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下層の灯り

レイは机の前に座っていた。


部屋は静かだった。配管から水が一定の間隔で滴り、空調の低い唸りが壁の向こうから伝わってくる。それ以外の音はなかった。


天井は低い。手を伸ばせば指先が届く高さで湿気で錆びた鉄板に小さな水滴が浮かんでいる。水滴は時々まとまって、配管の隙間から落ちる。落ちる位置は決まっていて、床の鉄板の同じ場所だけ薄い染みができている。


薄黄色の人工光は揺らがなかった。深海ステーション〈ハリス・ディープ〉の照明は地上のように太陽の動きで変化することがない。一日中、同じ角度から同じ強さで降ってくる。ステーションが定める「夜」の時間になると光は少し弱くなるがそれでも完全に消えることはなかった。


レイの部屋は下層にある。元は機械室だったらしい場所でステーションの規則上、人が住んではいけない区画だ。レイは住んでいる。誰にも告げず、誰にも気づかれずに五年が経っていた。


机の上にはわずかな持ち物しか置いていない。古い陶器の茶碗が一つと革表紙の本が一冊、それに短い刃のナイフが一本だけだ。茶碗はエンが残した物で本は読み師連の市場で買った古い詩集だ。ナイフは護身用だがこれまで一度も使ったことはない。


部屋の奥に小さな引き出しがある。引き出しの中にはもう一冊、革表紙のノートが入っている。表紙の革は擦れていてエンの手の脂が染み込んでいる。レイはそれを開いたことがない。開けばエンが何を書き残したのかを知ることになる。一度知ってしまえば、知らない状態には戻れない。今のまま開かずに置いておくほうがエンがまだどこかにいるような気がしていた。


レイは机の縁に指を置く。鉄板は冷たい。下層の温度は中層より三度低く、湿度はもっと高い。皮膚に湿気が張り付く感覚は五年経っても慣れない。


姿勢を変えずにレイはじっと座っている。普通の人間が長く同じ姿勢で居続けると関節が硬くなって痛む。レイには起きない。子供の頃から静かに座っていることを覚えていた。エンが教えたわけではない。生まれた時からそうだった。


外では誰かが歩いている。配管の水音と空調の唸りに紛れて、足音は普通の人間には聞こえない。レイにだけ聞こえる。歩調から推測すると保守係の老人だ。週に二度、下層の配管を点検しに来る男だ。


足音は通り過ぎていった。


部屋にはまた静寂が戻った。


レイは机の上の茶碗を見た。


---


レイは机の下から携帯のヒーターを取り出した。


旧文明製の小さな金属製品でエンが残した物の一つだ。電源を入れると内部の発熱体が薄い赤色に灯る。湯を沸かすのに十分な熱を出すがそれ以外には何もできない。


レイは小さな金属の鍋に水を入れてヒーターの上に置く。配管から汲んだ再生水だ。深海ステーションでは水は何度も濾過して循環使用される。味は地上の水とは違うらしいがレイは地上の水を飲んだことがない。比較するものがない。


湯が沸くまで数分かかった。


その間、レイは机の上の茶碗を手に取った。古い陶器の茶碗で釉薬の表面に細かなひびが走っている。縁の一部が擦れて、白い土の色が見える。エンが何百回も唇を当てた場所だ。


レイは自分も同じ場所に唇を当てる癖がついていた。そうすることでエンの記憶が少しだけ近くなる気がする。気がするだけで実際には何も近くならない。エンの顔も声も年々遠くなっていく。


湯が沸いた。


レイはヒーターを止め、鍋の湯を茶碗に注ぐ。湯気が立ち上り、薄黄色の人工光の中で揺らぐ。茶碗を両手で包むと陶器越しに温度が伝わってくる。手のひらと指の温度が違うことにレイは気づいている。指先のほうが遅れて温まる。


湯を口に運ぶ。温度は熱すぎず、ぬるすぎず、ちょうど良い。味はかすかに鉄を含んでいる。配管の中を通る間に金属の味が移るらしい。


茶碗の縁を指でなぞる。エンが残した擦れの場所にレイの指の脂もまた染み込んでいる。エンの脂とレイの脂が五年の時間を挟んで同じ場所に重なっている。


エンが消えた夜のことをレイは時々思い出そうとした。


しかし、いつも記憶は断片的だ。覚えているのはエンが何かを言いかけた声、戸口の影、そしてもう一人の人物がそこにいた感覚だ。その人物は布で顔を覆って、声だけが識別できる。エンはその誰かと短く話していた。レイはその間、隣の部屋で待たされていた。


それからエンは消えた。


朝になってレイが隣の部屋に行くとエンの寝台は空だった。痕跡は何もない。エンの持ち物はそのまま残っている。茶碗も革表紙のノートもヒーターもすべて置いてある。エンの寝台のシーツにはまだエンの体温が残っているような気がした。


しかし、それは気がしただけだった。


レイはエンを探さなかった。誰にも訊かなかった。下層の規則の一つは消えた者を探さないことだ。消えた者はステーションの管理外で生きていた者だ。彼らが消えた時、誰も探さない。それが守られてきたから下層の人間は管理庁に把握されずに済んでいる。


レイは湯をもう一口含んだ。


ぬるくなり始めた湯の中にエンの記憶の続きがまだ何かを伝えようとしているような感覚があった。ただしそれも気がするだけだった。


---


レイは茶碗を机に戻し、椅子の背に体を預けた。


目を閉じた。


部屋の中の音がはっきりと整理されて聞こえてくる。配管から滴る水の音は二・三秒の間隔だ。空調の唸りは三十二・六ヘルツで長期的にわずかに上下している。壁の向こうの隣室では誰かが寝ているらしい呼吸音が漏れている。


それらは部屋の中で聞こえる音だった。


レイはもう一段、耳の意識を深くした。


配管の水音の奥により遠い水音がある。下層の配管網全体を水が流れる音でレイは経路を把握している。第三配管区から第七配管区まで水は通常通り流れている。第八配管区だけがいつもよりわずかに流量が少ない。


空調の唸りの奥に機械室の発電機の鼓動がある。深海ステーションの発電機は地熱と潮流を利用した複合装置だ。ハリス・ディープの発電機は四基ありそれぞれが微妙に違う周波数で動いている。今日は四基とも通常通りに動いている。


そのさらに奥にレイはステーションそのものの音を聴いた。


ステーションは生きた構造物のようだ。何千人もの人間が暮らし、何百もの装置が稼働し、海水の圧力が外壁を押し続ける場所。それらすべてが一つに混ざり合って、低い振動を作り出している。レイはそれを「心臓音」と呼んでいる。エンに教わった呼び方だ。


心臓音は普段、安定したリズムを刻んでいる。一定の周期で強くも弱くもならず、ただ続いている音だ。レイは生まれた時からその音を聴いてきた。


今日はその音がわずかに違っていた。


リズムが乱れているわけではない。周波数が変わったわけでもない。ただ音の奥に別の何かが混じり込んでいる。レイはそれを言葉にできない。


普通の人間には聴こえない音だ。エンも聴いていたと言っていたがレイほどはっきりとは聴いていなかったらしい。エンはそれを「海の囁き」と呼んだ。海の中の何かがステーションの心臓音の奥で何かを語っているのだとエンは話していた。


レイは目を閉じたままその「囁き」に意識を集中した。


囁きは今日は強い。普段よりもはっきりと言葉になりかけている。ただし言葉そのものは聞き取れない。音として捕らえようとすると音は形を失う。


レイはそれを追わなかった。追えば追うほど、音は遠ざかる。それもエンに教わったことだった。


目を開けた。


部屋は変わらず静かだ。配管から水が滴り、空調が唸っている。薄黄色の人工光が揺らがずに降ってくる。


しかし、レイの中には囁きの余韻がまだ残っていた。


机の上の茶碗に湯気はもう立っていない。湯はすっかり冷えている。レイは茶碗を手のひらで包んでみる。陶器越しの温度はもう自分の体温と区別がつかない。


レイは立ち上がった。


下層の商店に保存食を買いに行く時間だ。週に一度決まった曜日に決まった時間に行く。規則性は守らなければならない。下層で目立たずに暮らすにはいつもと同じことをいつもと同じように繰り返すことが必要だ。


レイはナイフを腰の帯に挟んだ。


---


レイは部屋を出た。


廊下は薄暗い。下層の照明は中層よりも光量が少なく、足元の鉄板が辛うじて見える程度の明るさだ。レイは目を細めずに歩いた。下層で五年暮らせば、目はこの暗さに順応する。


廊下の片側には何十もの部屋のドアが並んでいる。多くは閉ざされていて、誰が住んでいるのかわからない部屋もある。レイの部屋の向かいには年取った女性が一人で住んでいる。彼女もまた規則上は住んでいないことになっている人物だ。


レイが廊下を歩いているとその女性が向かいから歩いてきた。


二人はすれ違った。


女性は目線を下に向け、レイの顔を見ない。レイも顔を伏せ、女性の顔を見ない。挨拶もしない。一言も交わさない。それが下層の規則だ。


互いに「見ない」「知らない」と振る舞うことで管理庁の調査が入った時に「誰も住んでいない」という建前を守ることができる。下層の人間は誰もが互いを知らないふりをして生きている。


廊下の端に階段がある。鉄製の細い螺旋階段で下層の各層を繋いでいる。レイは階段を二階分降りた。下層の中でももっとも深い場所にある共同区画に向かう。


共同区画には小さな商店が一軒あった。


商店と呼ぶには簡素な場所だ。元は機関制御室だった部屋を改造し、棚に保存食と水と日用品を並べただけの空間だ。店主は痩せた老人で目はほとんど見えない。声と気配で客を判別している。


レイは入口に立った。店主は奥の椅子に座っていた。


「来たか」


店主が言った。レイの足音を聴き分けたらしい。レイは返事をしない。返事は不要だ。


レイは棚からいつもの保存食を二つと水のボトルを一本取る。机の上に置く。店主が手を伸ばし、品物を確認した。


「いつもの分」


そう言って、店主は手で支払いの場所を指した。レイは小さな金属片を二枚、机に置く。下層で流通している通貨でステーション管理下の貨幣とは別物だ。店主は金属片を確認し、頷いた。


会話はそれで終わった。


レイは品物を抱え、商店を出た。


帰りの廊下も静かだ。レイの足音だけが響いている。普段ならば、自分の足音は注意して消している。今日は何か別の音に意識が向いていて、自分の足音の存在を忘れていた。


階段を上り、自分の階に戻る。廊下を歩く。向かいの部屋の女性はもうそこにはいない。代わりに彼女のドアの下から薄い灯りが漏れている。彼女は部屋に戻って、何かをしているらしい。


レイは自分のドアを開けた。


部屋の中は出る前と同じだった。机の上の茶碗、革表紙の本、引き出しの中のノートがすべて同じ場所にあった。


レイは保存食と水を棚に置き、机の椅子に戻って座った。


そしてもう一度耳を澄ました。


---


机の上のヒーターはまだかすかに温かかった。


レイは姿勢を変えずに座っている。茶碗には新しい湯を注がない。湯気を立てるとその揺らぎが周囲の音を捕らえる感覚を鈍くする。今日はその感覚を鋭く保っておきたい。


部屋の中の音は出かける前と同じだった。配管の水音も空調の唸りも隣室の呼吸音もすべていつもの通りに聞こえていた。


レイはもう一段、耳の意識を深くした。


壁の向こう、廊下の向こう、階段の向こう。下層全体の音をレイは把握した。第八配管区の流量は相変わらず少ない。発電機は四基とも安定している。住民の足音はいくつかの部屋で聞こえる。普段通りの夜の下層だった。


そのさらに奥にレイは「心臓音」を聴いた。


ステーションの低い振動は依然として続いている。「囁き」も、まだ消えていない。普段より強い「囁き」が、心臓音の奥で何かを伝えようとしている気配がある。


レイがその「囁き」に意識を向けようとした時、別の音が混じった。


階段の音だった。


上層から誰かが下層に降りてくる足音だった。


レイは目を開けた。


足音は遠い。中層の階段をゆっくり降りている。歩調は一定で揺らがない。一秒あたりの歩数が決まっていてその間隔は機械的な正確さを持っている。


下層の住民の歩調ではない。下層の住民は誰もが少し疲れた歩き方をする。湿気と暗さと規則違反の暮らしの中で足取りには重さが乗っている。


今、階段を降りている人物は違う。歩調が軽く、規則的だ。訓練されたリズムだ。


レイはナイフに手を伸ばし、机の縁に近い場所に置く。すぐに取れる位置だ。それ以外は姿勢を変えない。動けば、空気が動く。空気が動けば、相手にも気配が伝わる。動かないことが最も安全な選択だ。


足音は中層から下層に降りてきた。


下層に入った瞬間、足音のリズムが少し変わった。床の素材が変わったからだ。中層は磨かれた合金の床で下層は錆びた鉄板だ。錆びた鉄板の上では足音はわずかにくぐもる。レイは初めて聴く人物の足音からその人物が以前にも下層に来たことがあるかどうかを推測した。


来たことのない人物だった。


足音は下層の廊下を歩き始めた。


レイは目を閉じ、足音の位置を追った。


廊下の第一区画を抜け、第二区画に入る。歩調は変わらない。何かを探している様子はない。ただ目的の場所に向かって確実に進んでいる。


そして、第三区画の手前で足音が止まった。


レイは耳を澄ました。


足音は再開しない。立ち止まったまま、何かを待っているらしい。レイの部屋は第三区画の中にある。


足音はそこから動かなかった。


レイは机の縁に置いたナイフをもう少し近くに引き寄せた。


足音が止まった。

知らない誰かが彼を探していた。

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