第6話
投稿遅れまして申し訳ございません。
ルシアンの指先が、地図の端で止まった。
「……離宮の近くか」
「殿下?」
ルシアンはそこでようやく視線を戻した。
「いや、問題ない」
クラリスはわずかに首を傾ける。
「殿下には、お馴染みの場所ですの?」
「……幼い頃、しばらくあそこで暮らしていた」
「そうでしたの……」
王家の離宮。
だが、ああした場所ほど、実際の人の出入りも、日々の差配も、王妃の意向が濃く出る。
クラリスはルシアンを見た。
幼い第二王子と、その母君が過ごした場所。
それがただの静養先で済んだはずがないことくらい、想像はついた。
「……大した場所じゃない」
そう言って、ルシアンは視線を地図へ戻した。
けれど、その声がわずかに硬いことに、クラリスは気づいていた。
王妃。
その名が、胸の内で静かに沈む。
ルシアンへ政務を流し込み、孤児院の件でも好きに盤面を動かし、クラーラの出入りさえ、あの女の手の内にあった。
このまま王妃に好きに動かされ続ければ、この婚姻とて安穏とはいかない。
せっかく繋ぎ直したものまで、いずれまた切り離される。
それに――。
クラリスの知る最初のルシアンは、ただ生気を失って静かに立っているだけの人だった。
(……そろそろ、償っていただきましょうか)
「クラリス?」
ルシアンの声に、クラリスははっとして顔を上げた。
「いいえ、何でもありませんわ」
そう答えた声は、とても穏やかだった。
けれどそのとき、クラリスの中ではもう、王妃に対する勘定の付け方が変わり始めていた。
◆
そして、南苑離宮を訪れた日。
「――以上が、今のところ掴めた範囲です♡」
にこやかに言って、マリアは手帳を閉じた。
クラリスは満足そうに頷く。
「ご苦労様、マリア。先にあなたを送って正解でしたわね」
そこでようやく、ルシアンが小さく息をついた。
「……最初からそのつもりだったのか」
「離宮の中を確かめるのに、こちらが正面から入っていては遅いでしょう?」
「よく潜り込ませられたな」
低い声に、クラリスはわずかに顎を上げた。
「別筋を使いましたの」
「別筋?」
「ええ。友人に、地元へ戻る元王都勤めの侍女への紹介状を書いてもらいましたの」
「……友人」
ルシアンが一瞬だけ黙る。
「いたのか……」
ぽつりとこぼれた言葉に、クラリスの目がすっと細められた。
「どうかしましたの?」
「いや、別に……」
ルシアンがそっけなく返した、その時だった。
「王都勤めの侍女というだけで、ずいぶんねちねちいじめられました♡」
マリアが、にこにことしたまま口を挟む。
その一言に、古株たちの肩が目に見えて強ばった。
けれどマリアは気にした様子もなく、胸元の手帳を軽く振る。
「でも、そのおかげでいろいろ見やすかったです♡ 誰がどこを仕切っているか、誰が何を隠したがるか、よぉくわかりましたので」
「よろしくてよ、マリア」
やわらかな声音だった。
だが、その場の空気は一気に冷える。
「わたくしの侍女を虐げたこと、見過ごせることではありませんわね」
古株たちの顔色が変わる。
クラリスはその様子を見て、ふっと口元だけで笑った。
「けれど――」
その一言に、何人かがびくりと震える。
「上に立つ者が愚かであれば、下がそれに染まるのも無理はありませんわ」
その場の誰もが、その言葉が誰へ向けられたものかを悟った。
クラリスは目を伏せることなく続ける。
「もっとも、それで罪が消えるわけではありませんけれど」
古株のひとりが、はっと息を呑む。
クラリスはもう彼女たちを見ていなかった。
「ではマリア、案内を」
「はい♡」
弾んだ声で応え、マリアが一歩前へ出る。
その背を追うように、クラリスも歩き出した。
ルシアンが無言で続く。
誰ひとり動けないまま、古株たちはただその姿を見送るしかなかった。
離宮の廊下を、マリアは迷いのない足取りで進んでいく。
「先ほど申し上げた侍女の持ち場はこの先で、帳面類を置いている小部屋も近くにあります♡」
「随分詳しく調べられたのね」
「皆さま、わたくしにはあまり関心がありませんでしたから♡ そのぶん、動きやすうございました」
クラリスはふっと目を細めた。
「仮にも王家の離宮だというのに、新入りひとりに対してずいぶん不用心ですわね」
「愚かですね♡」
マリアとのやりとりのあいだも、ルシアンは終始無言だった。
けれど、クラリスは気づいていた。
離宮へ入ってから、彼の歩調がわずかに硬い。
表情は変わらない。視線も落ち着いている。
ただ、沈黙だけが少し重かった。
廊下をひとつ曲がる。
途端に、ルシアンの足がほんの一拍だけ遅れた。
マリアは気づかず先へ行く。
クラリスだけが、隣を見た。
「殿下?」
「何でもない」
短い返事は、普段より少しだけ低かった。
――離宮へ行ってみないか。
そう切り出した時、ルシアンは「あまり勧めはしない」と言って、視線を逸らした。
それでも、マリアからの文で中の様子が明らかに怪しいとわかると、最後には何も言わず頷いたのだった。
離宮へ向かうため馬車へ乗り込もうとした時も、ルシアンは一瞬だけ足を止めた。
それから何事もなかったように、乗り込んだ。
嫌だったのだろう。
けれど、止めはしなかった。
その様子が、今の沈黙と重なる。
(……殿下を、連れてくるべきではなかったかしら)
一瞬そう思う。
けれど、ここで目を背ければ、また王妃の好きにさせるだけだ。
ルシアン自身も、それがわかっているから来たのだろう。
曲がり角の先には、古い意匠のランプ台が置かれていた。
窓際には細身の卓があり、その奥には閉ざされた扉がある。
「こちらの部屋です♡」
マリアが、小さな扉の前で立ち止まった。




