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公爵令嬢クラリスの矜持  作者: 福嶋莉佳
二章

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第16話

エルヴァン公爵夫妻の私室。


「……何日目だ」


執務机の前で書簡を閉じながら、公爵が低く問うた。


公爵夫人は窓辺に立ったまま答える。


「三日ですわ」


「食事は」


「最低限は取っているそうよ。けれど、人前には出ないわね」


「クラリスらしくないな」


その言葉に、公爵夫人は目を細めた。


「いいえ。むしろ、あの子らしいのでしょう」


公爵が顔を上げる。


夫人は振り返り、落ち着いた声で続けた。


「王太子殿下との婚約が破談になった時も、あの子はひどく意気消沈しておりましたわ」


「……そうだったか」


「ええ。ですが、その直後にルシアン殿下と出会って、あの子はずいぶん早く立ち直りました」


抑えた口調のまま、夫人は言葉を継ぐ。


「ですから今回は、それだけ深いのでしょう」


「……そうか」


「ですから、早めに手を打つべきです」


公爵はしばらく黙り込んだのち、低く言った。


「なら、放っておくわけにはいかんな。

……任せる」


「ええ」


そう答えて、公爵夫人は扉へ向かった。


「クラリスのところへ行ってまいります」



クラリスの部屋。


マリアがそばに立ち、クラリスの肩をそっと支えていた。


「クラリス様……」


その時、扉が控えめに叩かれる。


マリアが振り向いた。


「どうぞ」


扉が開き、母が入ってきた。


クラリスは顔を上げる。


「お母様……」


「マリア、少し席を外してくれる?」


「はい」


マリアは一礼し、静かに部屋を出ていく。


扉が閉まった。


母はクラリスの前まで歩み寄る。

だが、すぐには口を開かない。


やがて、娘をまっすぐ見つめて言った。


「ルシアン殿下の政務室に行ったのでしょう」


クラリスの瞳が揺れる。


「侍女から聞いたわ」


「……」


「それで?」


クラリスの唇が震えた。


「……殿下が、クラーラ様と……」


そこから先は言葉にならない。


夫人は娘の顔を見つめたまま、短く頷く。


「なるほど」


ひとつ息を置いてから、きっぱりと言った。


「クラリス。領地へ行きなさい」


「……え?」


「殿下も一緒に」


クラリスは目を見開いた。


「領地に……殿下も……?」


「王都で泣いているより、よほどましよ」


クラリスは言葉を失う。


母はそのまま続けた。


「男は、言葉で追い詰めても動かない」


そこで口元をやわらげる。


「けれど、場所が変われば、目に入るものも変わるわ」


クラリスの指先が止まった。


「それに、王都は人の目が多すぎる」


夫人は娘の頬に手を伸ばし、涙を拭う。


「立て直しなさい。あなたは、公爵家の娘でしょう」


「……でも、殿下が断ったら……?」


「断られないわ」


クラリスが目を上げる。


「療養で領地へ戻ると言いなさい」


母は娘の頬に手を添えたまま続ける。


「そして殿下には、婚約者として同行をお願いするの」


「……殿下に?」


「ええ。婚約者が体調を崩して領地へ戻るのよ」


肩をすくめてみせる。


「見舞いに来ない方が不自然でしょう」


クラリスは俯いた。


指先が、かすかに震える。


(……本当に?)


胸の奥で、小さな声がこぼれる。


(あの時だって、追ってくれなかったのに)


視線を伏せたまま、唇を噛む。


(……来てくれるの?)


クラリスは俯いたまま動かない。


公爵夫人はそんな娘を見つめていた。


「来なければ……それまでの殿下だったということよ」


母はあらためて娘の頬に触れる。


「けれど、来るかもしれないでしょう?」


クラリスは顔を上げない。


夫人はそっとハンカチで涙を拭った。


「確かめなさい」


声は穏やかだった。


「それくらいは、婚約者として許されるわ」



第二王子の政務室。


ルシアンは書類に目を落としていた。

だが、さっきから同じ行を三度読んでいる。


ペン先が止まった。


「……面倒なことになった」


そう思う一方で、それだけで片づけてしまうには、あの時の光景が妙に鮮明だった。


クラリスの声。

強く言い返してきたくせに、最後には泣きそうだった顔。


ルシアンは眉間を指で押さえた。


クラーラといただけだ。

やましいことは何もない。

実際、その通りだと思っている。


だが――なら、なぜあんな顔をさせたのか。


あの場で線を引く必要はあった。

婚約者だからといって、政務に踏み込ませるわけにはいかない。

それは今でも間違っていないはずだった。


なのに、言葉だけが妙に棘のように残っている。


言い過ぎたのか。

いや、甘い顔をすれば、かえって曖昧になる。


そこまで考えて、ルシアンは息をついた。


結局、自分でも整理がついていないことに気づく。


その時、扉が叩かれる。


「殿下」


侍従の声だった。


「エルヴァン公爵令嬢がお見えです」


ルシアンの手が止まる。


ひと呼吸ぶんの間が空いた。


数日前の泣きそうな顔が、また脳裏をよぎる。


「……通せ」


「かしこまりました」


扉が開き、クラリスが入ってくる。


数日前とは違い、背筋は伸びている。

だが、指先には硬さが残っていた。


ルシアンはその様子をひと目だけ見て、口を開く。


「……体調は、大丈夫か」


クラリスの瞳が揺れた。


気遣うようなことを言う資格があるのかと、一瞬だけ思う。

けれど、他に何を言えばいいのか分からなかった。


ルシアンはすぐに目をそらす。


「あの日、顔色が悪かった」


クラリスは首を横に振った。


「……領地に行こうと思ってます」


「……急だな。何かあったのか」


「療養のためですわ……」


クラリスの手元が、かすかに強ばる。

少し間を置いてから、言った。


「殿下も……来ていただけませんか」


「……俺が?」


思わず聞き返す。


クラリスは頷いた。

目はまだ上がらない。


「……療養だろう。俺が行く理由は?」


クラリスは俯いたまま、かすれた声で答えた。


「わたくしの婚約者ですから……」


その言葉に、ルシアンは黙り込む。


自分が口にした言葉が頭をよぎった。


――婚約者だからといって、政務に口を出す権利はない。


ルシアンは短く息を吐いた。


「……分かった」


クラリスの肩がかすかに揺れた。


「日程を確認する。

すぐには出られないが……調整はする。

……それでいいか」


その瞬間、クラリスの目からぽろりと涙がこぼれた。

クラリスは慌てて目元を押さえる。


ルシアンは一瞬、言葉を失った。


視線を外したまま、低く言う。


「……泣くな」


短すぎる言葉だった。


ルシアンは短く息をつく。


「……あの時のことなら」


そこでいったん言葉を切る。


「言い方は、きつかった」


クラリスが息を呑む。


ルシアンは書類へ目を戻した。


「行く。

だから、もうそんな顔をするな」


クラリスは目元を押さえたまま、小さく頷く。

けれど、涙はまだ止まらなかった。


ルシアンはもう一度、息を吐いた。

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― 新着の感想 ―
 ほう、クラリスさんの母親による案がそれなりに効いたのが、ルシアンさんが妥協や気遣いを見せてきましたね。  特定の異性が絡む事柄でのクラリスさんの感情の浮き沈みの激しさは緩和にまだまだ時間はかかるでし…
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