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新しい家族が住む家には大きな花壇があった。レンカは大喜びで花を指さしては、ハイルにこれはなんていうお花? と聞いてまわった。鬱陶しかったに違いないのに、彼はひとつひとつの花の名を丁寧に教えてくれた。
そしてレンカの視線と指が花壇の一番端に植えられていた赤と橙の小さな花を指した時、ハイルは少し得意げな表情を見せて、小さな花をいくつか摘んでみせた。
「アスクレピアスって言うんだよ。毒があるんだけど、夏の太陽みたいな色をしているでしょ。ほら、見てごらん」
ハイルの指先が花弁をなぞると、きらめく赤色が空中に躍り出た。歓声をあげたレンカに気をよくして彼はさらに小さな色の粒をレンカの前に浮かばせる。
気づけば、レンカのまわりはきらきらと光を受けて輝く赤の粒に取り囲まれていた。
「うん。レンカによく似合うね」
この恋のきっかけを辿るならきっとあの日。
あなたが教えてくれた色は、どんな色よりもきれいだった。
今もずっと、あの赤色が胸のまんなかに咲いている。
***
雨はどんどん激しくなっていき、塔に着いた時には二人ともまるで濡れねずみのようだった。
レンカは濡れて濃い赤にも見える髪をきつく絞って、すぐに塔の扉を開く。こんな格好で塔に入ったら、あとで教師に叱られるかもしれないが、今は時間が惜しい。この瞬間を逃したら、もう二度と夏を彩れない気がした。
階段に水滴が落ちるのも構わずに、いそいで地下へと降りていく。雨で冷えてしまった体を凍えさせるほどの地下の冷気も気にならなかった。
部屋へ入ると、ヒマワリの黄色がすっかり消え去ってしまった乳白色の季彩石が沈黙をたもってレンカを待っていた。
棚から硝子の瓶と彩色紙を取り出し、季彩石の前に立った。震えている手足を叱咤して、唇を開く。こういう時、強がるのは得意のはずだ。
「始めます」
いつもの合図にエマはしっかり頷いた。
アスクレピアスに触れる前に、一度瞼を閉じる。まなうらにハイルの姿が像を結んだ。
どうしようもなくいじわるなくせに、いつも苦しそうにしていた人。きっとレンカを無視したかったのに、最後の最後までそれが出来なかった人。
とてもずるくて、本当は優しかったあの人に夏をあげたかった。
認めるだとか見返すとかそんなの関係ないほど、強く強く。たとえきれいとは言えないいびつな恋だったとしても、この想いだけは嘘じゃない。
頭の中に赤を思い浮かべた。光にきらめいて、鮮やかだったあの日の赤色。
わたしのはじまりの色。大切な思い出。
瞼を開けて、アスクレピアスの小さな花弁に触れると、すぐに色が浮き上がった。夏の太陽と同じ、鮮烈な濃い熱の色は次々とレンカの指を乞うように集まってくる。
腕の中のアスクレピアスが跡形もなく消えていくのを見届けてから、彩色紙を手のひらに乗せ、瓶をひっくり返した。
途端、視界すべてが染められたかのような勢いで赤色の糸が広がる。血液よりもなお濃いそれを手繰り寄せ、螺旋の形を成してから白く濁って沈黙している季彩石に向かって解放した。
一瞬のうちに放たれた光に目がくらむ。それほどに強烈なまばゆさで、蹂躙するように赤色が鉱石の中で濃度を増していく。
光が穏やかになっても、季彩石から色が失われることはなかった。
あの日の赤色が、目の前にあって。レンカは少しだけ痛みをこらえなければいけなかった。
どちらからともなくエマと目を合わせて、微笑みあう。エマは笑うと途端に少女らしい華やかさが綻ぶのだと、はじめて知った。
二人並んで塔から出ると、雲を貫くような日差しと鮮烈な青空が迎えてくれた。さっきまでの雨が嘘のように、地面はすっかり乾いている。
「夏だね」
手をかざしながらつぶやいたエマに合わせて、レンカも思いっきり空を仰いだ。
湿った気配のない風のにおいを吸い込む。
「うん。暑い夏になるね」
空がとびきり青くて、どんな色も鮮やかな夏が始まる。
その前にあの人に会いに行こうと、レンカは思った。
最後の最後まで逃げ出してしまったけれど、本当はまだ少しこわいけれど、だからこそきちんと向き合わなければいけない。
レンカの決意を後押しするように澄んだ水たまりがきらきらと輝いていた。
***
彼が眠っている墓地は学院の裏手の坂道を進んだリストニアで一番高い場所にある。
レンカは汗をかきながら、坂道を駆けていた。
今日の空は透きとおるような青さをしている。まだ真夏とは言えないけれど、それでももう湿った雨の気配はすっかり遠のいていた。
容赦なく照りつける太陽のせいで、汗がしずくとなって滴っていく。きっと今日は誰もが分厚い上着を放り出しているだろう。
少し息をあげながら、上りきった場所からリストニアを見下ろすと、たくさんの色が目に飛び込んでくる。青も緑も赤も白も黒も、どれもが美しいまばゆさで光り輝いていた。
この景色をあの人は遠くから見ているだろうか。
そうであればいいと祈りながら、ひそやかな静けさに包まれた墓地に足を踏み入れた。
立ち並ぶ墓石の中で、真新しい白の墓はすぐに見つかった。夏の雲を切り取ったような墓石には、くっきりと文字が刻まれている。
「ハイル・エイロード」
刻まれた名前を読むと、胸がずきずきと痛んだ。後悔や悲しみが溢れ出して、視界を歪ませようとするのをこらえて、花束をそっと寝かせかけた。ヒマワリとアスクレピアスとマリーゴールドで作った夏の花束は、白い墓には少し似合わない。
「ずっと言いたいことがあったの」
深呼吸をして墓石の前にしゃがみ込んだ途端、レンカはありったけの文句をぶちまけた。
「いつもあなたはひどかったよね。頑張って合格したのに「おまえなんか来るな」って言ったり、すれ違う度に「さっさとどっか行けよ」とか。近づいてくるのはいつも自分のくせに。だいたい大嫌いって言われ続けて、わたしとっても傷ついてたのに、自分は嫌わないでってどういうことなの? そんなの理不尽すぎない? 言い逃げばっかりしてずるい。すごくずるい」
出てくるのは子どもの喧嘩じみたものばかりだ。こんな小さな言葉でさえ、レンカはハイルに伝えられなかった。もっと早くに言えばよかった。
結局、レンカは自分の気持ちからも本当のハイルからも逃げ続けていたのだ。理想ばっかり追い求めて、無言で拒絶し続けた。
そんな自分に想いを伝える資格はないのかもしれない。ここから先はみっともない自己満足だ。誰かを救うものにはなりえない。
ただ伝えたかった。始まりもしないまま行き先を失ってしまった恋を終わらせるために。
「でも、ずっと好きだった。あなたが大好きでした」
告白に対する返事はない。もう永遠に聞くことは出来ない。
それはとてもつらくてかなしいことだけど、ずきずきとする痛みだけが、レンカの想いがたしかにここにあると教えてくれるから、こわくはなかった。
せめてこの身勝手でいびつな想いの、ほんのひとかけらでも、あなたに届きますように。もうぜったいに逃げたりしないから。
「あなたにわたしの彩る最初の夏をあげる。いらないって言うだろうけど、ちゃんと受け取ってね」
レンカはきっとこれからたくさんの人の期待と羨望と嫉妬を背負って、夏を彩っていかなければいけない。
でもこの夏だけは、他の誰でもない。あなただけのもの。
わたしからあなたに贈る、恋の証。
「さようなら」
にこりと笑ってレンカは立ち上がった。笑えてよかった。にじみそうになる涙を強く拭いて、来た道を引き返す。後ろは振り返らずに。
坂を下りる途中、背を追ってきた風に吹かれてアスクレピアスの花が、青い夏の空に吸い込まれていった。