4 ストロベリーキャンドル
名鉄線の電車に揺られ、私たちは最寄駅を出発した。
車窓の外では、冬枯れの畑と住宅の屋根がゆっくりと流れていく。
窓の外は白く曇り、街の輪郭がぼんやりと滲んでいた。
隣の葵葉は何も言わず、ただ流れる景色をじっと目で追っている。
その横顔は、どこか遠くを見ているようだった。
昨日の別れ際、葵葉に一つ頼み事をされた。
『僕、行ってみたい場所があるんだ。もし空いてる日があったら、連れて行ってくれないかな』
『どこに?』
『ここ』
葵葉が指差したのは、貼り出されていたポスターだった。
そこには“モネ展”と題された、美術館の展示会の案内が載っていた。
『展覧会に行ったことないから、行ってみたい』
私はもう一度ポスターを見上げ、少し考えてから言った。
『なら、明日行ってみる?』
『え、いいの?』
冬休みは祖父母の家でゆっくり過ごすつもりだったから、特に予定も入れていなかった。
明日も暇だし、行ってみてもいいかもしれない。
『いいよ』
私はそう答えた。
――そんなやり取りがあって、今こうして電車に揺られている。
電車の中は静かだった。
つり革が揺れる音と、車輪の小さなきしみだけが響いている。
やがて車内は少しずつ賑やかになっていった。
「あれ?」
葵葉が、乗り込んできた学生たちの方を見て首を傾げる。
「どうしたの?」
「今って冬休みなんじゃないの?」
「そうだよ」
「じゃあ、なんで制服着とるの?」
「部活に行くんだら」
「ああ、そういうこと」
制服姿の学生が増え、笑い声が車両に広がっていく。
私たちは窓の外を見つめたまま、その音を静かに聞いていた。
電車を一度乗り換えると、やがて降りる駅のアナウンスが流れた。
「次で降りるよ」
「はーい」
目的の駅に電車が止まると、葵葉が先に立ち上がった。
その背を追うように、私も車両を降りた。
「こっから二十分くらい歩くよ」
「分かった」
葵葉が後ろについてきているのを確認して、私は歩き出した。
「ミトは展覧会とか行ったことある?」
「あるけど、中学が最後だな。高校生になってからは初めてだ」
「これから行くところも、行ったことがあるの?」
「そこはないな」
今から向かうところは、かつて父さんと行こうと約束していた場所だった。
あのときは、いつでも行けると思っていた。
けれど間もなく父さんが倒れ、その約束は結局叶わなかった。
だから、私にとっても初めての場所だ。
駅前の道を抜け、ゆるやかな坂を登っていく。
街の音が、少しずつ遠ざかっていった。
坂を登りきると、視界がひらけ、その先に白い建物が静かに姿を現した。
低く水平に伸びた屋根と、余計な装飾のないまっすぐな壁が、広い空間の中で静かな輪郭を形づくっている。
建物の前には浅い水盤が広がり、空と建物をそのまま映し込んでいた。
揺れる水面に光が反射し、白い壁を淡く照らしている。
差し込んだ陽の光が水面に跳ね返り、そのあまりの美しさに思わず足を止めた。
それは葵葉も同じだった。
「……綺麗。建物そのものがアートみたいだ」
私たちは周囲を見渡しながら、もう一度歩き出した。
こんなふうにキョロキョロしながら歩いているのは、たぶん私たちくらいだろう。
まあ、人も少ないし気にしないが。
入口をくぐると、少し列のできている受付でチケットを買った。
葵葉にチケットを渡すと、子どものように嬉しそうな顔をした。
そこに描かれたモネの絵を指でなぞりながら、「楽しみ」と呟く。
その声は小さいのに、やけに澄んで聞こえた。
中は白い壁が続き、やわらかな光に照らされていた。
静かな空間で、空気まで息をひそめているようだった。
天井から落ちる淡い光が、床の上でかすかに揺れている。
その中を歩く葵葉の姿が、一瞬だけ儚く見えた。
案内に沿って進むと、“睡蓮とモネ”の文字が描かれた壁に行き当たる。
そこでチケットを見せ、私たちは展示室へ入った。
中は先ほどまでと違って、人の姿が一気に増えていた。
観覧客たちはそれぞれクロード・モネの絵に見入り、静かに鑑賞している。
展示室の係員たちは壁際に立ち、その様子を見守っていた。
「すごい……」
葵葉が入口のそばで感嘆の声を漏らした。
私は立ち止まっていた彼の肩を軽く引く。
後ろに人が来ていたのだ。
「あ、ごめん。ミト、ありがとう」
「ああ」
葵葉が手を離すと、私たちは一つ目の作品の前に立った。
そばのパネルには、この展示の説明が書かれている。
“印象派を代表する画家、クロード・モネ(1840–1926)の晩年の制作に焦点を当てた展覧会で、日本初公開の作品を含むおよそ五十点が来日している”
印象派とは、光や空気の変化をそのまま絵にとどめようとした画家たちの流れのことだ。
モネはその中心的な存在で、水面や空に映る光を何度も描き続けたことで知られている。
印象派という名前も、モネの作品から生まれたと言われている。
解説によると、モネは四十歳を過ぎてジヴェルニーに移り住み、そこで終の棲家を構えたという。
彼は自ら庭を造り、その景色を題材にして数多くの作品を描いた。
なかでも後半生をかけて描き続けたのが、睡蓮の花が咲く池だったらしい。
同じ池を、季節や時間ごとに違う光の中で何度も描き続けていたと書かれていた。
この展覧会では、睡蓮を描いた作品が多く展示されていた。
水面に浮かぶ花や、そのまわりに広がる光の色が、それぞれ違った表情で描かれている。
ほかにも藤や柳をモチーフにした作品が並び、庭の景色を見つめ続けていた画家の視線が感じられた。
モネの作品が並ぶ展示室の中を、私たちはゆっくり順路に沿って進んでいった。
周囲では観覧客たちが静かに足を止め、それぞれの絵をじっと見つめている。
順路を進むと、やがて視界のひらけた展示室に出た。
そこには八枚の絵が並び、どれも睡蓮が描かれていた。
作品の横にあるキャプションには、
“二年間でモネは約二十点、ほぼ同じ構図の睡蓮の池を描きました”
と書かれている。
それを読んでいると、裾を引かれた。
「ミト、写真は撮っていいみたいだよ」
「え?」
「動画はダメだけどね」
葵葉の指差す先には、「撮影可」と書かれた看板を持つ係員が立っていた。
辺りを見渡すと、確かにスマートフォンを構えている人たちが多い。
どうやら、この展示室だけ撮影が許されているらしい。
貴重な作品の写真を手元に残せるなんて……なんと贅沢なことだろうか。
私はポケットのスマートフォンに一度視線を落とした。
それに気づいた葵葉が、少し身を乗り出すようにして顔を覗き込んでくる。
「撮る?」
そう言われ、私は小さく頷いた。
「撮る」
私はスマートフォンを取り出し、最初の一枚にカメラを向けた。
近づいて睡蓮の花を映し、今度は少し下がって絵全体も収める。
そうして一枚ずつ写真を撮りながら、ゆっくり順路を進んでいく。
色鮮やかで儚いものもあれば、少し不穏で影の深いものもある。
実際に作品を見ても、レンズ越しに眺めても、同じモチーフを描いた絵だとは到底思えなかった。
同じ場所でも、光の当たり方が違うだけで、こんなにも色や雰囲気が変わるのか。
モネにとって、この場所は毎回違う光景に見えていたのだろうか。
「面白いな」
私にも、そう思える場所が見つかるだろうか。
これほど心を動かされる場所に出会えたなら、それはどれほど幸運なことだろう。
私はモネのことが、少し羨ましく思えた。
ふと、葵葉のほうを見る。
彼は私よりも先の睡蓮の作品の前に立っていた。
少し離れた場所から、じっとその大作を見つめている。
それからは、お互いに言葉も交わさず、それぞれの絵を見て回った。
私は七点の作品を見終えると、最後の作品の前に立っていた葵葉の横に並んだ。
それに気づいた葵葉は、一瞬だけ私に視線を寄越す。
「ミト。これ、全部同じモチーフなんだって」
「ああ。まるで別の光景を見ているみたいだな」
「そうだね」
葵葉はしばらく絵を見つめたあと、ぽつりと呟いた。
「僕がこの景色を見たら、どう描いてたんだろう……」
その言葉を聞いて、私も同じことを思った。
もし私がこの景色を目の前にしたら、どんなふうに描いただろうか。
「どうなんだろうな。私もこの光景を見てみたいよ」
「本当だね」
葵葉はその場でぐるりと周囲を見回し、八点の作品を一通り眺めた。
私もつられて、もう一度作品を見回した。
「それにしてもすごいな。いつまでも誰かの心に残るものを残せるなんて……僕にもできるかな……」
その横顔があまりにも静かで、葵葉の声にはどこか切実な響きがあった。
私は彼に声をかけることができなかった。
周りでは観覧客が静かに順路を進み、次の展示室へと向かっていく。
それでも、私たちはしばらくその場を動けなかった。
やがて葵葉が、かすかに笑った。
「もうそろそろ、次行こっか」
「そうだな」
私たちは並んで、次の展示室へ向かおうとした。
「ねえミト。僕たちもいつか、こういう景色を描けたらいいね」
展示室を出る直前、葵葉がそう言った。
その声は、とても静かだった。
私はふと振り返る。
光に揺れる睡蓮の池が、静かにそこにあった。
それを見た瞬間、胸の奥でなにかがそっと動いた。
「そうだな」
私はもう一度前を向き、歩き出す。
――描いてみたい。
そんな気持ちが芽生えていた。
あれだけ絵から遠ざかろうとしていたのに。
もう描くのはやめようと決めていたのに。
……いや、違う。
描きたい気持ちが消えたわけじゃなかった。
ただ、ずっと奥のほうで息を潜めていただけだった。
そう気づいた瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなった。
ああ。
私はやっぱり、絵を描くのが好きなんだ。
「葵葉」
「ん?」
私は少しだけ笑う。
「ありがとう」
「え?」
「ここに誘ってくれて」
葵葉は少し驚いた顔をして、それから照れたように笑った。
「こちらこそ。ミトが一緒に来てくれてよかった」
私たちは並んで、次の展示室へと足を進めた。
さっきまで見ていた睡蓮の光が、まだ胸の奥で静かに揺れていた。




