第19話
出立の朝の空気は、まだ冷たかった。
エルヴァン公爵家の廊下は早くから人の気配に満ちていた。侍女も従者も皆、声を潜めて動いている。
旅装を整えたクラリスが広間へ下りると、先に待っていたリュシアンがぱっと顔を上げた。けれど、すぐにその表情は曇る。
「姉様……」
珍しく歯切れの悪い声に、クラリスはやわらかな眼差しを向けた。
「何ですの、リュシアン」
リュシアンは少しためらってから、小さく口を開いた。
「さみしくなります……」
「大げさですわ」
「それに、心配です」
クラリスは微笑みながら、リュシアンの頬にそっと触れた。
「ええ、あなたも元気に過ごすのですよ」
弟は唇を引き結び、それでも言葉を継ぐ。
「お元気で、お戻りください」
その言葉に、クラリスの胸の奥がかすかに揺れた。
「ええ、ありがとう。リュシアン」
リュシアンの表情がわずかに和らぐ。ちょうどその時、背後からやわらかな声がした。
「まあ。朝からしんみりしているのね」
振り返ると、エルヴァン公爵夫人がそこに立っていた。
「お母様」
「弟にそこまで案じられるなんて、あなたもなかなか罪なお姉様だこと」
「リュシアンは優しい子ですから」
公爵夫人はふっと笑みを深めた。
「ええ、そうね。けれど、それだけではなくてよ。あなたがそれだけ案じられる姉だということです」
クラリスはわずかに目を伏せたが、何も言わなかった。
さらに足音が重なる。
「支度は済んだのか」
エルヴァン公爵が姿を見せる。
「ええ」
「そうか。では言っておく。逃げたと思われるな」
その一言に、クラリスの眉がぴくりと動いた。
「……わたくしが?」
「お前がどう思っていようと、見る者は勝手に見る。王都を離れる以上、そう受け取る者もいる」
「分かっておりますわ」
「本当に?」
母が横から差し挟む。
「それから、あの方を試すために連れて行くのでもありませんよ」
「試すだなんて、そんなこと」
「あなた、自分が傷つくと、すぐ相手に答えを求めるでしょう」
「……」
クラリスは口をつぐんだ。
夫人はそれを見て、小さくため息をつく。
「悪いことだと言っているのではありません。ただ、あなたは欲しい答えがある時ほど、相手を追い詰めてしまうの」
「わたくしは、別に……」
「別に、ではありません」
父がそこで続ける。
「行く以上は、公爵家の娘として行け」
クラリスは父を見た。
「領地へ戻るのは、お前の感情だけで済む話ではない。家の名も、人の目も、すべてついて回る。好きに振る舞うなとは言わん。だが、その結果まで含めて背負え」
「……ええ」
夫人はそんな娘の顔を見つめ、それからふっと表情をゆるめる。
「そして、第二王子殿下の婚約者としてお行きなさい」
クラリスの睫毛が揺れた。
「拗ねて連れて行くのではなくてよ。あの方を自分の隣に立たせるつもりでお連れするのなら、堂々となさい」
広間がしんと静まる。
リュシアンは不安そうに姉を見上げていたが、やがて意を決したように言った。
「姉様なら……きっと大丈夫です」
「……あなたたち、寄ってたかって人を何だと思っているの」
「可愛い娘ですけれど?」
父も、ほんのわずかに口元を緩めた。
「手のかかる娘だな」
「まるでわたくしが問題ばかり起こしているようではありませんか」
「違うのかしら」
「違うとも言い切れんな」
「お父様まで」
弟がそっと笑い、母も目を細める。父だけは咳払いで誤魔化した。
その空気に押されるように、クラリスの口元もほんの少しだけ和らいだ。
その時だった。
玄関の向こうで、馬車の止まる音がした。
外で従者たちの足音が重なり、ほどなくして執事が姿を見せた。
「ルシアン殿下がお着きでございます」
クラリスはひとつ息を整えた。
先ほどまで家族に向けていた表情を静かに閉じ、いつものように背筋を伸ばす。
「お通しして」
「はっ」
執事が一礼して下がる。
短い間ののち、広間へ足を踏み入れたルシアンは、旅装の上に外套をまとっていた。
「朝早くから失礼する」
ルシアンが落ち着いた声で言うと、公爵が一歩前へ出た。
「お迎えにお越しいただき、恐れ入ります、殿下」
「急な願いであったにもかかわらず、受け入れてくださったこと、感謝している」
ルシアンの視線が、ごく自然にクラリスへ向く。
「待たせたか」
「いいえ。ちょうど支度が整ったところですわ」
クラリスは普段通りに答えたつもりだったが、声にはわずかな硬さが残った。
夫人はそれに気づいたらしく、そっと口元に笑みを浮かべる。
「殿下も、朝からご足労をおかけしましたこと」
「気遣いには及ばない。こちらから迎えに伺うと申し出たのだから」
クラリスは気づかぬふりをしたが、胸の奥の強張りがほんの少しだけほどける。
公爵は娘とルシアンを見比べてから、静かに告げた。
「領地へ向かう馬車の用意は、すでに整っております。護衛もこちらで選んだ者を付けましょう」
「助かる」
「長旅になりますもの。どうかご無理はなさらないでくださいませ」
「心得ている」
ルシアンはそこで小さく目を和らげた。
「では、参ろうか」
クラリスは小さく頷いた。
「ええ」
二人が玄関へ向かうと、公爵と公爵夫人、そして弟もまた見送るために後に続いた。
開いた扉の向こうから、朝の冷えた空気が流れ込んでくる。石段の先には馬車が止まり、従者たちが控えていた。
クラリスが外へ出ると、弟が小さく声を上げた。
「姉様」
振り返ると、リュシアンは何か言いたげに唇を結び、それから意を決したように背筋を伸ばした。
「どうか、お気をつけて」
クラリスはほんの少し目を細める。
「ええ。あなたも、しっかりなさい」
「はい」
公爵が娘に向かって短く言う。
「クラリス」
「はい、お父様」
「行ってこい」
母もまた、静かに頷いた。
「お二人とも、どうかご無事で」
それからルシアンは馬車の扉へ手をかけ、自然に振り返ってクラリスへ手を差し出した。
クラリスはほんの一瞬だけ視線を落とした。
それから何事もない顔で、自分の手を重ねる。
「……ありがとうございます」
小さな声だったが、ルシアンにはきちんと届いたらしい。
目元がわずかにやわらぎ、そのままクラリスを馬車へ導く。
続いてルシアンも乗り込み、扉が閉まる。
窓越しに見えた弟が、ぎゅっと拳を握っていた。
母は静かに微笑み、父はまっすぐにこちらを見ている。
馬車がゆっくりと動き出す。
石畳を進みながら、公爵家の正門が遠ざかっていく。
クラリスは視線を外へ向けたまま、膝の上で手袋越しの指先をそっと握りしめた。
その隣で、ルシアンが静かに口を開く。
「……よい家族だな」
「そうですか?」
「ああ。お前が出ていくのを、惜しんでいた」
クラリスはルシアンを見た。
そのまっすぐな眼差しに触れた途端、そっと外へ視線を戻す。
「ええ……」
それだけ答えて、クラリスは窓の外を流れていく王都の街並みを見つめた。
馬車は王都を抜け、領地へ向かう道へと進んでいく。
第二章はここまでになります。
お読みいただきありがとうございました!
次回から第三章、最終章になります。




