『犬』
「隼人が、レッドイーグルのメンバーだった…?」
ヨーコは、信じられない思いで写真を見つめた。
…嘘。
これは悪い嘘よ。
だって、普段の隼人は優しくて、真面目で、誠実で…。
この間のデートの時だって、そう。
転んじゃったおばあさんを真っ先に助けに行ったのは、隼人だったじゃない。
「隼人が人を傷つけてたなんて、ありえないよ…」
しかし、今現実に目にしているのは、隼人の写真。
今とは似ても似つかないけれど、確かに、彼の写真。
エレナの言葉が嘘ではないことを告げる、証拠。
「これでわかった?」
エレナが言った。
「あんたは、隼人のことを何も知らないんだょ」
「…」
「隼人はね、心変わりするのが早い男だから。
今は警察官ぶってても、そのうちこっちに戻ってくるわ―――あんたを捨てて、ね」
「…そんな…」
ヨーコの肩が、わずかに揺れた。
うつむいた顔は、黒いミディアムの髪に隠れてしまっている。
「…そんなっ…」
泣いているのだろう、とエレナは思った。当然だ。 今まで優しいと、誠実だと思っていた人の、正反対の一面を見せつけられたのだから。
「隼人は、もうすぐここに来るわ」
エレナは、ヨーコの元にしゃがみこみながら言った。
「あんたを攫ったのがレッドイーグルだってこと位、あいつにはすぐ察しがつく筈よ。
隼人が来たら、あんたは解放してあげる。
あんたは隼人をおびき出す為に攫っただけだから」
「…」
ヨーコは、うつむいたまま細かく震えていた。
何も答えない。
エレナは、勝ちを確信した。
あの写真が、隼人に対するヨーコの気持ちを打ち砕いたことは、明らかだ。
「隼人が来るまで、一人にしといてあげる。その方が良いでしょ??」
吐いたセリフとは裏腹に、エレナの声には優しさは無かった。
むしろ、ヨーコを痛め付けるのが楽しくてたまらないという口調だ。
「じゃあね。可哀想な子犬ちゃん…」
スパンコールをきらめかせながら、エレナは立ち上がった。
その後ろ姿を見ることもなく、ヨーコはうずくまっていた。
*
刑事たちは必死に捜索したが、ついに駅ビル内で通り魔を見つけることはできなかった。
恐らく、野次馬に紛れて逃げてしまったのだろう。 刑事たちは、駅前に警察犬を出動させた。
通り魔は、少なからず『返り血』を浴びている筈だ。
血のあとを辿っていけば、犯人を追い詰められるかも知れない。
…そんな捜査線の中で、一人だけ硬直しきっている刑事がいた。
「ちょっとォ、何なのよ鬱陶しい!」
マドンナが声を荒げる。「そんなにくっつかないでっ!!気味悪いわよっ」
周りでは、他の刑事たちが面白そうにこの状況を見ていた。
野次馬の数は、総勢30人といったところだろうか。 それもそのはず、マドンナに密着して震えているのは…
「岩波さん!いい加減にしてっ!!」
マドンナが叫び、岩波を突き飛ばした。
「ひぃっ!」
岩波は爪先立ちになり、悲鳴にも似た叫びを上げる。
彼のすぐ目の前で、茶色いぶちの警察犬達がグルグルと唸り声を上げた。
「あのねぇ、いくら犬が苦手って言っても、限度があるでしょう」
マドンナは呆れ顔だ。
「にっ、苦手なんかじゃねえぞっ」
そう言いながらも、岩波は出来るだけ犬達から離れようとして、マドンナの背中の後ろにしがみついている。
「俺に怖いものなんざねぇんだよっ…ぎゃあっ!」
とりわけ大きい一匹の警察犬が、威嚇するように歯を向いたのだ。
岩波は飛び上がって、取り囲んでいる部下達の輪に潜り込む。
普段から岩波に怒鳴られている刑事達は、ニヤけながら上司を押し戻した。
再び、野次馬の円の中にいるのは岩波とマドンナだけになった。
「さて、鑑識の人手も足りないことだし…岩波さんにも捜索に参加してもらいましょうね」
マドンナが、優しく微笑みかけた。
『岩波を威嚇した犬』の手綱を、彼の手に押しつける。
「怖いものは何にも無いんでしょう?
それじゃ、警察犬とのお仕事だって簡単ょねーえ?」
マドンナの笑顔の下に隠された蛇のキバは、確実に岩波に突き刺さった。
「あっ、あったりめえじゃねぇか」
震えながらも、何とか彼は言った。
口元がヒクヒク痙攣している。
「俺の手にかかりゃ、こっ、こんな犬っコロなんて…」
次の瞬間。
岩波を取り囲む刑事達は、犬の眼が鋭く、キラーンと光るのを見た。
タンッ。
犬のたくましい脚が、アスファルトを蹴る。
犬の巨大な体が、大きく伸び上がる。
そして…
「ぐわあぁあ〜!!」
岩波の叫びが、天にこだました。
彼のズボンの尻部分は噛み裂かれ、女性にとっては見たくない部分がチラリと見えている。
犬は、すました顔をして彼の脇に着地した。
これには、周囲の刑事達も大爆笑だった。
マドンナなどは、笑いすぎて大きな瞳に涙を浮かべている。
彼女は、座って尻尾を振っている犬の頭を撫でた。
「よっぽど岩波さんが気に入ったみたいね。
この子、普段は大人しいのよ。
ねえ、マルグレーテ?」
「マルグレーテ!?」
岩波が目を剥いた。
「何だっ、その名前は!」
「この犬の名前よ」
マドンナが答えた。
「血統書付きの、立派な犬なんだから。
本名はマルグレーテ=セミラミスっていうの」
…メス犬!!?
尻を押さえながら、岩波は唖然とした。
こんなに獰猛なメス犬は、初めて見た。
「じゃあ、岩波さん。
マルグレーテと一緒に、犯人を追ってちょうだい」
マドンナが言った。
「え"ッ!?」
岩波はたじろいだ。
「この犬と、か?それは、ちょっといただけねぇな…」
ギラリ。
マルグレーテの眼が、再び怪しく光った。
まもなく、岩波が第二の叫び声をあげたのは言うまでもない…。
*
隼人は、その建物の前に、静かに車を止めた。
廃校になった小学校。
隼人がメンバーだった時、ここはレッドイーグルのアジトだった。
あれから、もう二年が経過している。
レッドイーグルが拠点を変えていないということが、ありえるだろうか?
疑問を胸に秘めながらも、隼人は車を降り、ひからびた校庭に足を踏み入れた。
足下で、砂の塊がザクッと音をたてた。
…隼人は、ヨーコを襲ったのがレッドイーグルであることを確信していた。
ヨーコが襲われたのは、駅ビルでブルーシャークのリーダーが殺された直後のことだ。
ここでまず、レッドイーグルの関連が疑われる。
更に、何故ヨーコをターゲットにしたのかを考えると、どうしても推論は隼人自身に帰結するのだった。
…ヨーコは、俺と付き合っていたから襲われたんだ…。
ヨーコとレッドイーグルを結び付けるもの―――それは、隼人以外にはない。
…レッドイーグルの狙いはヨーコじゃない。
…俺だ。
俺のせいで、ヨーコは狙われたんだ…。
隼人は、歩きながら唇を噛み締めた。
確かに、二度とレッドイーグルに接触しない、と岩波と約束した。
けれど、大切な人が奪われてしまった今、その約束は隼人に何の効力も持たない。
彼は、ダッと走りだした。
…ヨーコ。
彼女を想うだけで、苦しくなる。
レッドイーグルに、傷つけられていないだろうか。
もしかしたら、ヨーコは隼人の過去を教えられてしまったかも知れない。
それを知った時の彼女の反応を想像すると、胸に重しが乗って締め付けてくるような心地がする。
それでも、隼人は走る速度を緩めなかった。
たとえヨーコに拒絶されようと、隼人は彼女を守りたかった。
これは当然、警察官としての義務感から生じるものではなかった。
隼人の正義感から生じるものだった。
…ヨーコが、二度と俺と会うことが無くなったとしても。
俺は、あいつを守りたい…!!
誰もいない校舎内に飛び込む。
汚らしい床には埃が分厚く積もり、走るたびにモウモウと舞い上がった。
隼人は、地下へと向かう階段を駆け降りた。
もし、レッドイーグルが二年前と同じ場所を拠点にしているのなら、彼らは理科室にいるはずだ。
階段を一気に6段飛び降りる。
隼人は、持ち前の運動神経で難なく着地した。
地下一階。
階段の踊り場を右に曲がると、理科室への廊下にでる。
闇に包まれた廊下の突き当たりからは、ぼんやりとオレンジの光が漏れている。アルコールランプでも灯しているのだろうか。
…いた。
隼人の勘は、当たっていた。
息を整えることもせず、彼は真っすぐ突っ込んでいった。
「ヨーコ!!」