第16話
エルヴァン公爵夫妻の私室。
「……何日目だ」
執務机の前で書簡を閉じながら、公爵が低く問うた。
公爵夫人は窓辺に立ったまま答える。
「三日ですわ」
「食事は」
「最低限は取っているそうよ。けれど、人前には出ないわね」
「クラリスらしくないな」
その言葉に、公爵夫人は目を細めた。
「いいえ。むしろ、あの子らしいのでしょう」
公爵が顔を上げる。
夫人は振り返り、落ち着いた声で続けた。
「王太子殿下との婚約が破談になった時も、あの子はひどく意気消沈しておりましたわ」
「……そうだったか」
「ええ。ですが、その直後にルシアン殿下と出会って、あの子はずいぶん早く立ち直りました」
抑えた口調のまま、夫人は言葉を継ぐ。
「ですから今回は、それだけ深いのでしょう」
「……そうか」
「ですから、早めに手を打つべきです」
公爵はしばらく黙り込んだのち、低く言った。
「なら、放っておくわけにはいかんな。
……任せる」
「ええ」
そう答えて、公爵夫人は扉へ向かった。
「クラリスのところへ行ってまいります」
◆
クラリスの部屋。
マリアがそばに立ち、クラリスの肩をそっと支えていた。
「クラリス様……」
その時、扉が控えめに叩かれる。
マリアが振り向いた。
「どうぞ」
扉が開き、母が入ってきた。
クラリスは顔を上げる。
「お母様……」
「マリア、少し席を外してくれる?」
「はい」
マリアは一礼し、静かに部屋を出ていく。
扉が閉まった。
母はクラリスの前まで歩み寄る。
だが、すぐには口を開かない。
やがて、娘をまっすぐ見つめて言った。
「ルシアン殿下の政務室に行ったのでしょう」
クラリスの瞳が揺れる。
「侍女から聞いたわ」
「……」
「それで?」
クラリスの唇が震えた。
「……殿下が、クラーラ様と……」
そこから先は言葉にならない。
夫人は娘の顔を見つめたまま、短く頷く。
「なるほど」
ひとつ息を置いてから、きっぱりと言った。
「クラリス。領地へ行きなさい」
「……え?」
「殿下も一緒に」
クラリスは目を見開いた。
「領地に……殿下も……?」
「王都で泣いているより、よほどましよ」
クラリスは言葉を失う。
母はそのまま続けた。
「男は、言葉で追い詰めても動かない」
そこで口元をやわらげる。
「けれど、場所が変われば、目に入るものも変わるわ」
クラリスの指先が止まった。
「それに、王都は人の目が多すぎる」
夫人は娘の頬に手を伸ばし、涙を拭う。
「立て直しなさい。あなたは、公爵家の娘でしょう」
「……でも、殿下が断ったら……?」
「断られないわ」
クラリスが目を上げる。
「療養で領地へ戻ると言いなさい」
母は娘の頬に手を添えたまま続ける。
「そして殿下には、婚約者として同行をお願いするの」
「……殿下に?」
「ええ。婚約者が体調を崩して領地へ戻るのよ」
肩をすくめてみせる。
「見舞いに来ない方が不自然でしょう」
クラリスは俯いた。
指先が、かすかに震える。
(……本当に?)
胸の奥で、小さな声がこぼれる。
(あの時だって、追ってくれなかったのに)
視線を伏せたまま、唇を噛む。
(……来てくれるの?)
クラリスは俯いたまま動かない。
公爵夫人はそんな娘を見つめていた。
「来なければ……それまでの殿下だったということよ」
母はあらためて娘の頬に触れる。
「けれど、来るかもしれないでしょう?」
クラリスは顔を上げない。
夫人はそっとハンカチで涙を拭った。
「確かめなさい」
声は穏やかだった。
「それくらいは、婚約者として許されるわ」
◆
第二王子の政務室。
ルシアンは書類に目を落としていた。
だが、さっきから同じ行を三度読んでいる。
ペン先が止まった。
「……面倒なことになった」
そう思う一方で、それだけで片づけてしまうには、あの時の光景が妙に鮮明だった。
クラリスの声。
強く言い返してきたくせに、最後には泣きそうだった顔。
ルシアンは眉間を指で押さえた。
クラーラといただけだ。
やましいことは何もない。
実際、その通りだと思っている。
だが――なら、なぜあんな顔をさせたのか。
あの場で線を引く必要はあった。
婚約者だからといって、政務に踏み込ませるわけにはいかない。
それは今でも間違っていないはずだった。
なのに、言葉だけが妙に棘のように残っている。
言い過ぎたのか。
いや、甘い顔をすれば、かえって曖昧になる。
そこまで考えて、ルシアンは息をついた。
結局、自分でも整理がついていないことに気づく。
その時、扉が叩かれる。
「殿下」
侍従の声だった。
「エルヴァン公爵令嬢がお見えです」
ルシアンの手が止まる。
ひと呼吸ぶんの間が空いた。
数日前の泣きそうな顔が、また脳裏をよぎる。
「……通せ」
「かしこまりました」
扉が開き、クラリスが入ってくる。
数日前とは違い、背筋は伸びている。
だが、指先には硬さが残っていた。
ルシアンはその様子をひと目だけ見て、口を開く。
「……体調は、大丈夫か」
クラリスの瞳が揺れた。
気遣うようなことを言う資格があるのかと、一瞬だけ思う。
けれど、他に何を言えばいいのか分からなかった。
ルシアンはすぐに目をそらす。
「あの日、顔色が悪かった」
クラリスは首を横に振った。
「……領地に行こうと思ってます」
「……急だな。何かあったのか」
「療養のためですわ……」
クラリスの手元が、かすかに強ばる。
少し間を置いてから、言った。
「殿下も……来ていただけませんか」
「……俺が?」
思わず聞き返す。
クラリスは頷いた。
目はまだ上がらない。
「……療養だろう。俺が行く理由は?」
クラリスは俯いたまま、かすれた声で答えた。
「わたくしの婚約者ですから……」
その言葉に、ルシアンは黙り込む。
自分が口にした言葉が頭をよぎった。
――婚約者だからといって、政務に口を出す権利はない。
ルシアンは短く息を吐いた。
「……分かった」
クラリスの肩がかすかに揺れた。
「日程を確認する。
すぐには出られないが……調整はする。
……それでいいか」
その瞬間、クラリスの目からぽろりと涙がこぼれた。
クラリスは慌てて目元を押さえる。
ルシアンは一瞬、言葉を失った。
視線を外したまま、低く言う。
「……泣くな」
短すぎる言葉だった。
ルシアンは短く息をつく。
「……あの時のことなら」
そこでいったん言葉を切る。
「言い方は、きつかった」
クラリスが息を呑む。
ルシアンは書類へ目を戻した。
「行く。
だから、もうそんな顔をするな」
クラリスは目元を押さえたまま、小さく頷く。
けれど、涙はまだ止まらなかった。
ルシアンはもう一度、息を吐いた。




