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公爵令嬢クラリスの矜持  作者: 福嶋莉佳
二章

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第19話

出立の朝の空気は、まだ冷たかった。


エルヴァン公爵家の廊下は早くから人の気配に満ちていた。侍女も従者も皆、声を潜めて動いている。


旅装を整えたクラリスが広間へ下りると、先に待っていたリュシアンがぱっと顔を上げた。けれど、すぐにその表情は曇る。


「姉様……」


珍しく歯切れの悪い声に、クラリスはやわらかな眼差しを向けた。


「何ですの、リュシアン」


リュシアンは少しためらってから、小さく口を開いた。


「さみしくなります……」


「大げさですわ」


「それに、心配です」


クラリスは微笑みながら、リュシアンの頬にそっと触れた。


「ええ、あなたも元気に過ごすのですよ」


弟は唇を引き結び、それでも言葉を継ぐ。


「お元気で、お戻りください」


その言葉に、クラリスの胸の奥がかすかに揺れた。


「ええ、ありがとう。リュシアン」


リュシアンの表情がわずかに和らぐ。ちょうどその時、背後からやわらかな声がした。


「まあ。朝からしんみりしているのね」


振り返ると、エルヴァン公爵夫人がそこに立っていた。


「お母様」


「弟にそこまで案じられるなんて、あなたもなかなか罪なお姉様だこと」


「リュシアンは優しい子ですから」


公爵夫人はふっと笑みを深めた。


「ええ、そうね。けれど、それだけではなくてよ。あなたがそれだけ案じられる姉だということです」


クラリスはわずかに目を伏せたが、何も言わなかった。


さらに足音が重なる。


「支度は済んだのか」


エルヴァン公爵が姿を見せる。


「ええ」


「そうか。では言っておく。逃げたと思われるな」


その一言に、クラリスの眉がぴくりと動いた。


「……わたくしが?」


「お前がどう思っていようと、見る者は勝手に見る。王都を離れる以上、そう受け取る者もいる」


「分かっておりますわ」


「本当に?」


母が横から差し挟む。


「それから、あの方を試すために連れて行くのでもありませんよ」


「試すだなんて、そんなこと」


「あなた、自分が傷つくと、すぐ相手に答えを求めるでしょう」


「……」


クラリスは口をつぐんだ。

夫人はそれを見て、小さくため息をつく。


「悪いことだと言っているのではありません。ただ、あなたは欲しい答えがある時ほど、相手を追い詰めてしまうの」


「わたくしは、別に……」


「別に、ではありません」


父がそこで続ける。


「行く以上は、公爵家の娘として行け」


クラリスは父を見た。


「領地へ戻るのは、お前の感情だけで済む話ではない。家の名も、人の目も、すべてついて回る。好きに振る舞うなとは言わん。だが、その結果まで含めて背負え」


「……ええ」


夫人はそんな娘の顔を見つめ、それからふっと表情をゆるめる。


「そして、第二王子殿下の婚約者としてお行きなさい」


クラリスの睫毛が揺れた。


「拗ねて連れて行くのではなくてよ。あの方を自分の隣に立たせるつもりでお連れするのなら、堂々となさい」


広間がしんと静まる。

リュシアンは不安そうに姉を見上げていたが、やがて意を決したように言った。


「姉様なら……きっと大丈夫です」


「……あなたたち、寄ってたかって人を何だと思っているの」


「可愛い娘ですけれど?」


父も、ほんのわずかに口元を緩めた。


「手のかかる娘だな」


「まるでわたくしが問題ばかり起こしているようではありませんか」


「違うのかしら」


「違うとも言い切れんな」


「お父様まで」


弟がそっと笑い、母も目を細める。父だけは咳払いで誤魔化した。


その空気に押されるように、クラリスの口元もほんの少しだけ和らいだ。


その時だった。


玄関の向こうで、馬車の止まる音がした。


外で従者たちの足音が重なり、ほどなくして執事が姿を見せた。


「ルシアン殿下がお着きでございます」


クラリスはひとつ息を整えた。

先ほどまで家族に向けていた表情を静かに閉じ、いつものように背筋を伸ばす。


「お通しして」


「はっ」


執事が一礼して下がる。

短い間ののち、広間へ足を踏み入れたルシアンは、旅装の上に外套をまとっていた。


「朝早くから失礼する」


ルシアンが落ち着いた声で言うと、公爵が一歩前へ出た。


「お迎えにお越しいただき、恐れ入ります、殿下」


「急な願いであったにもかかわらず、受け入れてくださったこと、感謝している」


ルシアンの視線が、ごく自然にクラリスへ向く。


「待たせたか」


「いいえ。ちょうど支度が整ったところですわ」


クラリスは普段通りに答えたつもりだったが、声にはわずかな硬さが残った。

夫人はそれに気づいたらしく、そっと口元に笑みを浮かべる。


「殿下も、朝からご足労をおかけしましたこと」


「気遣いには及ばない。こちらから迎えに伺うと申し出たのだから」


クラリスは気づかぬふりをしたが、胸の奥の強張りがほんの少しだけほどける。


公爵は娘とルシアンを見比べてから、静かに告げた。


「領地へ向かう馬車の用意は、すでに整っております。護衛もこちらで選んだ者を付けましょう」


「助かる」


「長旅になりますもの。どうかご無理はなさらないでくださいませ」


「心得ている」


ルシアンはそこで小さく目を和らげた。


「では、参ろうか」


クラリスは小さく頷いた。


「ええ」


二人が玄関へ向かうと、公爵と公爵夫人、そして弟もまた見送るために後に続いた。


開いた扉の向こうから、朝の冷えた空気が流れ込んでくる。石段の先には馬車が止まり、従者たちが控えていた。


クラリスが外へ出ると、弟が小さく声を上げた。


「姉様」


振り返ると、リュシアンは何か言いたげに唇を結び、それから意を決したように背筋を伸ばした。


「どうか、お気をつけて」


クラリスはほんの少し目を細める。


「ええ。あなたも、しっかりなさい」


「はい」


公爵が娘に向かって短く言う。


「クラリス」


「はい、お父様」


「行ってこい」


母もまた、静かに頷いた。


「お二人とも、どうかご無事で」


それからルシアンは馬車の扉へ手をかけ、自然に振り返ってクラリスへ手を差し出した。


クラリスはほんの一瞬だけ視線を落とした。

それから何事もない顔で、自分の手を重ねる。


「……ありがとうございます」


小さな声だったが、ルシアンにはきちんと届いたらしい。

目元がわずかにやわらぎ、そのままクラリスを馬車へ導く。


続いてルシアンも乗り込み、扉が閉まる。


窓越しに見えた弟が、ぎゅっと拳を握っていた。

母は静かに微笑み、父はまっすぐにこちらを見ている。


馬車がゆっくりと動き出す。


石畳を進みながら、公爵家の正門が遠ざかっていく。

クラリスは視線を外へ向けたまま、膝の上で手袋越しの指先をそっと握りしめた。


その隣で、ルシアンが静かに口を開く。


「……よい家族だな」


「そうですか?」


「ああ。お前が出ていくのを、惜しんでいた」


クラリスはルシアンを見た。

そのまっすぐな眼差しに触れた途端、そっと外へ視線を戻す。


「ええ……」


それだけ答えて、クラリスは窓の外を流れていく王都の街並みを見つめた。


馬車は王都を抜け、領地へ向かう道へと進んでいく。

第二章はここまでになります。

お読みいただきありがとうございました!

次回から第三章、最終章になります。


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― 新着の感想 ―
 少々の軽口と、厳しさあり優しさありの言葉を交えつつのやりとりからして、なんだかんだで家族仲がいいんですね、クラリスさん達。  ハメを外しての新婚旅行とは異なりますが、ほんの僅かにルシアンさんとの距離…
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