後編
後半までお付き合いくださって感謝です。ありがとうございます。
ディオンが部屋を出て行ってから、しばらく椅子で座り込んでいると、ぐう、と腹が鳴った。
その間の抜けた音が、ロジェの意識を現実に引き戻した。
そういえば夕食を食べ損ねていた。
こんな時でも腹は減るんだな。
ロジェは自分に呆れた。
あいつどうやって部屋に入ったんだ、と考えたが、ナディアを呼ぶ日は出かける時から窓の鍵を開けていたのだ。
昨日だって、別に夜まで待てば良かったのに。
バカだな。
そう考えて、その浅はかさがどれだけミレイユに対してひどいことだったのか、ロジェはようやく自覚した。
もし自分に隠れてミレイユがディオンと一年も関係を持っていたとしたら、とても正気でいられない。
どちらかを殺してしまうかもな、と物騒なことを思うが、同じことを自分もしていたのだ。
ディオンはミレイユを奪うつもりだったのだろうか。
こうなることをわかっていてロジェの浮気を放置していたのだとしたら、途中で改心しなかった自分に勝ち目はないだろう。
ベッドに横になっても、一向に眠気は訪れなかった。
夜が明けて、ミレイユは発熱した。
心配する家族に医師は良くあることだと冷静に告げ、王立病院に伯爵家への往診の医師を手配してくれた。
医務局に入院施設はない。
頭の経過が問題なかったら、ミレイユは実家に移ることになっていた。
四年ぶりの実家での生活だ。
ミレイユを迎え入れる為に父はフランセル邸に戻り、母も王太子妃殿下への退出の挨拶のため、身支度に一度家に帰った。
兄が一人、ベッドの横に腰掛けている。
着替えは伯爵家の使用人が持ってきたのか昨日と違う装いで、わずかに疲労の色は見えるが貴族の嫡男らしく穏やかに微笑む。
「眠れないかい?」
優しくミレイユの包帯の上の前髪を払う。
「眠り過ぎたから。兄様は眠そうだわ」
「ほっとしたら急にね」
半日経ち、ミレイユはだいぶ自分の動ける範囲がわかってきた。
まず、腰から下はほぼ問題ない。
左手も、ほとんど無傷だ。
ひどいのは右の肘の上だった。
一番最初に衝撃を受け止めた右腕は、命を助けて大きく折れた。
整復術後、息の止まるような痛みは取れたがジクジクと病みだし、少し体勢を変えるだけで声が漏れるほど痛い。
医師がアスピリンの錠剤を出してくれて、背中を支えてもらえば起き上がれるほど劇的に改善した。
「面会の方がいらしてますよ」
医務局の看護婦がにこやかに言った。
大階段まで医師と一緒に駆けつけてくれたという四十前後のベテランの女性だった。
「ディオン・ラ・イール様です」
息を詰めていたミレイユは、ほ、と力を抜いた。
思っていた名前と違った安堵と寂しさが同時に訪れ、複雑だった。
成人女性の寝室に、配偶者以外の男性は入れない。
状況を見て家族だけは目こぼしをもらっていたが、ディオンは難しい。
ユリスが立ち上がって対応に行った。
廊下の話し声がかすかに聞こえる。
正午の鐘が鳴っていたから、昼休憩にわざわざ寄ってくれたのかもしれない。
兄からは、ディオンが抱き込んで助けてくれたのだと聞いていた。
転落して最後に見た、苦しそうな顔が忘れられなかった。
しばらくして、ユリスは戻って来た。
「とても心配していた。自分がそばにいたら怪我をさせずに済んだのに、申し訳なかったと謝られたよ」
「ディオン様のせいではないのに」
ユリスはミレイユと同じ灰緑の瞳をおかしそうに細める。
「彼は見た目と違って真面目な人だね」
「遊び人だけど優しいの」
「それは周りが放っておかないだろうなぁ」
二人でクスクスと笑う。
アスピリンのおかげが、その振動でも悶えるほどの痛みはない。
しばらくして、また先ほどの看護婦が微笑ましそうにやって来た。
「また、面会の方です。ロジェ・ド・エヴァン様はお通ししてもよろしいかしら」
整復術の手技の際に追い出されてから、ロジェが廊下で頭を抱えて座り込んでいたのを医務局のスタッフは何人も目撃していた。
処置の後もミレイユの呻きが漏れるたびに耐えるように顔を固くしていて、愛情深い婚約者さんですね、とユリスは数人のスタッフから声をかけられていた。
「もちろん、いいよね」
そう振り返ったミレイユの顔が強張っていて、ユリスは内心で首を傾げる。
「ミレイユ?」
ミレイユは朝目覚めた時から、ロジェが来たらどうしよう、と考えていた。
人の耳のあるところであの話はしたくない。
でも、何事もなかったように会話するなんて不可能だ。
世の中の夫人たちは、夫の不倫を離縁の証拠集めのために泳がせているとよく小説にあるが、ミレイユにはできそうもない。
「…はい。お願いします」
一睡もできなかったが時間は流れる。
ノロノロと立ち上がり、着替えをして朝食を取りに食堂へ向かった。
仕事の隊員はもう出勤しているし、非番の隊員が起きてくるには早い時間で、食堂に人の姿は少ない。
居合わせた何人かが窺うようにロジェを見ていた気がしたが、気にする余裕もなくパンとスープを受け取って席についた。
恐ろしく食欲がない。
スープだけ流し込み、またすぐ部屋へ戻る。
どうしたらいいだろう。
本当はミレイユのことが心配で、ずっと落ち着かない。
見えるところにいてくれないと不安だった。
今だって、昨日の顔色悪く横たわる光景を思い出すと心臓がバクバクする。
処置の後眠ったと聞いたが、朝は無事に目覚めただろうか。
目を閉じたまま冷たくなる恋人の姿が瞼に浮かび、ぶるりと体が震えた。
それでもなかなか足が向かないのは、意識の晴明になったミレイユに、もし別れを切り出されたらと考えると恐ろしいからだ。
彼女はあまり恋愛経験もなく、貞淑な女性だ。
今回の場合、それの潔癖さはロジェにとってかなりきつい要素になっている。
いなくなってしまうのも気が狂いそうなほど怖いが、自分の元を去ってしまうのもたまらなく怖い。
ロジェはベッドに仰向けのまま右手で顔を覆い、細く息を吐いた。
無理だ。
別れるなんて、到底受け入れられそうにない。
これほど愛せる人に、二度と出会えない。
このままミレイユと結婚したいなら、全てを認めて、彼女が納得いくまで話し合って謝るしかない。
今は気が昂っていて別れる選択をするかもしれないが、時間が経ってミレイユが落ち着いて考えてくれたら、もしかしたら一度だけ許してくれるかもしれない。
貴族の浮気なんてよくある話だ。
たった一つの過ちでなくなるほどの絆ではないと信じたい。
なるべく話し合いを後ろに回すのが得策な気がした。
午後になり、ようやく宮殿に向かった。
頼む、という気持ちでユリスに通された病室に入る。
気づかなかったふりをしてくれればいい。
今はまだ気持ちの整理がつかなくて決断できないでもいい。
もうナディアとは決して会わないし、二度と苦しませるようなことはしない。
神にも誓える。
だから、どうか。
午後の日差しの入る明るい病室で、ロジェは目を眇めた。
「ミレイユ、ああ、昨日よりだいぶ良さそうだ」
緊張で声が揺れた。
背中に大きめのクッションを二つ置き、ミレイユは起き上がっていた。
よかった。
顔色も、紙のような白さから、元通りとはいかないまでもだいぶ戻っている。
その姿にまた力が抜けそうになる。
ユリスの隣の椅子に座り、ミレイユの状態を確認する。
頭の包帯はそのまま、右の鎖骨の上に、昨日は見えなかった赤いあざが痛々しい。
右腕は石膏で固定され、肩からガウンをかけているが、見えている右腕の肌は赤みが強く、腕全体が腫れているのだろう。
その痛みを思って知らず眉が寄る。
「脚は大丈夫そうだったから、さっき少し歩いてみたんだよ。数歩で貧血になってしまったが、支えれば大丈夫そうだ」
ユリスがにこやかに言う。
そうですか、と力なく返す。自分を見ようとしないミレイユに不安が募った。
また、頼む、と心の中で呟く。
何事もなかったようにが難しいなら、少しくらい硬くてもいい。
ロジェ、と呼びかけてくれればそれだけで、今は救われる。
「もう間も無く家に戻るところだったから、会えてよかったよ」
「家に帰る?」
「腕が治るまで二ヶ月くらいかかるそうだよ。お仕えもできないし、結婚式の準備もしばらくはお休みだ。非番の時は君も遊びにおいで」
口を閉ざすロジェと、一言も話そうとしないミレイユ。
二人の間を流れる空気が最初から冷えていたことに、もちろんユリスは気づいていた。
ロジェは変わらない。
むしろミレイユの怪我を我がことのように心配しているのがありありと伝わってくる。
ユリスはミレイユを眺める。
妹は自分の足元を見つめたまま、ロジェに顔を向けることもしない。
「ミレイユ?」
ユリスに呼びかけられ、ミレイユは一度強く目を瞑った。
迷いはあった。
これまでの日々を思い返すと幸せなことばかりだった。
昨日の出来事がただの夢だったら、どれだけよかっただろう。
どんな悪夢でも、現実よりよほどいい。
「結婚式はしないので、準備もおしまいにします」
それまでの和やかなやりとりにそぐわない、硬く心を閉ざすような声。
ユリスは理解が追いつかない。
はっきりと顔色を無くしたロジェが、ぐ、と息を詰まらせるのを、間近で感じた。
「私、昨日近衛隊の武器庫に行きました。意味はわかるよね?」
詰問の口調に、ユリスはロジェを見る。
蒼白と言ってもいいほど青ざめている。
「妃殿下に、あなたへのお土産をいただいたの。詰所にお持ちして、施錠当番だって聞いてディオン様と一緒に探しに行きました」
「…ミレイユ、」
「信じられなかったわ。今でも、夢だったらいいと思っているの」
堪えていた涙が目尻から流れた。
夢だったらと願っても、何度目覚めても現実なのだ。
目覚めるたびに絶望する。
「私、ずっとロジェといられて幸せだった。こんなに呆気なく崩れてしまうのね」
泣くのを我慢していた喉が熱くて、唇が震える。
一度流れ始めた涙は止まらない。
「ミレイユ、待ってくれ。これ以上は、今は待って」
ロジェは必死だ。
覚悟していた事態だったが、いざ直面すると思考が滑って言葉もうまく出ない。
この場で結論を出されるのは、一番避けたい流れだった。
「何を待つの?」
今日初めて目があった。いつもやわらかい光を湛えている瞳は悲しみに暮れている。
氷のような問いかけに、また、喉が詰まる。
「頼むよ。君の体調が良くなるまで、少し間をおこう。落ち着いて話せるようになるまで。な?」
くすくすと、ミレイユは涙を流したまま笑った。
時間を開けて、何が過去が変わるのだろうか。
初めて怒りの感情が湧いてきた。
「それまでに、また部屋にナディアを呼ぶの?」
静観していたユリスが、驚いたようにロジェを見る。
何か言わなくてはと思うのに、言葉は何も出てきてくれない。
「ナディアとは、いつから?」
ロジェはごくりと唾を飲んだ。
どうすれば。
初めてのことじゃないのはもうわかっているだろう。
最近始まったばかりだと言う?
これ以上嘘をついてそれがバレたら、それこそ取り返しがつかない。
では、一年も二人で会っていたと言えるのか。
そんなことを口にしたら、きっと、この場で全て終わってしまう。
「ミレイユ、お願いだ。本当に、本当に後悔しているんだ。君にひどいことをしていた。俺は本当にバカだったんだ」
「いつからナディアと浮気していたか教えて。それとも、私の方が浮気だったの?」
悲痛な声に、違う、とロジェはすぐさま否定する。
いつだって、ミレイユが一番大切だった。
ナディアのことで負い目を感じなかったのは、お互いに強い好意を持っていなかったからだ。
その気軽で便利な関係が、今まさにロジェを窮地に立たせている。
「君以外を好きだと思ったことなんて一度もないよ。俺がどうかしていたんだ。悪かったよ。君と、別れたくないんだ」
ぎゅっ、と、握りしめているミレイユの手は震えている。
大きな怪我をしたばかりの手。
今も無理をさせているのだ。
「答えてよ。ナディアとはいつから関係があったの?」
愛らしい瞳は涙の中で弱く揺れている。
ずっと大事にしてきた。
他の男に近づけたくなくて、詰所に来るのも控えさせていた。
非番の日は朝早くから約束して、時間の許す限り一緒に過ごした。
自分に向ける綻ぶような笑顔を、一生守っていけたらと思っていた。
それがどうだ。
こんな顔をさせているのは自分なのだ。
ディオンの冷えた視線を思い出す。
”痛々しいんだよ”
昨日の言葉がちらついて、その通りだ、と思った。
自分に会うたびに、ミレイユは喜びを体中で表していた。
そんなひたむきな彼女を裏切っていることに、罪の意識なんてほとんどなかった。
”いじらしくお前を慕うミレイユを、見ていられない”
本当に、その通りだ。
強い脱力感と共に、目を瞑った。
「…一年くらい、前から」
観念したロジェの答えに、ユルスは絶句した。
ふらりと、ミレイユの頭がクッションに沈み込み、耐えかねたように意識が遠のいた。
それは、二人の婚約期間よりも長い時間だった。
あまりのショックに血圧が下がったのか、ミレイユはしばらく目を開けられなかった。
耳鳴りの中でユルスの怒りを抑えきれない声が聞こえて、看護婦のとりなす言葉が続いて、ロジェに何度か名前を呼ばれたが、全て意識の表面を通り過ぎた。
部屋が静かになって目を開けると、医師と母がベッド脇に座っていた。
「帰っていいよと言いにきたけど、とんだ修羅場だったな」
医師の言葉に薄く笑う。
気づかなかったが聞かれていたのだろう。
「お騒がせいたしました」
いや、と言う声が優しい。
「兄はどうしていますか」
「随分興奮していたから、君の婚約者と一緒に外に出したよ」
「…それは、ご迷惑をおかけしました」
はは、と、医師が失笑する。
「今頃看護婦にこってり絞られていることだろう。君の気にすることじゃない」
あの人の良さそうな女性が怒っているところを想像して、少し笑う。
ここの人たちには、本当に良くしてもらった。
「先生、お世話になってありがとうございました」
「いや。仕事が暇な時はたまに遊びにおいで。大階段から落ちて生き延びた令嬢の経過を、時々見たい」
医師らしい発言に少し苦笑する。
隣の母に、目を向けられなかった。
「おかあさま」
呼んだ瞬間涙が溢れた。
婚約も、結婚も、辺境への輿入れも、寂しい寂しいと言いながら喜んでくれていた。
ベールの刺繍も、時間を見つけて一緒に図案を考えた。
デートの帰りに顔を出すと、いつも嬉しそうに迎えてくれた。
「ごめんなさい」
ミレイユが傷ついて、一番悲しい思いをするのは母だ。
昨日だって、自分が怪我をした方が遥かに良いという顔をしていた。
また、悲しませてしまった。
「ガルニエ夫人が、後任探しは少し待ちましょうか、と仰ってくださったわ」
母の声も涙に濡れている。
ガルニエ夫人は厳しくとも情に厚い上司だ。
昨日も知らせを聞いて真っ先に駆けつけてくれたと聞いた。
今日も顔を見にきてくれたのだ。
半年後の結婚式の前に、退職する手筈になっていた。
ここにいてもいいのよ、と夫人が言ってくれている気がした。
人の優しさが弱った心に沁みる。
「そうしてくださいとお願いしたけど、よかったわね?」
ミレイユは泣き笑いした。
一人でないことが嬉しかった。
◇ ◇ ◇
実家に戻って一週間は、ベッドの上でダラダラ過ごした。
こんなに寝たことはない、というくらい寝たせいか、回復は早かった。
当初、着替えを手伝った侍女のマリナが、あまりの打ち身の酷さに悲鳴をあげて倒れるという事件があったが、今や慣れたもので、痛ましい顔をしながらも頑張ってくれている。
ロジェからは何度も手紙と贈り物が届いたが、全て受け取りを断った。
辺境伯家には事情の説明と婚約解消の書類を送り、悲嘆も露わな謝罪の返事があった。
来週には、辺境伯夫妻の来訪も予定されている。
そこで正式に婚約の破談が決定するだろう。
ミレイユはもうやり直す気はなかった。
久々にデイドレスに腕を通す。
ライトベージュのコットン生地に、ミモザの黄色と緑の模様が鮮やかなお気に入りの一枚だ。
ひどい骨折だった右腕も、十日が経つ頃には肩の半分くらいの高さまで上げられるようになった。
硬くて煩わしい石膏も、昨日外れた。
今は添え木のみで、だいぶ身軽になった。
ドレスの上から腕を吊るが、ショールをかければそれほど見栄えも悪くない。
マリナが頭の傷を気にしながらダウンスタイルに髪を整え、化粧もしてくれた。
今日は来客がある。
春の昼下がり、柔らかな光の差し込む応接室で待っていると、ディオンがフリージアの花束とともに現れた。
女性よりも花の似合う男に、ミレイユは笑った。
「ディオン様、わざわざお見舞いに来てくださってありがとうございます」
ディオンは気障ったらしく片目を瞑り、
「君に会えると思うと昨日の夜は眠れなかったよ」
とセリフまで気障に決めた。
くすくす笑うミレイユに目を細め、花束をマリナに渡して勧められたソファに座る。
マリナが花瓶に花束を飾り、メイドがお茶の支度をしてくれたところでディオンは切り出した。
「顔色は良さそうだね。体はどうだい?」
青の瞳が本当に心配そうで、ミレイユはくすぐったい。
「ずっと、ディオン様に会ってお礼を言いたかったの。助けてくれてありがとう。傷も、腕以外はほとんど痛まないわ」
ディオンはほっとしたように肩の力を抜いた。
窺うように、ミレイユを見つめる。
「気持ちの方は、どうかな」
ディオンには、起きて生活できるようになった早い段階で、お礼と、結婚をやめること、おそらくこのまま王宮侍女を続けることを、手紙を代筆してもらって知らせていた。
浮気現場にも、転落現場にも立ちあわせてしまったことを丁寧に詫びたつもりだが、彼は返事で「そんなことを君が謝るな」と、割と強い文面で書いて寄越して、ミレイユは面食らった。
遊び人で優しいばかりの人ではないのだ。
それからは何度か手紙のやり取りが続いていて、時間を持て余していたミレイユの日々を癒した。
「まだ一月だし、時々思い出して涙が出るけど、時間が経ったらきっと忘れられると思います」
強がりだった。
しばらくは、事あるごとに涙が流れて、このまま自分はおかしくなってしまうのではないかと思った。
寝ても、起きても、外を見ても、何かを食べても、とにかく気づけば泣いていて、目元と頰が涙で爛れた。
今も忘れられるなんて思っていない。ロジェの気持ちが嘘だったとも思えない。
ミレイユはロジェが大好きだったし、会うたびにときめいていた。抱きしめられた時は夢にまで見たし、初めてのキスの後は眠れなかった。
会えなかったら切なくなって、でも姿を思い浮かべるだけで幸せになった。
本当に満ち足りた恋だった。
でも、ロジェはずっと裏切っていた。
「ロジェがどうしてるか気になる?」
少し悩んで、はい、とミレイユは答えた。
「死ぬほど後悔しているといいなとか、悲しんで仕事にならなければいいのにとか、割とひどいことを思います」
きっとそうではないだろう。意外としれっとナディアと会っているかもしれない。
「たくさん手紙をくれるけど、もうやめてって伝えて欲しい。思い出すと辛いから」
ディオンは少し目を伏せて、考えるように黙った。
さすがに図々しかったかしら、と撤回しようとした時、
「わかった」
とディオンは顔を上げた。
「必ず伝えるよ」
その勢いと視線の強さに、ミレイユは気圧されたように頷いた。
「本当は君の気持ちが落ち着いてからにしようと思ったけど、もう言ってしまおうと思う」
何かを決めたディオンの眼差しが真っ直ぐで、ミレイユは目を逸らせない。
この人はいつも飄々としていて掴みどころがなかったが、最近少し印象が違う。
「ミレイユ、俺と結婚して欲しい。ロジェを忘れるまで待つなんてできない。あいつが目の前に現れたら、君はもしかしたら許してしまうかもしれない。そんなのとても耐えられない」
唐突だった。
言われたことが理解できなくて、ミレイユの目は大きく開く。
「君がロジェと幸せに過ごすなら、一生友人でいようと思っていた。そうならないなら取りに行くって決めていたよ。俺は、ずっと君が欲しかった」
何かものすごい告白を受けている。
ミレイユは現実離れした状況に冷静だった。
だって、こんな王宮で一番モテるみたいな男性が、自分を好きだなんて、あるはずがない。
そういう意味ではロジェもそうだったが、ディオンはほら、なんたって根っからの遊び人を公言して憚らない。
「私、ディオン様が好きなプレイガールじゃないわ」
ディオンの顔が怪訝に歪む。
歪んだ顔すら整っているのはどんな不具合だ。
「それはどういう意味?」
「ディオン様は世慣れた女性じゃないと相手にしてくれないって、青の宮の侍女はみんな知ってる」
ディオンは軽く天を仰いだ。
「それは誰が言っていたの?」
「わからないけど、王宮侍女をするような真面目な女の子じゃなくて、いろんな夜会を楽しむ妖艶な美女じゃないと、取り合ってもらえないって」
「ミレイユ」
鋭く呼ばれて、心臓が一つ鳴った。
「それは、俺が同僚からの誘いを断るときに言う決まり文句だ」
え、と、言葉が固まる。
「侍女や女性騎士から声をかけられたら、そう答えるようにしている。職場の恋愛は終わった後が面倒だ」
実際、今までディオンが相手にしてきたのは未亡人や遊び慣れた令嬢ばかりだったが、それはミレイユには言わない。
「特定の恋人は一年以上いないし、夜会にもずっと出ていない」
「うそ…」
「嘘じゃない」
「だって、そんな」
一年前は、ロジェとナディアの関係が始まった頃だ。
小さく浮かんだ疑いを、ディオンはすぐに肯定する。
「俺は卑怯な男だ。ロジェが君に不誠実になって、それでも見て見ぬ振りをした。途中で改めるなら目を瞑ろう。もし君を貶めるなら絶対に別れさせてやろうと思っていた」
ディオンの澄んだ海の様な瞳が、苦悶に揺れる。
階段の下で見た、あの顔だ。
「結果として、君をこんなに傷つけた」
ソファから立ち上がり、ディオンはミレイユの隣に座る。
優しく頭を撫で、右腕の包帯に触れる。
「あの日も、ロジェとナディアが一緒にいるのはわかっていた」
一瞬で凍りついたミレイユの顔を、ディオンは痛ましげに見る。
「君を連れて行って、戯れあっているところを見せられればいいと思っていた」
ふ、と、ディオンは投げやりに笑う。
「君のこの怪我は、全て俺のせいだよ」
ミレイユの溜まった涙が溢れるのを、ディオンはただ静かに見つめた。
懺悔の様だった。
優しいディオンは、失恋を癒してくれようとしているのかしらと、ミレイユは思った。
「ディオン様。あなたも私の怪我の責任を取ってくれようとしているの?そんなの、いらないのに」
「あなたも?」
ディオンは聞き逃さない。
気になっていることがあった。
転落の直後も、翌日も、医務局で熱心にミレイユを気にかける若い男。
「私がぶつかってしまった方も、ずっと気にしてくださっていて。怪我の責任で結婚なんて、ずいぶん律儀だわ」
ディオンの目元がひくり、と動く。
その男は怪我の責任にかこつけているだけで、本当の狙いは君自身だと、気付かせるのが癪なので絶対に口にしない。
「責任で結婚なんて、そんなつもりはないよ。全部、俺の独りよがりの想いだ。どれだけ断られても退くつもりはないけど」
「職場の恋愛は面倒だって今言ったわ」
「終わった後が面倒だ、と言ったんだ。終わらせないから問題ない」
「それに、美人じゃないし、気も利かないから、つまらないと思うわ」
「君は自分がどれほど可愛らしいのか知らないのかい。ロジェが今まで君を近衛隊に寄せ付けなかったのは、他の男の視界に君を入れたくなかったからだ」
「うそ…」
「嘘じゃないよ」
ミレイユはぎゅっと一度目を瞑った。
それに、と、涙声で続ける。
「私、きっとロジェとのこと忘れられない」
心の悲しみを乗せた声に、ディオンは苦く笑った。
羽で触れるように、柔らかにミレイユの頰に手を添える。
目の前の青の瞳に自分が映って、ミレイユはまた悲しくなった。
優しい人。でも、ロジェじゃない。
彼との恋を失ってしまった。もう、前の、幸せしか知らなかった頃には戻れない。
「それでもいい。忘れさせてみせるよ」
体を気遣った優しい抱擁に、ミレイユの涙は止まらなくなった。
隊舎に戻ると、入り口前の石段の奥に座り込んでいる男がいた。
終業の鐘の少し後だ。
隊舎に戻る兵士が、何人も怪訝そうにロジェを見るが、声をかける者は今のところいない。
ミレイユの転落事故はそこそこの騒ぎになった。
それと同じくしてロジェが傍目にもわかるくらい落ち込んだので、周りは彼の婚約者の状態が良くないのではと勘繰った。
まだ、婚約の破談は広まっていない。
噂が噂を呼んでいる今の状態を、ディオンは敢えて放っておいた。
「俺を待ってたのか」
ロジェの前に立ち声をかけると、打たれた様に顔を上げた。
昨夜、食堂の奥に一人で座るロジェに、ミレイユに会いに行くことを伝えていた。
「場所を変えよう」
背中を向けて歩き出すと、ついてくる気配がする。
隊舎の奥には洗濯物を干す広いスペースがあり、その周りにいくつか古いベンチが置いてある。
夏場はたまに、仲間とそこで酒を飲む。
ロジェとも、何度もくだらない話をして笑い合った。
もうそんなこともないだろう。
「ミレイユはどうしてた」
開口一番、待ちきれない様にロジェは聞いた。
そのなりふり構わない様子に肩をすくめる。
そんなに大事なら、自分なら決して気を緩めたりしない。
「元気にしていたよ。腕はまだ十分には動かせないようだが、回復は早そうだ。彼女は心が健やかだから」
ロジェは額に手を当て、ベンチに座り込んで「よかった」と小さく呟いた。
医務局の病室で話をして以来、ミレイユの情報はどこからも入ってこない。
あれから非番は四日あったが、フランセル邸に行っても四日とも門前払いを受けていた。
手紙もプレゼントも全て返され、ロジェにはミレイユと繋がる手段がない。
商務省の伯爵にも、法務省のユルスにも繋いでもらえず、不本意ながらディオンに頼るしかなかった。
「ナディアとは会ってるのか」
どうでもよさそうに聞かれ、ロジェは卑下する様に笑う。
「いや。あいつは元々お前にしか興味ない。いないところで絡んでこない」
ディオンがナディアから交際を持ちかけられたのは、彼女が上官に迫られているのを助けたすぐ後だった。
例のセリフで断った後、ナディアは数人の騎士たちと関係を持って、またディオンに気持ちを伝えてきた。
ナディアは子爵家の令嬢で、体術の優れたさっぱりした気性の女性騎兵だった。
社会性もあり、配属先の同僚とも王太子妃の侍女たちともかなりうまくやっていた印象だった。
おそらく、恋をしたのが初めてだったのだ。
最初の恋がディオンの様な女性慣れした男で、言われたことをそのまま間に受けた。
今思えばかわいそうなことをした。
ディオンが受け入れてくれないことに焦れたのか、あろうことかディオンと親友とも言えるロジェに関係を持ちかけた。
ディオンは、ロジェが相手をしていることが信じがたく、ナディアに探りを入れてしまった。
ロジェと会っているのか、と。
それが、ナディアとロジェの関係が続くことになったきっかけなのかもしれない。
ロジェと会っていると、ディオンが気にしてくれる。
ナディアの歪んだ恋が、彼らを長く通じ合わせてしまった。
「ナディアは転属したよ。今は第三連隊の王都の支部に出向してる」
知っていた。
転落事件の翌週にはナディアは王太子妃と侍女長に、事実確認の名目で吊し上げられていた。
数人の侍女と近衛兵の前で。
王太子妃はおおらかで柔和な女性だが、王族らしく清廉で容赦がない。
侍女長は身内にも他人にも厳格な上司で、その実信頼した部下に対してはかなり情け深かった。
王族の警護に当たる近衛兵には、気高い品性が求められる。
軽薄を装っていても、彼らは不義や不貞には決して手を出してはいけないのだ。
そこに踏み入れたものは、王宮からは放逐される。
ナディアや、ナディアに無理矢理迫った上官のように。
「そうか。それは残念だったな」
何の気持ちもこもっていない慰めに、ロジェは緩慢に顔を上げた。
婚約が正式に解消されたら、ロジェにも聴取があるだろう。
フランセル伯爵は温厚だが甘くはない。
王や議会の無理筋の法案を、手段を厭わず幾つも制定させて来た稀代の名大臣だ。
娘を無為に傷つけた者を、決して許さないだろう。
「今日、ミレイユに結婚を申し込んできたよ」
ロジェは唖然とディオンを見つめた。
まるで意味が飲み込めていない顔だった。
「手紙は困ると言っていた。もうミレイユの周りをうろつくのはやめてくれ」
「なんだって…?」
「彼女に関わるのはやめてくれ、と言ったんだ」
は、と、ロジェは吐き捨てるようにディオンを睨み上げる。
「随分周到だな。お前がそんなに狡猾な奴だと思わなかったよ」
強い言葉の裏で、ディオンにはロジェが今にも泣き出しそうに見えた。
哀れみを込めた目で友人を見据える。
「俺はずっと幸せそうなお前たちを見るのが好きだったよ。真剣な恋愛も良いなと思って、適当な遊びもやめた。お前が早めに悔い改めていたら、ミレイユに告げることもなかった。彼女が苦しむところは見たくないからな」
ロジェの顔が後悔に歪む。
「ずいぶん長いこと猶予を与えたつもりだ。俺はお前のことも失いたくなかったから。でも、あれ以上は許せなかった」
「………」
「今回のことは、全部お前自身の当然の報いだ」
悄然と項垂れるロジェはもう、完全に戦意を失っていた。
こうなる未来をいつ予見できただろう。
自分のそばにミレイユがいるのはロジェにとって必然だった。
背中を預けられる友がいたのも、当然のことだったのに。
失って、自分の愚かさに初めて気づいた。
立ち去ろうとするディオンに、ロジェはここ最近ずっと気になっていたことを口にした。
「お前、いつからミレイユを見ていた?別に好みじゃないだろう」
その気安い声に、ディオンは振り返って意外そうにロジェを見下ろす。
大切なものをなくした男は、もう全てがどうでも良くなったかのように無風な表情だった。
「さあ。どうだったかな」
ディオンは思い出して無意識に目元が緩む。
「ただ道案内しただけで、神様に救われたみたいに笑った顔見た時かな」
『本当にありがとうございます』
最近騎士の間で話題の可憐な侍女は、心底安心したように半泣きで笑った。
『麗しい騎士様に送っていただけて、迷った甲斐がありました』
楚々とした容姿と台詞の差違に、ロジェと二人で吹き出した。
不思議そうに首を傾げ、侍女はつられたようにクスクスと笑い出す。
それは厳しい訓練の合間の、木漏れ日のような温かい時間だった。
「じゃあな」
背中を向けるディオンを、ロジェは見送らなかった。
そのままベンチに倒れ込み、雲の広がり出した夕空を見上げる。
気付けば空気が湿っていた。
「それ、俺と同じじゃないか」
声は濡れていたが、涙は流れなかった。
ロジェは空が暗くなって冷たい雨が降り出しても、しばらくベンチから動けなかった。
伯爵家の中で、勢力は三つに割れていた。
夫人+侍女マリナ
「ぜったいにディオン様です!!あれほどの美形が身を挺してお嬢様を助けた上に!!女遊びから足を洗ってお嬢様一筋になられるなんて!!最高です!!」
「そうよねぇ、あんなに美形なのに優しくて一筋なんて、最高よねぇ」
伯爵
「彼には本当に頭が上がらないが、アロイスも優秀で硬派ないい男だよ。階段から落ちていくミレイユの儚さに、自分が守らなければと奮い立ったようでね。本当に熱心にミレイユを思ってくれている」
「お嬢様は儚いタイプではありません!熱が冷めたらきっと思い違いに気づくはずです」
「それはまあ、確かに」
ユルス
「俺はなんだかんだ言って、ロジェと戻るといいなと思うけどね。彼は色々間違えたけど、あれだけ落ち込んだならもうミレイユを傷つけることはしないだろう」
「ユルス、あなたずいぶんロジェ・エヴァン卿とやり合っていたじゃない」
「それでも、目を覚さないミレイユに、自分の方が死んでしまいそうな顔をしていたよ。彼は考えが浅かっただけで、根は悪い奴じゃない」
と言うやりとりがあったとかなかったとか。




