ドーナツ 〈過去編 その2〉
「シェイネさん!」
明るく大きなスタイレーンの声が響く。
シェイネは小さな手のひらをその胸に当てて息を整えた。
声を聞いただけでこんなにもときめいてしまう。
毎日だって顔を見たいと思ってしまう。
いけないことね。
だって彼は、
人間なのだから。
スタイレーンはシェイネの家の前でシェイネが扉を開けてくれるのを待っていた。
手には色とりどりの綺麗な砂糖菓子。
周りみんなに聞いて回った所、『女はとにかく甘いものが好き』だと言うことだった。
あとは『可愛く綺麗なものが好き』だとか。
これで彼女の笑顔が、見れるならば毎日でも···。
そう顔をほころばせていたところに扉が開いた。
「こんにちわ、スタイレーン様。わざわざお越しいただきましてありがとうございます」
シェイネはいつものように静かに微笑みつつスタイレーンを出迎えた。その足元にはヨーンが絡みつき、スタイレーンを見上げている。
スタイレーンは用意していた言葉がボロボロと崩れていくように感じた。
シェイネの顔を見るだけで心は弾み、空にまでも舞い上がる。
「あ、あの、先日おっしゃっていた橋ですが、補強することに決まりまして、そのご報告にあがりました!」
あぁ、これは、もっと後で落ちついてから言うべき言葉。
スタイレーンはがっくりとする。
だって、この報告を建前にここに来ているのだから。
報告をしてしまったら表向きの用向きがなくなってしまう···。
シェイネは、コテ、と首を傾げ、そして体を引いた。
「もしもお時間おありでしたらお上がりになってくださいまし。このような郊外まで、わざわざ起こしいただいたのですから···」
スタイレーンは顔を輝かせる。
「はい!いいですか?忙しくないですか?俺
は···俺は今日すごく暇なんです!」
スタイレーンは、暇さえあればシェイネの家に向かい、ヨーンに睨まれつつも家にあがりこんだ。
スタイレーンは自分の育った街を愛していた。人々は優しく暖かく、スタイレーンが身を呈して守るべき価値のある存在であった。
シェイネもまた、移り住んだこの地を大切にしてくれているようだった。
そこに長く住むものは気にもかけない違和感を感じ取り、橋の老朽、森境いの柵、用水路の流れや田畑の整備など、たまにスタイレーンが驚くほどの知識を披露し改善を促す。
二人はそうして、周りを守り慈しみつつ、お互いの距離を縮めていった。
ある日、スタイレーンはごほんと咳払いをし、両手をぐっ、とこぶしに握りしめシェイネに向き直った。
シェイネはスタイレーンの話す、街の子供たちのやり取りを聞いて、涙を浮かべるほど笑った所だった。
お茶を入れ直そうとテーブルに伸ばした手を、スタイレーンがそっと掴む。
「?」
シェイネはスタイレーンを見やった。
「俺の···名は、ジャンと言います。そう···呼んでください」
スタイレーンから見て優しく温かいこの街も、外から来たシェイネから見ると保守的で頑なであった。一人移り住むシェイネを、気にかけるものも少なかった。
シェイネは当初の予定通り、一人静かにすごしていたのである。
が、毎日のようにスタイレーンが訪れるようになり、その人柄のお陰でシェイネは街の人々に受け入れられるようになっていった。
当然、噂なども耳に入るようになる。
たとえば、人望厚い街の警ら隊隊長は、街を収める男爵の、その一人娘との結婚が囁かれている、とか。
シェイネはスタイレーンにその手を包まれたまま固まってしまう。
「よ、よ、よろしければ、貴女の···お名前も···」
まるで粉砂糖で出来ているかのように、そっと、崩れないように、シェイネの手を持つスタイレーンの顔を、シェイネは見つめた。
「貴方は···。いけません。私には何の価値もございません」
す、と、自分の手を引っ込めるシェイネに、スタイレーンはそれ以上無理強いはしなかった。
「今度···一緒に街へ行きませんか」
硬い拳を両の膝に置きスタイレーンはそう言った。
「お一人では、運べない重い大きなものも、入り用だったりするでしょう」
シェイネは首を振る。
「いけません。二人並んで歩き、万が一男爵の不興を買えば···。貴方に迷惑をかけるわけには参りません」
スタイレーンは目を眇める。
「男爵?何か、思い違いがあるようですね。俺は貴女と並んで歩き、それを人に見られて困ることなど一つもありません。毎日だって見せびらかしたい···」
スタイレーンの熱に押される形で、二人は街へ出かけることとなる。
約束の日、スタイレーンは日の明ける前から目を覚まし、そわそわとし始め、鳥が歌い始める頃にはもう家を出ていた。
街を歩き、ゴミを拾い、石を端に避け、万が一にも彼女が足を取られてしまうことのないように、隅々まで点検をする。
やがて早い店が開き始める。
「おやまぁ、隊長さん。今日は見回りかい?ずいぶん早いこったね」
スタイレーンは笑顔で挨拶をする。
「おはよう!今日はいつもより倍はいい商売をしてくれよ!あとでまた、来るから!」
そうしてスキップで、元気な隊長は森の方へ向かっていく。
一緒にこうして街を歩くと、スタイレーンの人望の厚さが目に見えてわかる。
シェイネは、街の人と仲睦まじく言葉を交わすスタイレーンを、微笑ましく見守っていた。
「シェイネさん、こちらに」
スタイレーンが遠慮がちにシェイネの手を引き、大通りから一つ入った路地の小さなお店の前まで案内する。
「ここの揚げ菓子がうまいんです」
そう言うと二つ注文し、一つをシェイネの顔の前に出す。
「でも熱い。気をつけてください」
シェイネがきちんと受け取るまで、スタイレーンはきっちりと揚げ菓子を持っていた。
シェイネが受け取った揚げ菓子は、ちょうどシェイネが持つ部分が包みが重なる形で、持っても熱くはなかった。
だが、スタイレーンが持っていた場所は包み紙が薄く、熱かったことだろう。
シェイネはスタイレーンの指の先をじっと見る。
スタイレーンはそんなことには気づかずに、ぱくっと菓子を頬張る。
「ん、うまい」
ほくほく、と、笑いながら食べるスタイレーンを見つめつつ、シェイネも揚げ菓子を口にした。
「どうですか?」
スタイレーンが、そっと聞く。
「とても···暖かいですわ」
それは良かった、と、にっこり笑ったスタイレーンの手を、シェイネがそっと両手で包んだ。
スタイレーンは目を見開き固まった。
なぜか通りの左右を見やって確認するスタイレーンに苦笑しつつシェイネはふぅ、と力を込める。
一瞬紫の風が舞い上がったように感じた。
スタイレーンは目をパチパチとした。
なんだ今のは?
その時大通りの時計塔が大きな鐘を鳴らすのが聞こえてきた。
「あの音は?」
シェイネが聞くので、スタイレーンは気を取り直し、再びシェイネを連れて街を案内し始めた。
次回12月12日公開予定です