海星座の影
赤い警告灯が三秒の間隔で点滅していた。
ミヤは機関室の床に座り込み、母の手を握っていた。母の手は温かかった。七歳下の弟がすぐそばに立っていた。
「ミヤ姉」
弟が呼ぶ声を聞いてもミヤは振り返らなかった。母の手の温度に意識が向いていたからだ。
機関室の奥に父の背中が見えた。何かを操作しているようだった。集中している父にミヤは声をかけなかった。
ミヤが天井を見上げると水滴が一つ、額に落ちた。指で拭いその指を舐めると塩の味がした。普段の海より濃い、深海の塩だった。
母の手がミヤの肩を掴み、指が骨に食い込んできた。ミヤは息を呑んだ。
「ミヤ」
母の声にミヤが顔を見上げると母の瞳には警告灯の赤が映り込んでいた。
そして、何もかもが止まった。
ミヤは耳を澄ました。母の息も弟の声も水の落ちる音もすべて消えていた。視界の端で警告灯の点滅も止まっていた。
ミヤは口を開け、声を出そうとした。喉から空気は出ていたのに音にはならなかった。
母の手は肩を掴んだままだったがミヤが母の指に自分の手を伸ばしてみるとその指は冷たくなっていた。
これは夢だ、とミヤは思った。何度も見ている、同じ夢だった。ミヤは目を開けようと瞼を動かしたが動かなかった。夢の中の自分は目を開ける動作を覚えていないようだった。
ミヤは試しに横の壁に手をついてみた。壁は指の下で揺らぎ、固体ではなかった。少し押し込んでみると指は壁の中に入っていき、壁の向こうには何か別のものがあった。海でもなく、空でもないものだった。ミヤは慌てて手を引き、指の感覚が戻るのを確認した。
水がもう一度落ちはじめた。ただし今度は上から下へではなく、横へ流れていた。ミヤが目で水を追うと水は壁の表面を滑り落ちずに横切っていた。重力の方向が変わったのではない、とミヤは思った。水だけが変わっているのだ。
弟の声がもう一度聞こえた。
「ミヤ姉」
ミヤは振り返ろうとしたが体は動かなかった。耳を澄ましても声がどこから来ているのかわからなかった。耳の中ではなく、胸の奥から聞こえているような気がした。
「ミヤ姉見て」
ミヤが目を凝らすと視界の端で何かが動いていた。あれを自分は知っている、とミヤは思った。前にも見たことがある気がした。
気がつくと警告灯はもう一度点滅していた。肩に母の手の温度が戻り、後ろから弟の声がまた聞こえた。
ただし何かが違っていた。ミヤが額の水滴をもう一度拭うと指先の塩の濃さがさっきと違っていた。弟の声の高さも違い、父の腕の動きもわずかに違っていた。
これは繰り返しだ、とミヤは気づいた。何度も同じ場面が起きていて、自分は何かを見落としているのだ。
ミヤが母の顔を見上げた時、母は唇を動かして何かを伝えようとしていた。しかし、ミヤにはその言葉が聞き取れなかった。
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ミヤは目を覚ました。
仰向けに横たわったまましばらく動かなかった。胸が小さく上下していた。呼吸が速くなっているのに自分で気づいた。
寝台の毛布は湿っていた。塩を含んだ湿気が布の繊維に染み込んでいる。観測艇〈シズク〉の船室はいつも少しだけ湿っていた。窓の隙間から塩を含んだ空気が入ってくるからだ。
ミヤは天井を見上げた。鉄板の継ぎ目に沿って、水滴の細い筋が走っていた。夢の中の機関室の天井と筋の形が似ていた。
機関の唸りが低く船底から伝わってきた。〈シズク〉特有の、四秒ごとに一度小さく揺れるリズムだった。普段なら気にも留めないリズムだが今朝はそれが胸に響いていた。
ミヤは起き上がろうとしてやめた。
夢の中の母の唇の動きがまだ目の奥に残っていた。何度も同じ場面を見ているのにいつも肝心なところで聞き取れない。何を伝えようとしていたのか、目が覚めた今でもわからなかった。
腕時計を見ると午前四時を少し過ぎていた。観測の朝の点検までまだ三十分の余裕があった。
寝台の脇の壁に小さな写真が貼ってあった。色褪せた紙の上には四人の家族が写っていた。海星座号の甲板で撮ったものだった。
ミヤは写真を見なかった。視線を逸らすのが習慣になっていた。
天井の水滴の筋をもう一度見上げた。鉄板の上に走る細い線は海面に立つ小さな白波の跡に似ていた。
ミヤは深く息を吐いた。胸の上下が少しずつ落ち着いていった。
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ミヤは寝台から起き上がり、足を床に下ろした。鉄板は冷たかった。
船室は狭く、寝台と小さな机と観測機器の収納棚以外に何も置く場所はなかった。歩けるスペースはミヤの背の高さの三倍ほどしかなかった。
ミヤは寝台の脇の小さな水甕に手を伸ばした。塩水が入っていた。観測艇では洗顔用と飲料用の水を厳密に分けている。塩水で顔を洗うのは漂泊団の習慣だった。塩が皮膚を引き締め、海上での日焼けを抑えるのだと漂泊団の年長者たちは言う。
ミヤは塩水を手のひらに掬い、顔に当てた。冷たさが頬から首筋に流れた。目を閉じ、息を整えた。
夢の中で感じた塩の味がまだ口の奥に残っているような気がした。手のひらの塩水を舐めてみると味は普段の海と同じだった。夢の塩のほうがずっと濃かった。深海の塩のほうが味が濃いのか、とミヤは思った。なぜそんな表現を思い浮かべたのか、自分でも分からなかった。
朝食は簡単なものだった。机の上に小皿を二つ並べた干し魚と豆の汁だった。干し魚は固く、噛むのに時間がかかった。豆の汁は薄く塩味だけが舌に残った。
食べ終わるとミヤは機関室に向かった。〈シズク〉の機関室は船尾にある。船室から短い廊下を抜けると油の匂いと機関の唸りが一気に強くなった。
ミヤは点検の手順を順に進めた。最初に機関の温度計を読み、次に潮流計を校正し、三番目に気圧計を確認した。順番は決まっていた。父が観測員だった頃から〈シズク〉の点検は同じ手順で行われてきた。ミヤはそれを十年前に受け継ぎ、一度も順番を変えていない。
機関の温度は通常通りだった。潮流計の針は微かに南南東を指していた。気圧計の数字もここ数日と同じだった。
ミヤは点検記録を観測ノートに書き込んだ。ペン先が紙の上を走る音だけが機関の唸りの合間に響いた。
最後にソナーの起動準備に取り掛かるため、ミヤは観測デッキに上がった。外はまだ夜だった。東の水平線がほんのわずかに明るくなっている。日の出までもうしばらく時間があった。
操作盤の電源を入れると緑色のランプが順に灯っていった。ソナーの校正値が表示され、基準値の許容範囲内であることを確認した。
ミヤはソナーを起動した。最初の波形が画面に現れた水深、潮流、生物反応のいずれも普段通りに見えた。
ミヤは観測ノートを開きペンを取った。
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ペン先が紙に触れた瞬間、ソナーの波形が途切れた。
連続的に表示されていた水深データが突然空白になった。生物反応も消え、潮流データも止まった。
ミヤはペンを置いた。
ソナーは故障ではなかった。電源ランプは点灯したままで装置全体は動いていた。ただデータだけが返ってこなかった。
三秒、と数えた。
四秒目に画面が再び生き返った。水深データが連続的に表示され、生物反応も戻ってきた。何事もなかったかのようにソナーは動き続けた。
ミヤは画面を見つめた。三秒間の空白が装置のログに記録されていた。タイムスタンプは正確で四時三十二分十七秒から四時三十二分二十秒までと表示されていた。
機械の不具合かもしれない、とミヤは思った。〈シズク〉のソナーは旧文明の遺物を改造したものだった。古い装置だから時折こうしたことは起こる。
ミヤはソナーを一度停止し、再起動した。
操作盤のランプが順に消え、また順に灯った。校正値が表示され、基準値の許容範囲内であることを確認した。ミヤはソナーをもう一度起動した。
最初の波形が画面に現れた水深、潮流、生物反応のいずれも普段通りに見えた。
ミヤはペンを取りノートに書き込んだ。三秒間のデータ空白について、時刻と座標を記録した。
書き終えて顔を上げた時ソナーの画面がもう一度空白になった。
タイムスタンプは四時三十五分四十八秒から四時三十五分五十一秒まででやはり三秒間だった。
ミヤは長く息を吐いた。一度なら故障で済むが二度目は別の何かだった。
ミヤは舵室に移動し〈シズク〉の位置を変えることにした。場所による現象なら、移動すれば消えるはずだった。
機関の出力を上げると船体が低く震えた。ミヤは舵を東に切りゆっくりと現在地から離れた。一海里、二海里、と距離を取った。
新しい地点で停船し、再びソナーを確認した。データは普段通り表示されていた。
ミヤは観測ノートを開きペンを取った。空白が起きないかを確かめるため、しばらくその場で待った。
十分ほど経過した時、画面がもう一度空白になった。三度目だった。
タイムスタンプは四時五十三分六秒から四時五十三分九秒まででやはり三秒間だった。
場所を変えても現象は起きていた。
ミヤは過去三週間分の観測記録を机の上に広げた。
似たような現象はなかった。データの空白はこれまで一度も記録されていなかった。連続的な値の急変はあったが空白は別の現象だった。装置が動いているのにデータだけが消える。そんなことはミヤの観測員としての十年で初めてのことだった。
ミヤは過去のログを更にさかのぼった。父が観測員だった頃の記録もあった。それらにも空白の記録はなかった。
ミヤはペンを置いた。指先がかすかに冷たくなっていた。
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ミヤは通信機を起動した。
漂泊団の母船「波音号」へ送信する手順は簡単だった。識別コードを入力し、周波数を合わせる。普段なら、〇・五秒以内に応答ランプが点灯した。
ランプは点灯しなかった。
ミヤは時計を見た。一秒、二秒、三秒と経過し、四秒目にようやくランプが灯った。
「波音号シズクのミヤです」
ミヤは自分の名前と所属を告げ、観測データの異常を報告した。ソナーが断続的に三秒間のデータ空白を示していること複数回観測されたこと移動しても消えないことを伝えた。報告は手短に済ませた。
通信士の応答までにまた間があった。三秒、と数えた。
「報告は受信した」
通信士の声だった。普段聞いている若い男の声だが今朝はその声が遠かった。スピーカー越しの声はいつも少しくぐもっているが今朝のくぐもり方は違っていた。
「過去の記録と照合した結果類似する現象は」
ミヤは続けようとした。父の代の記録にもないこと十年の観測で初めてのことそれを伝えるつもりだった。
「処理しておく」
通信士はミヤの言葉を遮った。普段なら「他に何か?」と訊いてくる声だったが今朝はそれもなかった。
「シズクのミヤ観測を続けてください」
通信が切れた。応答ランプが消えた。
ミヤは通信機の前から離れ、観測デッキに上がった。海面を見た。
東の空はもう明るくなっていた。日が水平線の少し下にある。海面は穏やかで波はほとんど立っていなかった。空気は通常通りに塩を含み、風は弱く吹いていた。
何もかも普段通りに見えた。
ミヤは観測ノートを開きソナーの空白の時刻をもう一度確認した。三回とも三秒の空白だった。
夢の中の警告灯の点滅も三秒の間隔だった、とミヤは思い出した。
机の上に開いたノートのページにペン先で「三」と書いた。続けてもう二回「三」と書いた。
数値は嘘をつかない。もう一度あれが見えた気がした。




