は攻めるだけじゃねぇ

 勿論攻めることに意味はあるんだが、自分や誰かを護りたいって思った時に出る一太刀は、何も考えないで振ったときよりも、強くて優しいんだ

 護る為の剣、其れは時に相手を追い詰める最強の手段に成り得る

 まぁ、未だお前らにはわかんないだろうがな」


 光政は雨に打たれながら静かに家族を想った

そして、目を-開いた


「師範、今ならわかります。

 剣はただ振るうものではない。

 与一殿をお護りする

 そして其れは、私が一番護りたいものを護る剣と成る」


 光政は降りしきる雨の中、再び刀を身体の正面に構え、弓兵達を鋭く睨みつけた


 優しい音だ

 なんて優しい剣なんだ


 与一は光政の背後に隠れながらそう思った

 殺す、ではなく護る

 其の思いの違いだけで、更なる高みに昇華した光政


 雨は勢いを増していた

 光政の刀に当たる雨粒の音が、まるで規則正しく拍子を取っているようだった

 遠くでは鏡石に落ちた雨粒が、美しい波紋を広げていく


 射撃者にとって雨は不利だった

 特に与一には圧倒的といえた

 一対多数

 其れに加え、相手に弓の精度はそこまで求められない

 与一や光政に当たりさえすれば良いのだから

 然し与一には、致命傷を外して彼らの士気を削いで止めるという目的がある

 此の場にいる誰よりも、正確な弓射が求められた


「ひ、怯むな、射てぃ!」


 其の声に呼応するように、一斉に矢が降り出した

 雨と矢、そのどちらもが与一達に降り注いだ


 カキィイン

 

 光政が、まるで踊っているかのように、雨の中で刀を振るった

 視界が悪い上に余りにも多くの矢数

 光政の袴は、少しずつ赤く染まっていった


 与一は目を閉じた

 遮られた日光、雨、矢の所為で、弓兵の位置を正確に把握出来ないから

 

 途端、先程まで聴こえていた敵兵の怒号、雨音、光政の優しい剣の音

 それら全てが鳴り止んだ

 

 ドクンドクン


 スゥー、ハー


 まずは心臓の音

 其の低音に合わせるように呼吸の音が聴こえ始める


 ザーっ


 次に耳に入ったのは雨の音

 大粒の雨だが、耳をすませば一雫ごと音が違う

 まるで個性があるように聴き分けられる

 

 ヒュン、ヒュン、カキィイン


 此れは一斉射撃された矢を光政様が薙ぎ払う音

 優しい剣に、痛みが混ざっていく

 もう少し、もう少しだけ耐えてください


 目を閉じると、其々の音の色、強弱、想い

 全てが立体的に感じられる

 今なら、手に取るように敵の矢が、いや、矢を射る敵の位置がわかる

 これなら…


 与一は目を閉じたまま矢筒に手を伸ばし、取り出した矢を弦に合わせる

 

 僕は、迷わない


 ヒュンっ!


 次の瞬間、遠く離れた櫓にいる弓兵の弓が吹き飛んだ

 与一が放った矢、其れは正確に弓兵の弓を捉えていた

 

 目を閉じているのに、世界が手に取るようにわかる

 雨、風、舞う剣、息遣い、弦が振動する其の僅かな音さえも

 心、そう心で矢を放つ


 ヒュン、ヒュンっ


 2人、3人と弓を弾かれていく弓兵達

 

「馬鹿な!此の距離に雨、条件は相当悪いはず…」


 敵兵の放つ矢がどんどん減っていく

 弓を弾かれた者だけでなく、自主的に矢を放たなくなる者までいた


 極限に悪い条件の中、正確に矢を放ち続ける与一に

 或いは、血に染まりゆく袴を着た光政が、優しい剣で矢を薙ぎ払い続ける其の姿に

皆、心を打たれていく

 光政は城の武士、人柄も良い

 光政を慕う者は多かった


「待ってくれ、俺達は何のために…

 此れは、何の戦いなんだ…」


「光政様には、射てません…」


 徐々に戦意を消失していく弓兵達

 光政を慕っていた若い武士達には、既にして矢を放つ意思はない

 其れでも未だ、そんな武士らを鼓舞し続ける年老いた武士

のどを嗄らしながら叫ぶ


「たわけがぁぁ!

 貴様らは其れでも武士か!

 領主様に忠誠を誓ったんじゃなかったのかぁっ!!!」


 だがもう其の声は若い兵達には届かない

 弓を置いて、徐々に後退し始めていく


 其の音は、与一にも聴こえていた

 矢筒に蓄えていた矢は残り1本

 一際大きく息を吸い込む

 

 これまでで一番大きな雨粒が鏡石に当たって、無数の粒となって霧散した

 其の時、与一が最後の矢を放った


 其れは櫓の弓兵隊ではなく、鏡石へと真っすぐ向かっていった


「何をしてる

 血迷ったか!?」


 老武士がそう言った直後、矢は鏡石の中心を捉えた


パリィィィィィン!!!


 鏡石は、まるで内部から爆弾でも仕込まれたかのように、大袈裟に砕け散った

 其の破片が、櫓の上でまだ弓を構えていた武士達の身体に直撃する


 小さな破片

怪我を負う者はいない

 然し、其れらは、残った戦意を削ぐには充分だった


「次元が違いすぎる」


「目を瞑って射てる

 あれは、心射だ…」


 次々にそう零す弓兵たち


 言い伝えに過ぎないかもしれない


 其の昔、達人と呼ばれた弓使いがいた

 弓使いは、病気で視力を失った後、より弓の技術が向上したという

 曰く『弓は目で射るに非ず、心で射るのだ』

 視力に頼らずに矢を射ることは、想像するよりも難い

 心射は、弓術を極めようとする者達の間で、伝説となっていた


 与一の其れは、正に心射と呼べるものだった

 確率だけで言えば、桃の持つ心眼の方が珍しくない

 抑も視力で敵を捉えることが出来るのなら、心射という能力は必要ないのだから

 

 然し、射撃手にとって極端に条件の悪い今

 其の心射という能力は、抜群に効果を発揮する

 心射を開眼した与一

 完全に場を支配したといって良かった


 


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