前編
お付き合いくださってありがとうございます。
ミレイユは足取り軽く回廊を進んでいた。
西陽の差し込む回廊は、肌寒い春先の夕時でもポカポカと暖かい。
手に持っているタルトの箱も、ほのかに温かい。
これは次のお茶会に出す焼き菓子の試食で、王太子妃殿下がミレイユに特別に持たせてくれたものだった。
「ミレイユ、あなたの婚約者はりんごのタルトが好きだったわね?持っていっておあげなさいな」
大切な主人がミレイユのことを気にしてくれたのも嬉しかったし、話題の一つとして過去に話しただけの、ミレイユの婚約者の好物を覚えていてくれたことも、とても嬉しかった。
王太子妃付きの侍女になって、二年半あまり。
十八で女子学校を出て、国王陛下の侍従をしている叔父の紹介で、王宮に仕官した。
実家は宮廷貴族の伯爵家だが、家督は兄が継ぐし、父母も娘を高位貴族に縁付かせてのし上がろうというほどの野心もなく、のびやかに育てられた。
社交デビューは十六の歳と決まっているが、ミレイユは夜会の文化に馴染めず、デビュタントを終えてからもなかなか婚活が進まなかった。
茶会も夜会も王宮も恐ろしい。
嫉妬と憎悪の渦巻くの魔の巣窟。
完全に本の読み過ぎなのだが、それがまあ何の因果か、一年の侍女見習いを経て、今や国中の令嬢の憧れ王太子妃殿下の側仕えだ。
最初はずいぶんビクビクして登城した。
嫁がれたばかりの妃殿下は他国のご出身で、前情報は少ない。
白百合のように高潔で、妥協を許さない厳しい方だという話だったが、蓋を開けてみれば目下の者にはことさら優しい聖女のような女性だった。
宮殿の東口を出て、少し歩いたところにある近衛隊の詰所を目指す。
正門は大きく豪奢だが、官僚や勤め人たちは普段省庁から車止めに近い東門を使う。
近衛隊の詰所も、人通りの多い東門の近くに置かれている。
王宮の西にある王太子ご夫妻の住まう青の宮からは、ずいぶんと遠い。
なるべく近づいてくれるなという婚約者の言いつけを健気に守り、交際を始めて一年半、ほとんど寄り付かなかったが、今回は特別許してくれるだろう。
婚約者のロジェ・ド・エヴァンはヴィヨン辺境伯の次男で、王宮の近衛騎兵隊に籍を置き、日々鍛錬に励んでいる。
彼の兄が爵位を継いだら、辺境伯軍の司令官となる兄を助けに領地に戻るつもりでいる。
ロジェとの出会いはなんてことはない。
お使いの途中で道に迷っていたミレイユを、彼と彼の友人が案内してくれたのだ。
それから何度か偶然に会う機会があり、自然と話をするようになった。
近衛騎士はモテる。
王族の警護を主な任務とする第一騎兵連隊は、特にモテる。
実力があり容姿の優れた血統の良い若者が選ばれるからだ。
王宮で働く独身女性のほとんどが彼らと親しくなりたいと思っている。
誇張ではない。
だから、そんな近衛騎士の中でも特に人目を引くロジェに交際を申し込まれた時は、冗談かと思った。
ロジェは清潔感のある短い栗色の髪の青年で、整った造作の割に勝気な眼差しと、模擬試合の馬上での凛々しい姿が素敵だと、若い侍女たちに人気だった。
何も自分じゃなくても、他に彼好みの美しい女性はいっぱいいる。
そう言ったミレイユに、ロジェは首を振った。
「君がいいんだ。他の誰でもない、君だけの特別になりたい」
ヘーゼルの瞳が見たこともないほど真剣で、ミレイユの胸は大きく鳴った。
それからは毎日が幸せだった。
彼はミレイユを大いに甘やかしてくれた。
行きたいところは全部連れていってくれたし、休日は余程の事情がない限りミレイユを優先してくれた。
正装した彼が実家の父母を訪れ、婚約の許可を願い出た時に辺境へ帰ることを知らされた。
甘やかしは本当はミレイユを囲い込むための餌罠だったのかもしれない。
それでもいいかと思うくらい、ミレイユはロジェに夢中だった。
終業の鐘が鳴る。
王太子妃の侍女の着る、若草と生成色のドレスは清楚で少し目立つ。
隊舎へ戻る近衛兵が好色な視線を向けてくるが、ミレイユは淑女らしくふわりと微笑んでやり過ごす。
第一連隊の詰所の扉はわずかに開いていて、隙間から話し声と笑い声がガヤガヤと聞こえる。
日勤組と夜勤組はとうに王宮内で引き継ぎを終え、訓練組しかいないはずの時間だ。
どうしよう、と、タルトの入った箱を抱えしばらく悩んでいたが、後ろを通り過ぎる第二第三連隊の兵士たちの目も気になる。
心を決め、えい、と重いはずの扉を右手で押した。
あれ。
その扉が思ったよりもずっと軽くて、反対から開けられたのだと気づいた時には、体は勢いよく前のめりになった。
「おっと」
ふらついたミレイユを支えたのは聞き覚えのある声の主。
見上げた先の顔を確認して、不安が安堵に変わった。
「ディオン様!」
居てくれたらいいな、と思っていた人で、ミレイユはほっと胸を撫で下ろす。
ミレイユの肩と扉を支えたまま、ディオン・ラ・イールは端正な顔に驚きを乗せていた。
「ミレイユ、こんなところに何しに来たの?」
ディオンはロジェの元相棒だ。
昇格して、今は小隊長として並び立っている。
二人の初対面に立ち会った人物であり、ブロンドに碧眼という持ち前の王子様色と秀麗な容姿で、数多の女性を泣かせてきた名うての遊び人だ。と、ミレイユは思っている。
ディオンの声に、後ろの騎兵たちが次々に入口に詰めかけた。
「お、なんか女の子が来てる」
「誰の子?ディオンの子?かわいいね」
「僕知ってますよ。妃殿下付きの侍女ちゃんでしょ」
「エヴァン隊長の婚約者じゃない?」
「ミレイユちゃん、どうしたの?俺に会いにきてくれたの?」
軟派だ。
王宮勤めになる前は、近衛騎士は硬派で気高いエリートのイメージだったが、すっかり崩れた。
王太子妃付きの近衛騎兵とは接する機会も多く、名前を知っているものも何人もいた。
もちろん部屋の奥にはその硬派で気高いエリート騎士もいるのだろうが、軟派組が壁になって何も見えない。
ディオンは何事もなかったかのようにパタリと扉を閉めてミレイユを連れ出した。
中からブーブー文句が聞こえる。
「ここに来るなって言われてるんじゃなかったかい?」
ミレイユは肩をすくめる。
「妃殿下に、お土産をいただいたの。婚約者に持っていっておあげなさいって」
そう、白い箱を掲げて見せる。
ディオンは少し悩むように考え、小さくため息をついた。
「…ロジェは今週は武器庫の施錠当番だ。案内するよ」
「一人で行けるわ」
「とてもこんなところで解き放てないよ。大人しくついておいで」
そう言ってひょいとタルトの箱を奪う。
彼はミレイユよりも二つ上の二十四歳、何度も言うが名うての遊び人で、そしてとても優しい。
だからこそ遊ばれた人も彼を悪く言わないんだわ、と、ミレイユは常々思っている。
「結婚式は秋だったかい?」
ええ、と、頷く。
ロジェの両親とミレイユの両親と、揃って結婚式の打ち合わせをしたのはつい半月前だ。
春の大夜会に合わせて王都入りした、辺境伯夫妻に合わせての日程だった。
「ディオン様も来てくださいね」
「非番だったらね」
休みの希望は出さないと言うことか。
冷たいわ、冷たいよね、と二人で笑う。
武器庫は練兵場と詰所の間にあり、もう人気はなかった。
絢爛で優美な宮殿の敷地内にあって、このあたりはどうにも無骨だ。
訓練用の武器庫は特にそれが際立っていて、煉瓦造りの重厚な建物に飾り気のない入り口が一つ。
両開きの扉のパッドロックは閉まっていない。
入口の横には風通しの窓があり、そこも閉まっていなかった。
中にいるのだろう。
ミレイユがロジェに会うのは実は一週間ぶりだ。
ただロジェの非番とミレイユの休日が合わなかったと言う理由なのだが、ミレイユはロジェに会えたらすぐさま抱きつこうと決めていた。
明日の約束の前に会いに来られて、嬉しくて仕方なかった。
どんな顔するかしら。
驚いてくれるかな。
ロジェの照れた笑顔を想像して、口元が自然に綻ぶ。
ミレイユの中のロジェが枯渇していた。
隣を歩いていたディオンが、躊躇いなく開き戸の片方を引く。
重そうな木製のドアだったが、わずかに軋んだだけ容易に開いた。
暗い。
ひんやりとした空気が足元を流れる。
外見よりも中はずっと広かった。
少しだけ黴と古い布の匂いがする。
目の前の棚にたくさんの甲冑が並んでいて、左手には長さの様々な槍が立てかけてある。
流石に剣は剥き出しでは置いていなさそうだ。
興味深く見入るミレイユの耳が、微かな音を拾った。
子猫の鳴き声だった。
なぁ、なぁ、と弱い声が間をおいて聞こえる。
動物たちはそろそろ出産時期だ。
宮殿の裏手の庭園には池や小山があり、リスなどの小動物も見ることができる。
声の方に、進む。
奥にはもう一つ扉の閉まりきっていない部屋があって、もしかしたらここで着替えをしたりするのかもしれない。
軒下に住み着いたのかしら、と、呑気に思うミレイユのそばで、ディオンが息を呑んだのがわかった。
彼は声を潜めて告げる。
「ミレイユ、ここにはいなさそうだ。戻ろう」
「え?」
先ほどより猫の声が近くなった。
「…ゃあ、ふ、…ぁっ」
気まずげなディオンの表情。
「ん、ゃ、……ぁ…んっ…」
理解した。
猫じゃない。
致している。
誰かが、奥の部屋で、どこまでかわからないが。
途端に顔が赤くなったミレイユに、ディオンは頭を抱えた。
「気づかれていない。出よう」
はい、と、小さく頷く。
足を引いた次の瞬間、ミレイユは地獄に落ちた。
「ロジェ、…だめ、夜まで待って」
え
「無理。今すぐしたい」
「や、だめ……。あとで部屋に行くから」
「お前終わったら……だろ。何回ヒヤヒヤしたと思ってるんだよ」
何、今の。
奥の会話は続いていたが、そこからは頭に入ってこなかった。
ロジェって言った?
ロジェ・ド・エヴァン?
そこで致してるの、ロジェなの?
現実と思えない状況に、体が固まって動かない。
放心のミレイユの手をディオンは舌打ちと共に引いた。
そのまま武器庫を飛び出して、二人は元来た道を戻る。
詰所から出てきた同僚に行き合い、ディオンはタルトの箱を渡した。
「これ、食堂でロジェに渡しておいてくれ。婚約者が来てたって伝えて」
「会えなかったのか?あいつ何してんだ」
「そういやナディアも戻ってないなー。まさかな」
水膜で隔てたような遠いやりとりの中、耳に入った名前に混乱は深まる。
ナディア。
ナディア・オーバン。
王太子妃付きの近衛兵の名だ。
少ない女性騎兵の中でも確かな腕としなやかな容姿から、侍女の評判も高い若手騎兵。
何度も一緒に仕事をした。
歳も同じで、ナディア、ミレイユ、と友人のように呼び合っていた。
相手はナディアなのか。
確かに、ナディアの声だった。
でも。
そんなことが、あるのか。
思考の上限を超えて、ミレイユはあっさり手放した。
「私、戻ります」
足は速い方だ。
ディオンが我に帰る前に、全速力で走り出した。
宮殿は広い。
闇雲に進んでいるわけではないが、侍女の制服を着た女性が走るのは異様な光景だろう。
噂になるかな。
もう、どうでもいいか。
どうせ結婚はなくなる。
一生ここで働くなら、そんな噂、だめじゃない?
散り散りの考えが浮かんでは消える。
ああ、私、今正常じゃないんだ。
正面エントランスの大階段を駆け登る。
「ミレイユ!」
ディオンの声が聞こえたけど空耳かもしれない。
二階部分の大きく曲がる踊り場に足をかけるところで、同行者と書面を見ながら足早に駆け降りてきていた男性と目が合った。
アロイス・ハルデン
商務省の、補佐官。
父の部下だ。
知り合いだったのが、また良くなかった。
目が合ったまま勢いよくぶつかって、ミレイユはその弾みで反対に投げ出された。
反対は、階下だ。
浮遊感の後、アロイスの伸ばした腕が視界に入ったが、間に合わなかった。
もういいや。と思った。
ミレイユはアロイスの手を掴まなかった。
関係ない人を巻き込んでしまった。
どうか、彼が気に病みませんように。
打ち付けられた感覚はわからなかった。
壮大な天井画に、昨年末に付け替えられた素晴らしい意匠のシャンデリアが見えて、女性の悲鳴と自分の名前を呼ぶ声が耳の遠くで聞こえていた。
「医務局、医務局に運べ」
「だめだ、頭を打っている。誰か医者を連れてこい!」
「王太子妃の侍女だ。青の宮に知らせろ」
自然に閉じる視界に、苦しそうなディオンの顔が一瞬見えて、すぐに暗くなった。
◇ ◇ ◇
ロジェが隊舎の食堂に着いたのは、近衛隊員の半数ぐらいが食事を済ませ、酒肴を始めている時間帯だった。
隊舎の前でナディアと別れ、時間差で入って同僚のたむろするテーブルへ向かう。
結局、ナディアとは武器庫で最後までしてしまった。
彼女に関係を持ちかけられて、たいして悩みもせず受け入れてからそろそろ一年だ。
結婚も近いし身綺麗にしなければと思いつつ、ずるずるここまできてしまった。
でもまぁ領地に戻れば完全に切れるし、しばらくはいいか。
と、最低な考えはこのあとロジェを突き落とす。
「エヴァン隊長、さっきミレイユさんが詰所に来てましたよ」
ひやり、と、背中が冷えた。
「これこれ。差し入れだって。お前のこと探しに行ってたけど、会わなかったのか?」
差し出された箱を開けると、好物のタルトが丸々一つ入っている。
声が震えないように気を付けて聞いた。
「何時位?」
「終業くらいかなー。ディオンと探しに行って戻ってきて、シャルルが余計なこと言ってたな」
ニヤけた笑みで茶化す同僚にも、かまっている余裕はない。
「余計なこと?」
「ナディアも帰ってきてないなーって」
「ええ、ナディアさんと隊長、そういう仲なんですかー?ずるいなー」
「可愛い婚約者がいるのに浮気するなら、この差し入れ俺たちで食べちゃおうぜ」
軽口に、ガハハ、と笑いが起きる。
半分冗談、半分本気と言った調子だが、やましい当人は気が気じゃない。
同じ区画のテーブルのナディアは、背を向けたまま動かない。
全身でこちらの会話を聞いているのがわかった。
今すぐ立ち去ってミレイユの元に行きたいが、ここを後にする良い言い訳がない。
別の隊の男が勢いよく入ってきたのはその時だった。
男は第二連隊の下士官が集まるあたりで興奮したように言った。
「中央階段で人が落ちたんだってよ」
ざわざわと、食堂全体が騒ぎ出す。
「二階から落ちて担架で医務局に運ばれたって」
「え、生きてんの?」
「なんか若い女の子らしいから、じーさん連中よりは確率ありそうだけどな」
まさか、と、ロジェは直感で思った。
「それ、いつ頃の話?」
近づいて来たロジェの顔色が悪くて、話していた男も真顔になる。
「少し前じゃないかなと思いますけど。俺も上官から聞いたので。青の宮から誰か来てたって言ってたから、その辺りの子なんじゃないかな」
あれ、と、男は言った。
「小隊長の婚約者、青の宮の侍女じゃなかったでしたっけ?」
入り口に、制服を着た下士官が足音高くやってきたのは、すぐ後だった。
「第一騎兵連隊のエヴァン小隊長はいらっしゃいますか」
王太子妃付きの近衛兵だった。
食堂の全員の視線が、ロジェに向かう。
下士官は気遣うように声を落とした。
「宮殿の医務局までお越しいただけますか」
宮殿の医務局は、当然ながら宮殿内にある。
隊の無機質な医務室とは違い、清潔で明るい雰囲気だった。
医務局の中にはさらにいくつかの病室があり、初めて入る空間にも落ち着かない。
案内された部屋の前に、ミレイユの父のフランセル伯爵が立っていて、ロジェを見ると困ったように頭を掻いた。
「エヴァン少尉、わざわざ済まなかったね」
その様子から、どうやら最悪の事態には至らなかったようだと、握り込んだ拳がほんの少し緩んだ。
呼びに来た下士官は詳細を知らなかったようで、ミレイユが大階段から落ちたこと、その場で医者が診察してから医務局に運んだことだけを歩きながら伝えられていた。
「階段から落ちたと聞きましたが、怪我などは?」
うん、と、伯爵は少し悩むように上を向き、それから小さく苦笑した。
「どうも男親というのは駄目なものだね。娘の姿を見ていられなくて出てきてしまったが、気になって仕方がない。青の宮の侍女殿もいらっしゃるから、君は中に入ると良い」
そう言い、コンコンコン、とノックをして扉を開ける。
促されて入ると、中はそこそこの広さの白い部屋だった。
ベッドが離れて三つ置いてあり、右端にだけ、人が寝かされていた。
ごくり、と、唾を飲む。
寝ている人物はミレイユに間違いなかったが、仕事中は結っている薄茶の髪が下ろされていて、後頭部から額にかけて幅の広い包帯がぐるぐると巻かれていた。
そして何より、その顔色だ。
息をしているのか心配になる程に青い。
ふらふらと近づいてベッドの脇にしゃがみ込むと、近くで人の気配がした。
顔を向けると、青の宮の侍女長ガルニエ夫人がベッドの足元の小さな椅子に座っていた。
そういえば、伯爵は侍女がいると言っていた。
まさか侍女長だったとは。
今の今まで、そこにいたことにも気づかなかった。
十五ほど年上の表情の少ない女性は、静かに立ち上がった。
「そのままどうぞ。わたくしは宮へ戻ります。一人下の者を寄越しますので、何か変わりがあったら言付けてくださいまし」
女性が立ち上がったらその場の男性も立ち上がるのがマナーだ。
植え付けられた教育のまま反射で立ち上がり、軽く頭を下げた。
「承知いたしました」
ガルニエ夫人は浅く頷くと、足音をさせずにその場を去った。
呆然と意識のない婚約者を眺める。
瞼が透けるほど白い。
青く、細い血管が浮いて見える。
右の耳の下に血液を拭いたような跡が残っていて、よく見ると周りの髪の毛にもこびりついたまま残っている小さな赤黒い血の塊があった。
急激に襲いかかってきた恐怖で膝が震えた。
場合によってはミレイユは死んでいたかもしれない。
怪我など慣れている軍人の端くれだが、親しい人の横たわる姿に打ちひしがれる。
いつも真綿で包むように大切に扱ってきた恋人なら、尚更だった。
ひとつの傷も痛みも負ってほしくなかった。
静まり返った部屋で、呼吸音が全く聞こえないことに気づく。
うそだろ、と、震える右手をこわごわ口元に当てると、微かに温かな空気の流れを感じた。
全身の力が抜けた。
生きている。
よかった。
膝が抜けてそのままへたり込む。
それでも視線はミレイユから離せなくて、床に座ったまま胸の辺りの掛布が本のわずかに上下しているのを、延々と確かめ続けた。
いくつかの足音と話し声が聞こえて、ロジェは扉の辺りを見やった。
侍女長が部下の女性を男と二人きりにするはずはない。
半分以上開けられたドアの向こうから、老齢のウエストコート姿の男性が、伯爵とミレイユの兄と共に厳しい表情で入ってきた。
ミレイユの四つ上の兄ユリスは、法務省で審議官をしている。
ユリスは座り込んだロジェに軽く目を見張って、力無く笑った。
「せめて椅子に座ったらどうだ」
そう言い、先ほど侍女長が使っていた丸椅子を置いてくれる。
「患者より青い顔をしているな。倒れられても支えられん。座ると良い」
男性は医師なのだろう。
言われた通りのそのそと座った。
「目は覚めないかね?」
はい、とロジェは答えるが、それを聞かないうちから医師はミレイユの瞼を触る。
「運び込まれてすぐに一度目を開けた。今は脳震盪で眠っているのだろうと思うが、目が覚めなければ全身麻酔の吸引薬は使えない。頭の怪我で意識をなくしているのか、麻酔が効きすぎて目覚めないのか判別できないからだ」
「全身麻酔が必要な処置があるということですか」
伯爵の問いに医師は頷く。
「右腕の骨折は角度が悪い。早めに整復術が必要だ。そこの彼のような軍人なら無麻酔で施術することもあるが、令嬢相手にそんな無体はできないさ」
ロジェはさらに顔色を悪くする。
無麻酔の骨折整復は大の男も悶絶する痛さだ。
「後は肋骨に数箇所の骨折と、右の肩甲骨の打ち身はひどそうだ。だがそのくらいで済んだのは奇跡だと思うね。あの高さから最後まで落ちていたら、私なら死んでいた。途中で抱き込んで一緒に落ちてくれたという男性にはよくよくお礼を言うと良い」
医師は続ける。
「君の同僚ではないかな?受け身がうまかったのか、彼は肘の打撲と背中の擦過傷の処置だけで帰っていったよ」
月のものが来たのだわ、と、柔らかな毛布にくるまりミレイユは思った。
この頭の痛みと、泥の中にいるような重いだるさは、間違いない。
この状態の時はいくら寝ても眠たいものだ。
倦怠感に抗えず、体は深くベッドに沈む。
何人もの声が通り過ぎて、顔に触れられる感覚に、うっすらと意識が浮上した。
眠っていたと思っていたけれど、周りの音はずっと聞こえていた。
浅い眠りの感覚に、では昼寝だったのか、と思い直す。
ん、と、違和感を感じる。
「おお、起きたかな。お嬢さん、わかるかい」
視界に入ってきた男性の顔に、見覚えはなかった。
「私が見えるかい?」
はい、と言ったが声は出ない。
状況がわからなくて起きあがろうとすると、全身に声にならない痛みが走る。
「…っ!」
深く息を吸い込もうともがくが、それすらも強い刺激になって目の前の光がチカチカした。
特に右の肩から下が、火が付いているように熱く痛む。
痛みで意識が薄れる。
「まだ動かない方がいい。君は階段から落ちたんだ。おぼえているかい?」
ああ、そうだ。
その時の記憶が戻ってきて、ミレイユは瞼を閉じた。
深く絶望して、あの瞬間だけ全てを諦めたけど、決して死にたいと思ったわけではなかった。
「ミレイユ、ミレイユ、目を開けて」
父の声か兄の声かわからない。どちらにしてもあまりに切実で、またゆっくり目を開ける。
枕元には父も兄もいて、結局どちらかわからなかったけど、二人を見ようと頭を動かすと、それだけでまた激しく体が痛んだ。
「全身を強く打ち付けているが、そちらはあまり心配いらない。お嬢さん、私の指が見えるかな」
この男性はお医者様なんだわ、と、やっと理解する。
「はい」
今度は声が出た。
だが、息を吸うとまた全身が痛い。
「私、死にますか」
医師は苦笑して首を振った。
「多分大丈夫だよ」
多分なんだ、と、少しおかしく感じて笑おうとすると、今までで一番の痛みに呻く。
「肋骨が折れている。息を吸う時は小さく、ゆっくり」
その通りに浅い呼吸をすると、ようやく空気が入ってくる感じがして安堵した。
「追視も問題なさそうだし、会話も成立する。目の見え方は変わりないかな」
確かめるように目の動きだけで周りを見ると、父と、兄と、医師がいて、その次に、ずっと会いたかったロジェの姿が見えた。
「…ロジェ」
身を乗り出してこちらを凝視していたロジェは、堪え切れないように目元に両手を当てて「よかった」と小さく口にした。
そこからは、また意識がまだらだった。
何やら難しい説明をされた気がするし、痛みを感じない麻酔をする、と言われたはずなのに、すごくすごく痛い。
話が違うと苦情を言おうと目を開けたら、母の泣き顔と兄の弱り切った顔があって、骨折をしていた右腕の処置が終わったことを知らされて、また少し眠った。
父と兄は待合の部屋で休んだようで、母はとてもじゃないけど眠れないわ、とずっと枕元で顔を撫でてくれていて、子供に戻ったような気分でその感覚に甘えていた。
ロジェは処置の時に追い出されて、しばらく部屋の外で粘っていたが、治療が終わったと聞いた後にしぶしぶ隊舎へ戻っていったと言う。
もう会いたくないな、と思って、そんな気持ちと一緒に、あんなに会いたかったのにな、と詰所に向かう前の気持ちも思い出して、胸が詰まった。
うきうき回廊を歩いていた自分が惨めだった。
知らず流れていた涙を、母の指が掬う。
「ミレイユ、痛むの?」
ミレイユは小さく「大丈夫よ」と言った。
夢現の娘を、母が案じているのが伝わってきて、無理やり考えるのをやめた。
今ロジェを思い出すと、どうしたって泣いてしまうのは分かりきっていた。
◇ ◇ ◇
足取り重く隊舎へ戻り、自分の部屋の前でため息が漏れる。
女性隊舎は小綺麗で部屋の鍵もしっかりしているようだが、男性隊舎の鍵は何度も壊れているのか後付けの簡易な作りで、カチ、と極々軽い音がしてすぐに開く。
入り口横にある洗面台でざっと顔を洗う。
部屋は暗いが灯りを付ける気にもなれず、訓練用の制服のジャケットを脱いで備え付けのテーブルセットの椅子に適当に掛けた。
雲間から月が出たのか、窓からわずかに青白い光が入り、ロジェの体はそこで凍った。
ベッドの上で、ディオンが腰掛けてこちらを見ていた。
「ナディアじゃなくて悪かったな」
月明かりがディオンの横顔を薄く照らす。
青い瞳がますます青くて、ロジェはごくりと息を呑んだ。
組んだ両手に乗せた顔は、冷たい。
「ミレイユはどうなった?目が覚めたか?」
友人に気後れした自分を恥じて、ロジェは大仰にため息を吐きジャケットをかけた椅子にどさりと座った。
「心臓が止まるかと思った」
「止まらなくて残念だったな」
ディオンの言葉の棘に眉が寄る。
何をしに来たのかはわかっていた。
「目が覚めて、腕の骨折の処置を受けて、また眠ったところで帰されたよ」
ふう、と、息を吐いたディオンは先ほどのロジェと同じように両手で目元を覆う。
常に軽い雰囲気の男の、思い詰めた様子が意外だった。
「……ディオンが助けてくれたのか」
これは、ただの確認だった。
ディオンは冷笑する。
「助けたとは言えないけどな。もう少しそばにいればよかった。頭から流れた血が多くて、本当に死んでしまうかと思った」
決して追いつけないわけではなかった。
激走する侍女と、追いかける近衛兵に、注目が集まるを避けるために距離を置いていたのが仇となった。
ディオンがミレイユに触れられたのは、二階部分から落ちてきた彼女が、階段の半ばで一度体を打ちつけた後だった。
夢中で抱え込み、二人で重なるように一番下まで落ちた。
起き上がったディオンがミレイユを確認すると、茫洋とした眼がディオンの顔を映し、寝入るように閉じた。
頭の下からじわりと床に血が滲み、慄く手で必死に後頭部の傷口を押さえた。
誰かが差し出してくれたハンカチを当てたが、すぐに赤く染まった。
あとは、あまり覚えていない。
医師が来て、ミレイユを診ている間も、その手は彼女の傷を押さえ続けた。
いつの間にか出血は止まっていて、医師が傷口を確認し、ガーゼを当てて、数人で担架に乗せた。
医務局のベッドに移した時、ミレイユの瞼が開いて、どれだけ安堵したか知れない。
心底から神に感謝した。
「ディオンがいなかったら死んでいたかもしれないと、医師に言われた。君のおかげでミレイユは助かった。本当にありがとう」
本心からの謝意だったが、ディオンは鼻を鳴らして笑った。
「ロジェにとってはミレイユが死んでいた方が良かったのかな」
「なに」
瞬時に殺気が起こる。
言われたことを理解する前に、体が動いていた。
暗い顔の友人の胸ぐらを掴み上げ、下から睨みつける。
「お前、何を言ったか分かってるのか」
低い声にもディオンは揺るがない。
凪いだ海のような静かな瞳でロジェを見下ろす。
「面倒な結婚をやめられて、いつでもやらせてくれる気兼ねしない浮気相手と一緒になれるもんな。ああ、そうか。領地に連れて帰るなら、同じ騎士の方が都合もいいかもな」
「は」
「心変わりしたなら早めに手放してやれよ。痛々しいんだよ。裏切られているとも知らないで、いじらしくお前を慕うミレイユをもう見ていられない」
ディオンを吊り上げる腕が怒りで震える。
「何も知らないくせに随分偉そうだな」
「浮気者の何を分かれって言うんだよ」
「お前だって散々遊んでるだろう」
はは、と、嘲るようにディオンは笑う。
「一途なふりして一年も同僚と浮気する男と、後腐れない女ばかり選んで遊ぶ男、どっちもクズだよな」
く、と、喉が鳴る。
最初からバレていたことに今まで気づかなかった。
「いらないなら俺にくれよ」
振り上げた右手をディオンは止めなかった。
ゴ、と鈍い音が鳴り、ディオンがベッドに倒れ込む。
拳がじんじんと熱くなるが、気にならなかった。
ディオンは倒れ込んだまま顔も上げない。
罰を受け入れているかのような様子に、焦りが湧く。
最近、ディオンの遊ぶ話を聞かなくなった。
艶やかな女性を釣り上げるように出かけていた夜会も、参加している様子はない。
まさか、と、予感に身震いする。
ディオンはベッドに投げ出されたまま天を仰いだ。
「あんなところで盛ってるとはな」
「……」
「いちゃついてるところでも見せられたらいいかと思っていたが、想像以上で慌てたよ」
「お前…」
「あそこでするのも初めてじゃなさそうだったな。危機管理はしろよ。婚約者に浮気現場押さえられて、どうしようもないな」
決定的な言葉に全身が大きく揺れた。
隊舎の食堂の時から、もしかしたらと思っていた。
近付かないよう言い聞かせていたミレイユが、詰所に来たこと。
ディオンと共に自分を探しに向かったこと。
会えなかったと戻って来たこと。
ナディアといるのでは、と言われたこと。
すべての符号が向いていたのに、確信するのが恐ろしくて仕方なかった。
「武器庫に来たのか」
掠れた声にディオンはまた笑う。
「行ったな。本人に聞けばいいだろ、どこまで聞いた?って。ミレイユが許しても俺は退く気は無いけどな」
ベッドから起き上がり、ディオンは去り際に、打ちのめされているロジェをさらに追い詰める。
「知り合い程度の俺は病室に入ることもできなかったよ。お前の婚約者特権はいつまで使えるかな」
近衛騎兵+近衛歩兵=近衛兵
騎士は騎兵の中で、統率する立場にある上官と言う組織です(騎士も騎兵の一部)




