第3話
馬車が緩やかに速度を落とし、やがて大きくひとつ揺れて止まった。
「着きましたわね」
クラリスはそう言って、窓の外へ視線を向けた。
見慣れた正門だった。
王都邸とは違う、どっしりとした石造りの門柱。季節ごとに植え替えられる門前の花壇は、今は春の花で整えられている。色合わせが、以前より少しだけ華やかに見えた。
先に降りたルシアンに手を取られ、クラリスも馬車を下りた。
正面には、領地屋敷の玄関が見えている。
陽を受けた白壁は記憶にあるより少し落ち着いた色に見えたが、正面階段の広さも、柱の意匠も、両脇に並ぶ植木の形も、身体が覚えていた。
すでに使用人たちが並んでおり、先頭に立つ家令が深く一礼する。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
それに続いて、古参の侍女や執事たちも一斉に頭を下げた。
「お帰りなさいませ」
「ええ。ただいま戻りました。留守を預かってくれてありがとう」
顔を上げた家令のこめかみに、以前はなかった白いものが少し混じっている。
その後ろには老執事の姿もあった。
クラリスが視線を向けた、その時だった。
脇に控えていた若い使用人が半歩進み出る。
「お部屋はすでに整えてございます」
そう言ってから、身をルシアンのほうへ向けた。
「殿下のお部屋も南側の客間に。日当たりがよく、静かにお過ごしいただけるよう整えました」
「そう」
クラリスはその使用人を一度だけ見た。
それから、何事もなかったように視線を奥へ流した。
その後ろでは、王都から連れてきた侍女がすでに荷へ目を配っていた。
衣装箱、割れ物を入れた小箱、道中で増えた包みまで、順に視線を走らせている。
「お部屋へ入りましたら、先に必要なものだけ出してちょうだい。残りは後で構いませんわ」
「かしこまりました」
クラリスは改めて家令へ視線を向ける。
「案内を」
「はい」
今度は家令自身が答え、恭しく身を引いた。
クラリスは頷き、玄関へ足を向ける。
屋敷の中へ入ると、磨き上げられた床と、手入れの行き届いた玄関広間が目に入った。
正面階段の手すりも、壁際の飾り棚も、曇りひとつなく整えられている。
ルシアンは玄関広間を見回したあと、クラリスへ目を戻した。
「……慣れているんだな」
「自分の家ですもの」
「そういうものなのか? 久しぶりなんだろう」
「久しぶりですが、数年前まではよく訪れておりましたから」
クラリスは正面階段の脇へちらりと目を向けた。
出迎えを終えた使用人たちは、左右の壁際に分かれて静かに控えている。
「以前とは少し顔ぶれが変わっておりますけれど」
その一言に、家令がわずかに目を見開く。
「よくお気づきになりました。数名、昨年入れ替わっております」
「そうでしょうね。前にいた方が見えませんもの」
案内された廊下を進みながら、クラリスは足を止めることなく周囲へ視線を走らせた。
壁に掛けられた絵も、窓辺の花台も、大きくは変わっていない。
だが、ところどころに手が入っているのがわかる。
廊下に焚かれた香の匂い、季節の花の置き方――どれも乱れてはいないが、以前とは少しずつ違っていた。
やがて家令が扉を開ける。
クラリスは静かに室内へ入った。
そこも見慣れたはずの私室だった。
南向きの大きな窓のそばには小卓が置かれ、淡い青灰色の張り地を使った長椅子が壁際の書棚と向かい合うように据えられていた。
どれも記憶の中にあるまま――そう思ったのは一瞬だった。
机の位置が、以前より少し窓側へ寄せられている。
長椅子の前にあった丸卓はなくなり、代わりに細身の飾り台が置かれていた。
飾られた花も、昔はもっと香りのやわらかなものだったはずだ。
(なんだか……)
クラリスは部屋の中央に立ったまま、ゆっくりと視線を巡らせた。
「……随分、可愛らしくなりましたのね」
「ええ、お年頃に合わせて、少しずつ調えております」
「……そうですの」
クラリスはそれだけ返した。
「お荷物はこちらへお入れいたします」
「お願い」
家令が一礼して下がると、残ったのは侍女だけになった。
扉が閉まる音を聞いてから、クラリスはようやく小さく息を吐いた。
侍女は黙って衣装箱へ手をかけながら、室内を一度見回す。
「以前とは、少し変わっておりますね」
「ええ」
クラリスは飾り台の花へ目を向けたまま答えた。
「悪くはないのでしょうけれど」
「クラリス様のお好みとは、少々違いますね」
侍女は手近な箱を開けながら言った。
「玄関先の花壇も、以前よりも華やかでした」
「あら、よく気づいたわね」
「クラリス様ほどではございませんが……私も奥様と何度か訪れていましたので」
「ええ。屋敷じゅう、少しずつそうなのでしょうね」
言いながら、先ほどの玄関先を思い出す。
半歩前へ出た若い使用人と、ルシアンへ向けられた熱。抑えた顔の家令と、黙ったまま引いた老執事。
クラリスは窓の外へ視線を向けた。
◆
食後、最後の茶が下げられたところで、クラリスは静かに口を開いた。
「皆、少しよろしいかしら」
クラリスは椅子に座ったまま、手にしていた扇を閉じ、卓へ置いた。
「殿下を丁重にお迎えしようとする心がけ自体は結構ですわ。けれど」
そこで一度言葉を切り、クラリスは使用人たちをゆっくり見渡した。
「わたくしに対する配慮が欠けているとは思いませんでしたの?」
誰もすぐには答えられない。
「料理をお出しする順も、声をかける向きも、確認の取り方も、ずいぶんと殿下へ寄っておりましたわね」
若い給仕の一人が、目に見えて顔色を変えた。
ルシアンはそこでわずかに目を上げた。
口は挟まず、卓の向こうからクラリスを見ている。
「殿下をお迎えして浮き立つお気持ちは、わからないではありませんわ。けれど、それで家の礼を崩してよい理由にはなりません」
家令がわずかに目を伏せる。
老執事もまた、黙したまま立っていた。
「そもそも、あの給仕は誰の判断ですの。家令、あなたが許可しましたか」
使用人たちのあいだに、張りつめた沈黙が落ちる。
家令は一拍遅れて、深く頭を下げた。
「……いいえ。私の確認不足でございます」
「よいこと。気を利かせることと、勝手をすることは違います。自分の立場で決めてよいことと、そうでないことの区別くらいは、きちんと弁えなさい」
そこで改めて、家令が深く頭を下げた。
「……申し訳ございません、お嬢様。指導が行き届いておりませんでした。以後、このようなことのないよう徹底いたします」
「そうなさい」
使用人たちは誰一人顔を上げられず、広間には重たい静けさだけが残った。
やがて人払いが済み、クラリスは椅子を引いて立ち上がった。
食堂を出て廊下へ向かう。
その隣で、ルシアンが何も言わずにクラリスを見ていた。
視線を感じて、クラリスは足を止めかける。
「……何ですの」
「いや。さすがだと、そう思っただけだ」
「……別に、褒められるようなことではありませんわ」
そう言いながらも、クラリスの声には、馬車の中にあった硬さが少し薄れていた。
ルシアンは、それ以上は言わなかった。
少しだけ、彼女の調子が戻ったように見えた。
クラリスは廊下の先へ歩き出す。
ルシアンは半歩遅れて、その隣に並んだ。




