第4話
クラーラは自室の窓辺に立ち、外を見ていた。
ルシアンが領地へ発ってから、もう数日になる。
「今ごろ、どうしているのかしら……」
思わずこぼれた声は、窓の外へ消えていく。
クラリス様もご一緒なのだから、余計な心配をすることではない。
そう思うのに、あの日のことを思い出すと、どうしても胸の奥に引っかかりが残った。
お二人とも、あの時はひどく張りつめていらした。
きっと今も、楽な道中ではないのではないか。
……少しは、落ち着いてお過ごしだとよいのだけれど。
その時、屋敷の前に馬車が止まる音がした。
クラーラは何気なく視線を向け、次の瞬間、息をのんだ。
「どうして……」
馬車から降りてきたのは、婚約者だった。
今日は会う約束などしていない。
戸惑っているうちに、控えていた侍女が小さく一礼する。
「お嬢様、お客様がお見えです」
「……ええ」
クラーラは窓辺を離れた。
応接間へ通されると、婚約者はすでに立って待っていた。
「急に訪ねてしまってすまない」
「いいえ……どうかなさいましたか」
クラーラは向かいへ腰を下ろした。
侍女が茶を置き、静かに下がっていく。
扉が閉まると、婚約者はすぐには口を開かなかった。
カップに手を伸ばしかけて、やめる。
その小さな迷いが、かえってクラーラの胸を落ち着かなくさせた。
「第二王子殿下が領地へ向かわれたことは聞いている」
「ええ」
彼は少し視線を落とし、それから静かに言った。
「孤児院の件で君が王宮へ上がっていたことも、もちろん承知している。それ自体を咎めるつもりはないよ」
「はい……」
「王家の支援に関わるのは名誉なことだ。孤児院のためになるなら、なおさらだろう」
「……ありがとうございます」
「ただ」
婚約者は視線を伏せ、それから静かに続けた。
「近頃、君の名前が第二王子殿下のお名前と一緒に出ることが増えた」
クラーラの指先が、膝の上でかすかに止まる。
「それは……孤児院の件で、ご一緒することがあったからでしょう」
「そうだろうね。私も、そう思っている」
婚約者はそこで小さく息をついた。
「だが、それで何も感じないほど、私は立派ではないらしい」
クラーラは顔を上げた。
「君に落ち度があると言いたいわけじゃない」
「……はい」
「殿下のお立場をどうこう言えるわけでもない」
そこまで言って、婚約者はようやくクラーラを見た。
「だけど、私の知らないところで君が殿下と時間を過ごし、そのことが周りの口にのぼる……婚約者としては、気分のいい話ではないんだ」
クラーラは何も言えなかった。
「……申し訳ありません」
ようやく出たのは、そんな言葉だった。
婚約者は少しだけ眉を寄せる。
「謝ってほしいわけじゃないし、困らせたくもないんだ」
彼は曖昧な顔で笑った。
「ただ、私が気にしていることくらいは知っていてほしかった」
「……はい」
小さく答えると、婚約者はそれ以上は追わなかった。
やがて立ち上がり、いつもどおり整った礼を取る。
「長居をしてすまなかった」
「いいえ」
「また改めて」
それだけ言って、婚約者は部屋を出ていった。
扉が閉まる。
クラーラはしばらく、そのまま動けなかった。
卓の上の茶は、まだ温かい。
けれど、指先だけがひどく冷えている気がする。
すべて仕事だ。
孤児院のためであり、王家の支援のためであり、王妃の意向でもある。
そこに嘘はない。
けれど、その正しさだけでは届かないものもあるのかもしれない。
婚約者の声が、いつまでも耳に残っていた。
クラーラはそっと両手を重ね、静かに目を伏せた。
◆
エルヴァン公爵領の屋敷。
午後の陽射しが、客間の窓からやわらかく差し込んでいた。
丸卓の上には茶器と焼き菓子が並び、白い磁器の縁に施された金の飾りが、光を受けてささやかにきらめいている。
屋敷から付き従ってきた侍女は、茶を注ぎながら、そっと視線を上げた。
窓際に近い席で、クラリスが一口だけ茶を飲み、それからカップを受け皿へ戻す。
「殿下、どこかへ行きませんこと?」
ふいに落ちたその言葉に、ルシアンが手にしていた本から顔を上げた。
「どうした、急に」
「せっかくこちらへ来たのですもの。ずっと屋敷の中にいるばかりでは、もったいないではありませんか」
クラリスはそう言って、わずかに首を傾けた。
ルシアンは手元の本を閉じる。
「本でも読んでいればいいだろう」
「もう読み飽きましたわ」
「早くないか」
「だって、この屋敷にある本はだいたい知っているものですし、持ってきた本も読み返してしまいましたもの」
きっぱりと言い切ってから、クラリスは指先をひとつ立てた。
「庭園」
次に、もうひとつ。
「果樹園のあたり」
そして、さらにもうひとつ。
「湖の見える場所も気になりますわ」
並べながら言うその調子は、どこか少しだけ弾んでいた。
ルシアンはしばらく黙り込み、それから半ば呆れたように言う。
「……そこまで挙げるということは、行く気なのだろう」
「もちろんですわ。せっかくこの地は天候にも恵まれておりますのに、出歩かないなんてもったいないでしょう?」
クラリスはごく自然にそう返し、焼き菓子へ手を伸ばす。
侍女はその様子に、胸の内でそっと安堵した。
ここへ来るまでのクラリスは、どこか張りつめていた。
静かにしていても、ふとした拍子に意識が遠くへ向いてしまうような、そんな危うさがあった。
けれど、領地へ来てからのクラリスは違う。
こうして自分から言葉を口にし、行きたい場所を挙げる声音にも、以前のような明るさが戻っている。
「殿下は、気になる場所はございませんの?」
「そうだな……」
ルシアンは少し考えるように視線を上げた。
「せっかくなら、庭園くらいは見ておいてもいいかもしれないな」
その返答に、クラリスの表情がわずかにやわらぐ。
(……よかった)
心の中だけでそうつぶやき、侍女は静かに紅茶を注ぎ足した。




