(五)思川
出立の朝は快晴だった。
前日までとうって変わった陽気に町は大賑わい。驚きのあまり八重などは、赤子のようにぽかんと口を開けたままだ。源九郎の指摘に、慌てて両手で顎を押し上げ頬を赤らめる。
「うぅ、しまった油断した……遂にやってしまったか」
何でも驚いた時などに、気を抜いているとこうなってしまうのだとか。恥ずべき悪癖ゆえ、せめて旅の間だけは何としても我慢するつもりだったのに、と八重は悔しそうに身悶えする。
「そりゃ、しまらない話だな」
「そうなのだ――ってコラ! しょうもないことを言いおって」
そんな軽口の応酬を続けていると、前方から一匹の犬がやって来た。また吠えられてはたまらぬと、八重は慌てて源九朗の陰に隠れるが、
「うわっ、うわっ! 何でこっちへ来るのだ?」
変に意識したのが裏目に出たか、犬は八重を向くと盛んに吠え立てた。
わんわん、ぎゃあぎゃあと、源九朗を支点に一人と一匹がぐるぐる廻り出す。その光景に周囲の人々が腹を抱えて笑い始め、いつぞやの光景を再現する。
「寄るな寄るな寄るな! 怖い怖い怖い怖い――――って、そなた笑っておる場合か! 早う何とかせい!」
本気で怖がる八重の様子に、源九郎は仕方なく懐から小さな袋を取り出すと、中の粉を一つまみ犬の鼻面に振り掛けた。途端、きゃいんきゃいんと悲鳴を上げて、犬は全力で走り去る。
「ふぅ……助かった」
八重は憔悴しきった声で、それにしても、と不思議がる。
「一体、何をしたらあんな勢いで逃げて行くのだ?」
「ちょいと刺激物を嗅がせてやったんだ。犬はやたらと鼻が利くからな。たまったもんじゃなかろうさ」
自分の言葉にはっとして、源九朗は周囲を見回した。
さり気なく慎重に――すると、視界の隅に見覚えのある顔を捉えた。既に路地に引っ込んでしまったものの、それは確かに古河の宿場で出会った傀儡女の姿だった。
「なるほど……そういうことか」
忌々しげに舌打ち。八重の手を取って雑踏の中に紛れ込む。
「振り返らずに聞け。尾けられている――おそらくは刀を狙う輩だろう」
「何だと! それは確かか?」
間違いない、と源九朗は強い口調で断言した。
「お前さん、ここ数日の間に二度も犬に絡まれただろう? あれはここが匂いの元だと、飼い主に報告していたんだ」
「何と! では、あの時の芸人は私の追手だったのか?」
「そういうことだ。あの廃村から匂いを辿ったんだろう」
しかし……それは妙だぞ、と八重は当然の疑問を口にする。
「あの者は我々に、御神刀の在り処を教えてくれたではないか。刀を狙う者がどうしてそんな真似をする?」
「刀を取り返しに行った先で妙な二人組に襲われたろう? あの時、奴らは『獲物の真贋を判別できるのはそのガキだけ』って言ってたんだ。つまり、お前さんがあの寺に来ることを事前に知った上で、待ち受けていたってことになる。じゃ、それを教えてやれるのは誰だ?」
「あっ、そうか!」
「あの女は刀の在り処を突き止めるだけじゃなく、廃村に居た者を徹底して調べたに違いない。結果、お前さんという生き残りが刀を探していることにも気が付いた。それで、真贋の判別に利用しようとしたわけだ。もっとも目論見は失敗し刀はここにあるわけだが」
我ながら白々しいと思いつつ、源九朗は八重の背負う木箱に視線を送る。
やはり小さな娘が背負うには重く大きな荷物のようだ。お陰で足取りは実におぼつかないが、自分で持つと言って聞かないのだから仕方がない。
「それが今、再び狙われているというのか」
うんざりだ、と言わんばかりに八重は大きく溜息を吐く。
「ならばどうする。追手の目を欺きつつ、日光へと至る方法があるのか?」
「難しいな。どんなに身を隠したところで匂いを追跡されればそれまでだし、追手がどれだけいるのかも分からない。さすがに市中で強引な手を使うことはないだろうが、ずっとここに留まっているわけにもいかないしな」
そうか、と呟き八重は肩を落とした。それからしばしの黙考を経ると、すっと背筋を伸ばして意を決したかのように言い放つ。
「では、我々の旅はこれまでだ」
「そいつはどういう意味だ?」
「私は言ったな。御神刀を日光へ送る理由は、刀狩衆なる者の手から逃れんが為であると」
「ああ」
「実は時を同じくして、御神刀を譲り受けたいとの申し出が幾つかあったのだ。鹿島としては、いずれにも譲るつもりはなかったが、どこの誰とも知れぬ者に奪われ、行方知れずになるという最悪の事態だけは避けねばならぬ。よって――」
八重は西の河岸段丘を指差した。そこは南北に曲輪が連なる城の中枢部である。
「いざという時は、あちらになら御神刀を引き渡すのも已む無し、と言いつかっている」
「北条家にか? まぁ、北条は鹿島の主筋。そう悪いようにはしないだろうがな」
これは源九朗にとって、実に都合のいい話だった。
そもそも小狐丸のすり替えが済んでしまえば、律儀に日光まで赴く必要は無い。
任務達成に必要なのは偽物を引き渡す相手である。もっとも、小狐丸を狙う者であれば誰でも良いわけではなく、同時に引き渡される八重にとって安全な相手でなければならない。その点、北条家ならば申し分のない相手と言える。
「お前さんがそれでいいなら、別に俺は構わないが」
そんなわけで、二人は城へ向かうこととなった。
城は宿場の間近にあり、ほどなくして視界一杯に曲輪の威容が広がった。普段なら八重が感嘆の声を上げそうなものだが、今は無言で淡々と歩き続けている。
「どうした。緊張しているのか?」
「別に……そういうわけではない」
源九朗の気遣いに、八重はむすっとした顔で反駁した。
だが言葉とは裏腹に、彼女の様子がおかしいのは傍目にも明らかだった。しょんぼりと肩を落とした身体は普段よりも更に小さく、歩みもどんどん遅れがちになっている。
やはり気が進まないのだろう、と源九朗は推測した。無理からぬことである。いくら次善の策とはいえ、使命を全うできたわけではない。気持ちの整理には時間が必要だ。
そう思い、途中で進路を変更する。
一体どこへ行くのかと、訝る八重の背を押して案内した先は河原だった。
船着き場がないせいか、ひとけこそまばらだが、すぐ隣が城であるためまず危険はなく、のんびりとくつろぐにはうってつけの場所だ。行き交う舟を眺めつつ風にでも当たっていれば、少しは気も休まるだろう。
意図した通り、八重は川べりに近付くと気持ち良さそうに大きく伸びをした。
「ああ、実に清らかな川だな。名は何というのだ?」
「思川だ」
言いつつ、昨晩のことを思い出す。
個室に泊まった八重と違い、源九郎は相部屋で雑魚寝だったため、旅人達の様々な会話を耳にしている。そんな中で、この川についてもあれこれ議論が交わされていたのだが、
「そうだ。川の名の由来について、お前さんが興味を持ちそうな話があったな」
「ふむ?」
「その昔、この辺りに仲のよい夫婦が住んでいたんだと」
だが――妻が病を罹うと、夫は夜毎に外出するようになった。
もしや自分は捨てられるのでは? 疑いを抱いた妻は、ある晩ひそかに夫の後をつけたのだ。その道中、喉が渇いて立ち寄ったこの川で、水面に写った自分の姿に驚愕することになる。
「そいつは既に、人の姿じゃあ無かった」
あさましき嫉妬に狂った妻は、その身を心のままに醜悪な怪物――大蛇へと変じたのである。
「妻は思い悩んだ挙句、とうとう川へ身投げした。以来、その川は思川と呼ばれるようになったとさ」
「ふむ……そんな謂われがあったのか」
神妙な面持ちで呟いて、八重はそっと目尻を拭った。
「おいおい。お前さん、まさか泣いているのか?」
すると、八重は鼻声で返事をした。
「だって……あまりにも哀切を誘う話ではないかぁ」
そのままぐすぐすとべそを掻き続け、場の空気がひときわ重くなる。
源九朗は溜息をついた。まったく困ったものである。気晴らしの為の寄り道で、沈んだ気持ちになられては意味が無い。八重を明るい気分にさせる挽回の一手はないものか。
その時、風に乗って芳しい香りが漂ってきた。
匂いの元――前方の焚き火では男達が魚を串焼きにしている。脇にある果実満載の背負い籠から察するに、行商人が腹ごしらえをしているのだろう。横目で八重を盗み見れば、視線が焼き魚に釘付けだ。
「食べたいなら譲ってもらうか?」
「いらぬ世話だ。そんなつもりで見ていたわけではない」
「だったら、どうして物欲しげに見ていたんだ?」
「物欲しげになど見ておらん!」
八重はぷいっと川の方を向いて、
「さっきはな、昔の事を思い出していたのだ」
遠い目をしながら、とつとつと昔語りを始めた。
「幼い頃、両親と川遊びに行ったことがある。父上が魚を掴み取るのだと張り切って、それを私は母上と見守っていたのだが、これが一向に捕まえられずでな。ようやく捕まえたと思ったら、岸に戻る途中で転んでしまって――もうみんなで大笑いだ」
八重はふっと笑みを溢すと、
「結局、魚はどうにか手に入れてな。串焼きにして食べたのだが、その美味なことといったらなかったな」
しみじみと語る様子から、『いらぬ世話』と言われた理由が何となく見えてきた。
過去の出来事――殊に良い思い出というものは極端に美化されがちなもの。浸っていられるうちが華で、現実に追体験を求めたところで同様の感動を得る事は難しい。だからこそ、思い出を穢すような行為は避けたかったのだろう。
まったく難儀な奴だと思いつつ、源九朗は行商人の元へ行って柿の実を二つ売ってもらった。うち一つを八重に差し出すも、彼女は困惑した様子で受け取ろうとしない。
「どうした。欲しくないのか?」
「だから! 私はこれでも修行の身。過分な食事は慎むのが筋だろう」
そう言う割に、ぎゅっと拳を握り締めているのは、先刻の自分の言葉に縛られつまらぬ意地を張っているからだろう。
そんな娘は放っておいて、源九朗は柿を剥き始めた。たちまち甘い香りが漂って、ごくり、と八重の喉が動く。その様子を横目で確認しつつ、果肉を一口齧ってみせる。
「うん、こりゃあ甘いな!」
それでも、八重はあくまで無関心を装い続け、源九郎はとうとう柿を食べ終えてしまった。そこで残る一つも皮を剥き、齧り付こうとしたところ、
「待てっ!」
寸前で、八重に腕を掴まれた。
「思い違いをするでないぞ。今のは私が食べたくて止めたわけではないからな」
ようやく素直になったかと思いきや、彼女はこの期に及んでなお己の食欲を認めない。
では何の為かと訊ねると、彼女は勝ち誇るかのように微笑んで、
「柿は痰の毒と聞く。食べ過ぎてはまずかろう?」
「おっと、そうきたか」
この後に続く台詞は、そなたの身を労って仕方なく柿を食べてやろう、といったところか。
「けど――心配御無用」
ゆっくりと八重の手を除けて、源九朗は補足する。
「確かに、柿の食べ過ぎは身体に悪い。けど、それは空腹時や渋柿の場合だぞ」
「うっ! そっ、そうなのか? だが、しかぁし! 石橋は叩いて渡るぐらいが良かろう?」
狼狽しつつも食い下がる八重に、源九朗はぴしゃりと言い放つ。
「幸い、俺は今まで食当たりを起こしたことが無くてね」
「そ……そうか」
目論見が外れたことに、がっくりと肩を落とす八重。
「かくなる上は……やむをえまい」
やがて呻くようにひとりごちると、声を振り絞って懇願する。
「その……正直に言うと、私も……………………食べたいのだ」
名より実――もとい果実ということか。
そんなこんなで、ようよう柿を手に入れた八重は、さっそく一口頬張ると、
「んまーい!」
かっと目を見開き感嘆の声を上げた。
「うまいんだか甘いんだか、どっちなんだ?」
「りょーほーであるな」
それから一心不乱に食す。シャクシャクと夢中で咀嚼する様子は、まるでお預けを食らっていた犬のよう。見る見るうちに完食すると、しばし余韻に浸るかのようにぼうっとしていたが、
「……何だ?」
源九朗が問うたのは、八重が不審な挙動を始めたからだ。
ちらちらと幾度も源九郎の方を向いては、目が合いそうになるやそっぽを向く。仕方なくどうしたのかと訊ねてみれば、彼女は両手の人差し指を胸の前でツンツンさせつつ、
「その……もう少し食べたいのだが……………………駄目か?」
まぁ、そんなことだろうと思ってはいたのだが。
「しかし、お前さんの場合は見るからに虚弱そうだしな。食べ過ぎは腹に悪いだろう」
「そ、そんな……」
がっくりと肩を落とす八重。源九朗は笑って付け足した。
「だから、何か他の物を買ってやるよ」
そんなわけで二人して行商人の元へ赴くと、栗、梨、アケビといった秋の味覚を、八重の求めるままに買い込んだ。八重はそれらを片っ端から食べ尽くし、一口毎に溶けるような顔で「んまーい」「んまーい」を連発する。
もっとも調子に乗って食べまくった挙句、腹を押さえて呻く羽目になるのだが。
「うううううう……腹が重い」
「一体、何をやってんだ」
呆れ声の源九郎に、だが八重は恍惚の表情を浮かべて、
「いやしかし、ここ十年でこんなに満たされたことはなかったなぁ」
「お前さんの腹が膨れた代わりに、俺の財布はぺしゃんこさ」
源九朗が大袈裟に嘆いてみせると、八重は手を叩いて喜んだ。
「確かに食べ過ぎたかもしれぬが、そういう意味で言ったわけではないぞ?」
そう言うと、にょっきり八重歯を覗かせて、
「色々と気遣ってくれてありがとう。お陰で良い思い出ができた」
「そうか、そりゃあ――」
良かったな。と言い掛けて、源九郎は言葉を飲み込んだ。
一体、何が良かったというのか。
いずれ八重が自分の裏切りを知った時、思い出のことごとくは唾棄すべき悪夢でしかない。思い出が良いものであればあるほど、苦痛が増すのは確実ではないか。
どうしてそのくらいのことに気付かないのか。自らの浅はかさに打ちのめされる。己の鈍感さも愚かしさも、とうに分かっていたはずなのに……。
「どうした源九朗? 急に怖い顔をして」
「……何でもないさ」
源九朗は努めて平静を装うと、そろそろ城へ行こうと促した。
城兵に来訪の目的を告げると、ほどなく二人は客間へと通された。
もっとも、それから随分待たされることになる。ようやく応接役が現れたのは、陽が幾分傾いた頃だ。彼の者の話によれば、鹿島からの使節が危難に遭った事実は、既に北条家も把握済みであったらしい。
だが、この件について城の者達では対応を決めかねるとのこと。
現在、担当の者は生き残りがいないかの捜索に出ている。詳しい話はそちらにして欲しいが、今から使いをやっても戻るのは明日になるだろう。
そんなわけで、詳しい話は後日改めてということになった。
御神刀と八重はこのまま城内で預かるが、身元定かでは無い牢人を泊めることはできないので、源九朗はひき続き宿に留まるようにとのことだ。
話が終わり応接役の退室と入れ替わるように、八重の部屋を案内に女中が現れた。
「源九朗、これでそなたともお別れだな」
そう言って、八重は神妙な顔付きになる。本来、彼女は人前に姿を晒してはならない立場なのだ。明日、城へ来たところでもう会うことはないだろう。
「それでな、別れの前にそなたへ礼をしたい」
「礼なら明日にでも、鹿島家から貰うことになると思うが」
実のところ源九郎に再びこの城へ来るつもりはない。既にすり替えた刀を引渡した以上、ぼろが出る前にさっさと退散するのが得策だからだ。
「それはそれとして、個人的に礼をしたいのだ」
と、八重が懐から取り出したのは、出会ってすぐに突き付けてきた高級な短刀である。
「これをそなたに進呈しよう。そなた以前、これが欲しいと言っていただろう?」
「そりゃ確かにそうだが……大切な物だろう? 俺が貰うわけにいかないよ」
しかし、八重は静かに首を左右に振ると、
「私には必要の無い物だ。売るなりなんなりして、そなたが役に立てればよい」
「いや、しかしだな」
信頼を裏切っておきながら、この上そんな物を貰いたくはない。
だが、八重はどうしてもと言って譲らず、そうこうしているうちに、いつまで待たせるのかと女中が痺れを切らし始め――こうなったら毒を食らわば皿までだ、と源九郎は腹を決めた。
「分かったよ。こいつはありがたく戴こう」
「ありがたいのはこちらの方だ」
八重は顔を伏せしみじみと呟いた。
「再び物忌みの日々に戻るとも、そなたと過ごした日々のことは、きっとずっと忘ぬよ」
その言葉で源九郎は、臓腑の中にずっしりと鉛を詰められた気分になる。
対照的に八重はどこか吹っ切れたような表情で、
「さて、それでは参るとしよう。そなたも達者でな――さらばだ」
足取りも軽やかに廊下に出ると、そのまますたすたと歩み始める。
「お前こそ、元気でな」
慌てて声をかける源九郎。
八重はわずかに振り向き微笑むと、すぐに女中の後を追い廊下の角へ姿を消した。
そして、源九郎は独りになった。
●補足、及び元ネタなどの解説
・思川の名の由来は諸説あるが、最も有力とされるのは、本来は田心川だったのがいつしか田と心が合わさって思川になったというもの。田心川とは航海の安全を司る宗像三神の一柱である田心姫に由来するもので、水運の町を流れる川の名には相応しいといえるだろう。
・柿は痰の毒、というのは石田三成の名台詞。
科学的な根拠はあまり無いと思われる。




