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7/7

1 薔薇

 目を覚ますと、まだ薄暗い天井が視界に入った。


 時計を見ると、まだ6時だった。

 いつもなら二度寝する時間だったけれど、今日はなぜか目が冴えていた。


 布団から右手を出す。


 天井に向かってまっすぐ伸ばすと、“1”の花数字が目に入った。


「薔薇……」


 ぼんやりと、それを見つめる。


 今日で最後。

 明日になれば、葵葉はいない。

 そう考えると変な感じだった。

 たった一週間しか会っていないのに、毎日顔を合わせるのが当たり前になっていたからだ。


 私は小さく息を吐くと、くるまるように布団へ戻った。

 そして目覚ましが鳴るまで、ただじっとしていた。


 支度を済ませ、家を出る。

 冬の朝の空気は冷たい。


 だからだろうか。

 少しでも温まろうとするみたいに、海へ続く道を歩く足は自然と速くなっていた。


 いつもの場所に着くと、葵葉はもう来ていた。

 黄色い防波堤に腰を下ろし、じっと海と朝日を眺めている。


「おはよう」


「おはよう、ミト」


 葵葉はゆっくり振り返ると笑った。

 まるで、今日が最後だなんて気にしていないみたいに。

 いつもと変わらない、頬にえくぼを作る笑顔だった。


「で、本当に絵しりとりするのか?」


「もちろん!」


 葵葉はそう言うと、防波堤から飛び降りた。

 そして靴の先で砂浜を指す。


「負けないからね」


「勝負なのか?」


「勝負でしょ!」


 葵葉は当然みたいに言った。


「どっちかが何描いたか分からなかったら負けね。一発勝負!」


 そう言うなり、葵葉は私の返事も待たずに砂浜へ駆けていく。


 その背中を見ながら、私は少しだけ足を止めた。

 明日になれば、この背中を見ることもなくなる。

 ――だからだろうか。

 つい、その背中を目に焼き付けようとしていた。


「ミトー!早く!」


 振り返った葵葉が大きく手を振る。

 初めて会った日と同じように。


「分かったよ」


 私は小さく笑う。


 そして、初めて会った時とは違い、私からも手を振り返して、その後を追いかけた。


「ここら辺でいいかな」


 葵葉が波際より少しだけ離れたところにしゃがみ込んだのでその隣に座る。


「どっちから描く?じゃんけんで決める?」


「じゃんけんでいいんじゃない」


「はーい。じゃー、最初はグー、じゃんけんぽん!」


「私からか」


「絵しりとりの“り”からスタートね」


「り、か」


 私は指先で砂をなぞる。

 丸を描き、その上に短い線を一本付け足した。


「りんごだ。簡単すぎない?」


「最初だからな」


「じゃあ、次は“ご”だね」


 葵葉は嬉しそうに砂へ指を伸ばした。


「ゴマか。人のこと言えないじゃん」


「ふふ、最初だからね」


 葵葉は私の言い方を真似するようにそう言うと、得意げに口角を上げた。


 マスク、栗、リス、スイカ、柿、きのこ。


 しばらくの間、そんな簡単な絵ばかりが並んでいく。


「……簡単すぎない?」


「パッと思いつくのがそれなんだもん」


「まあな」


「ミトも簡単なのしか描いてないじゃん」


「葵葉もだろ」


「んー、じゃーお題を決めよう。難しそうなの……生物で!」


「生物で“ま”か」


 私は少し考えてから砂に線を描いた。


「マンボウ」


「正解」


 葵葉は頷くと、今度は自分の番だと言わんばかりに砂へ指を走らせる。


「できた」


「……ウサギ?」


「正解!」


「“ぎ”?“き”でもいい?」


「だめ!」


「厳しいな」


「勝負だからね」


 “ぎ”……“ぎ”から始まる生物。


「あっ」


 思いついて、ヒレを描く。


「……魚?」


「そう」


「ギから始まる魚……何それ」


 葵葉はしばらく考え込んだが分からなかったらしい。


「ギギ」


「何それ」


「魚」


「知らないんだけど!?」


 その反応に思わず笑ってしまう。

 まるで昔の自分を見ているみたいだった。


「私も父さんに教えてもらったんだ」


「へー」


「父さんとも生物縛りの絵しりとりをやったことがあってさ」


「うん」


「“ぎ”で父さんを負かそうとしたら、“ぎ”で終わる生き物をわざと出してきたんだよ」


「おおー、性格悪っ」


「だろ?」


 私が笑うと、葵葉もつられて笑った。


「それで、“ぎ”から始まる生き物が思いつかなくて負けたな」


 あまりにも悔しかったので、私もやり返そうと思って家でギギの絵を練習したものだ。


「じゃ、葵葉の負けだな」


「あっ」


 葵葉は固まった。


「ほんとだ」


「今さら気づいたか」


「ギギなんて知らないもん」


「分からなかったら負けなんだろ?」


「うっ……でも、似てなかったら分からないじゃん」


「それもそうか」


 私は携帯を取り出して「ギギ」と検索する。

 画像を表示して葵葉に見せた。


「これ」


「……似てる」


「なら、私の勝ちでいいな」


「……知らない生き物はなしとか」


「だめ」


「厳しい」


「勝負だからな」


「うっ」


 葵葉は悔しそうに顔を顰めると指を一本立てた。


「もう一回!」


「一発勝負じゃないの?」


「もう一回!」


「往生際が悪いな」


「今のはノーカウント」


「どこがだよ」


「ギギなんて反則だから」


「反則じゃない」


「反則だよ」


 葵葉は納得いかないという顔で唇を尖らせた。


「じゃあ次は僕からね」


「聞いてないんだけど」


「勝った人が譲るものです」


「そんなルールないだろ」


「今、作った」


 葵葉の負けず嫌いさに私は笑ってしまう。


「わかったよ。あと、一回な」


「やった!」


 葵葉は満面の笑みを浮かべる。


「今度こそ勝つから!今度は本気」


「今までは違ったのか?」


「準備運動」


「便利な言葉だな」


 葵葉は得意げに笑った。


 2回戦目も生物縛りになった。


「じゃあ最初は僕からね」


 葵葉はそう言うと、すぐに砂へ指を走らせた。


 それからしばらく、絵しりとりは続いた。

 スズメ、メダカ、カモメ、メジロ。

 最初は簡単な生き物ばかりだったが、だんだんと難しくなっていく。


 気づけば、砂浜にはたくさんの生き物たちが並んでいた。

 魚や鳥や虫。

 上手い絵もあれば、何を描いたのかギリギリ分かる絵もある。


 そして最後は、私が葵葉の描いた絵を当てられずに終わった。


「よしっ!」


 葵葉は両手を上げる。


「勝ったー!」


 嬉しそうにはしゃぐ姿に、思わず笑ってしまう。


 悔しかったが、その笑顔を見ているだけで、負けたことなんてどうでもよくなっていた。


 こうして、2回戦目は葵葉の勝ちで終わったのだった。


 葵葉は満足したように腕を空へと伸ばして立ち上がった。


「はー、楽しかった」


「だな」


 葵葉は空を見上げた後に、じっと私の顔を見つめてきた。


「何だよ」


「んー」


「頭使って疲れたから、目の保養中」


「は?」


「ミトって、イケメンだよね」


「私が?」


「うん。僕はどう?」


「何が」


「かわいい?」


「……かわいいんじゃないか」


「ほんと?」


 葵葉の顔がぱっと明るくなる。


「うん」


「やった」


 葵葉は満足そうに笑った。


「ミトに褒められた」


「そんなに嬉しいのか」


「嬉しいよ」


 そう言うと、葵葉は少しだけ照れたように頬を掻いた。


「だって、ミトってあんまりそういうこと言わないし」


「そうか?」


「そうだよ。かわいいって言われて嬉しい」


 葵葉はそう言って笑った。


 その反応から目を逸らすように、私は手についた砂を払って立ち上がった。

 そして葵葉に手を差し出す。


「ありがとう」


 葵葉は小さく笑うと、その手を掴んだ。


 白くて細い。

 思ったよりも小さな手だった。


 葵葉は立ち上がると、自分の手と見比べるように手のひらへ視線を落とした。


「手、大きいね」


「そうか?」


「うん」


 葵葉は自分の手を開いた。

 私も手を伸ばし、その手にそっと合わせる。


「ほらっ、僕より全然大きい」


「ほんとだ」


「でしょ?」


 手の温もりがそっと離れる。

 それが少し名残惜しく感じた。


「さてと」


 葵葉はくるりと背を向けた。


「じゃあ、ぶらぶらしようか」


 葵葉は波打ち際に沿って歩き出した。

 冬の風が黒い髪を揺らす。

 私も少し遅れて歩き出す。

 そして自然と、その隣へ並んだ。


「楽しいと時間経つの早いなー」


「そうだな」


 その返事が嬉しかったのか、葵葉は少し笑った。


「ミトも楽しかった?」


「ああ」


「よかった」


 葵葉はほっとしたように笑う。


「この一週間、あっという間だったな」


 始めは長いと思っていた。

 でも、気づけば今日で最後だった。


「葵葉はさ」


「ん?」


「この一週間で、なにが一番楽しかったんだ?」


「えー、なんだろう……迷うな。海は綺麗だし、ご飯は美味しかったし、色々と体験できて面白かったし……」


 葵葉は少し考え込む。


「でも」


 くるりとこちらを振り返る


「1番は、ここで絵しりとりしたことかな」


「絵しりとり?」


「うん」


 葵葉は笑う。


「僕、海でやってみたかったんだ。だから、それが叶って嬉しい」


 後ろ向きで歩く葵葉は両手を後ろで組むと、再び前を向いて歩き出した。


「そっか」


 私は短く返す。


「ミトは?」


「え?」


「1番楽しかったこと」


 1番。

 そう言われて浮かんだのは、私も同じだった


「私も、絵しりとりかな」


「だよね」


 葵葉は嬉しそうに笑った。


 それからもしばらく、私たちは海沿いを歩きながら話をした。


 他愛もない話ばかりだった。

 けれど、不思議と退屈ではなかった。

 むしろ、そんな時間がずっと続けばいいとさえ思った。


「あっ」


 不意に葵葉が足を止めた。


「もうこんな時間だ」


 葵葉の視線を追う。


 防波堤の時計は、もう13時を過ぎていた。


「早いな」


 葵葉は寂しそうに笑った。


「ほんと、あっという間だ」


 葵葉は時計から目を離すと、少しだけ目を細めた。


「……行こっか」


「もう、行くのか?」


「うん」


 葵葉は一度だけ海を振り返った。


「戻ろっか」


「……ああ」


 二人で海から道路の方へ向かう。


 さっきまで途切れなかった会話は、いつの間にか少なくなっていた。


 言いたいことはあるはずなのに、何を言えばいいのか分からない。


「ミト」


「ん?」


「コートありがとう」


 葵葉は貸していた青いコートを脱ぐと、私に差し出した。


「助かった」


「ならよかった」


 コートを受け取る。


 たったそれだけのことなのに、本当にこれで最後なんだと実感してしまった。


「一週間、ありがとうね。ミトのおかげで毎日が楽しかった」


「私の方こそ、ありがとう。楽しかった」


「ほんと?」


「ああ」


「そっか」


 葵葉は少しだけ目を細めた。


「なら、来てよかった」


 葵葉はエクボを作った笑みを浮かべると片手を上げた。


「それじゃー、またね」


「……ああ、またな」


 葵葉は笑って手を振った。


 私もそっと振り返す。


 その姿が遠ざかっていく。


 呼び止めたいと思った。

 もう少しだけ話したいと思った。

 けれど、何も言えなかった。


 やがて葵葉の姿は見えなくなる。

 それでも私は、しばらくその場から動けなかった。


 冬の風だけが静かに吹いていた。


 ふと右手を見る。

 そこには、まだ“1”の花数字が残っていた。

 私はそっと指先でそれに触れた。


「……またな」


 誰に聞かせるでもなく呟く。


 波の音だけが返事の代わりに響いた。

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