5 ヒヤシンス
冬休み三日目の朝。
目を覚ました私は、片手でまだ重いまぶたを擦った。
そのとき、手の甲が目に触れ、昨日の葵葉の言葉がふと蘇る。
『本来の滞在日数を維持できなかったら、僕は元の世界に戻ることもできず、そのまま消える』
その言葉が、頭の中でずしりと重くのしかかる。
体が冷たい空気に触れるたびに小さく震え、布団のぬくもりを恋しく思う自分がいた。
どこか体も、えらく感じる。
私はひとつ息をつき、布団を思い切って蹴った。
冷たい床が足の裏に触れ、思わず「うっ」と声が漏れる。
布団の温もりを惜しみつつ、ゆっくりと身支度を整えていく。
私はひとつ息をつき、布団を思い切って蹴った。
冷たい床が足の裏に触れ、思わず「うっ」と声が漏れる。
布団の温もりを惜しみつつ、ゆっくりと身支度を整えていく。
台所では祖母が味噌汁を温めながら、小鉢を手際よく並べていた。
立ち上る湯気と、温かい匂いが鼻をくすぐる。
鍋の中で軽く泡が弾ける音が、静かな部屋の中で心地よく響いた。
リビングでは祖父が新聞を広げ、静かにページをめくる音が混じる。
その光景を見て、胸の奥が少しだけほぐれる。
「おはよう、今日はいつもより起きるの早いね」
祖母の柔らかな声に、私は曖昧に笑って「うん」とだけ答えた。
「よく眠れなかったか?」
新聞から顔を上げた祖父と目が合う。
ベッドの感覚に慣れなくて、眠り心地が悪かったのかと心配しているようだった。
「いや、眠れたよ」
本当は、あまり眠れなかった。
けれど心配をかけたくなくて、そう答えた。
「そうか」
「なら、よかった。もうすぐできるからね」
「うん、ありがとう」
湯気に包まれた味噌汁の香りと、祖母の穏やかな動きに、胸の奥がやわらかくあたたまるような気持ちになった。
祖母の皺だらけの手を見つめながら、自分の手の“5”を指でなぞる。
祖母に「それは何?」と問われなかったので、この花数字はどうやら見えないらしい。
朝食を終え、茶碗を流しに置くと、部屋に戻った。
家を出るまでの時間、布団の上でごろごろと過ごす。
やがて約束の時間が近づき、私はそっと祖母に声をかけた。
「散歩してくるね」
「寒いから、あったかくして行くのよ」
「うん」
家から出ると鍵をかう。
外に出てすぐにコートのポケットに手を突っ込む。
冬の朝の空気は澄んでいて、頬に触れる冷たさが心地よく、思わず大きく息を吸い込んだ。
足元の砂利や舗道がかすかに鳴る音、遠くの車のエンジン音、鳥の鳴き声――普段なら何気ない音が、今日は妙に鮮明に耳に届く。
海岸に着くと、葵葉はすでに待っていた。
潮風に揺れる髪が光に反射して、キラキラと輝いていた。
昨日貸した私のコートを身にまとい、少し大きめの袖がふわりと揺れている。
葵葉は私に気づくと、ゆっくりと微笑んだ。
「おはよう」
「おはよう」
「もーはい、来てたんだ」
「うん、さっきね。今日も寒い?」
葵葉が私のコートの袖をちらりと見ながら尋ねる。
「どっさぶい。風が冷たい」
「おお、そりゃー、凄く寒そうだ」
葵葉は笑うと空を見上げ、気持ちよさそうに大きく息を吸った。
澄んだ冬の空に、薄い雲がゆっくりと流れている。
「うん。今日もいい天気だね」
その横顔を見つめながら、私は小さく頷いた。
風が吹いて、葵葉の髪と大きめのコートの袖がふわりと揺れる。
彼の視線は海ではなく、遠くの空を見ていた。
やがてゆっくりと歩き出し、足もとに寄せる波を見つめる。
葵葉はしゃがみ込むと、指で砂の上に何かを描きはじめた。
ただの落書きのように見える。
けれど、その指先の動きにはどこか迷いがなかった。
私はその様子をただ見つめていた。
描いては波にさらわれ、また描く。
もっと波から離れた場所で描けばいいのに。
砂をなぞる音だけが、波の合間に小さく響く。
「……何を描いてんの?」
気づけば、声をかけていた。
葵葉は顔を上げ、少し照れくさそうに笑う。
「波の音」
「音?」
「見えないけど、形にしたらどんなんかなって」
葵葉は手を止めるとじっと私を見上げた。
「僕の先生は、見えるものだけじゃなくて、見えないものを描くのがモットーの人だったからね」
その言葉に、胸の奥がかすかに震えた。
周囲の音が一瞬だけ遠のき、代わりに父さんの声が、遠い記憶の奥からゆっくりと浮かび上がる。
『描くっていうのは、見えないものを見ようとすることだよ。そして、描いて残すんだ』
あの頃の記憶がふっと胸に蘇り、同時に胸が締めつけられた。
だって、もうその声を聞くことはできないのだから。
もう会えないのだと。
父さんを思い出すたび、その事実が胸に沁みて、吐き出せない辛さだけが残る。
『父さん!』
『ん?』
『見て見て!これ描いた』
『おお、上手いじゃん』
『でしょー。俺も父さんみたいに画家になるんだ』
あの頃の私は、笑っていた。
ただ嬉しくて、何も考えずに絵を描いていた。
褒めてもらえるのが嬉しくて。
上達していくのが誇らしくて。
両親が笑ってくれるのが、何より嬉しかった。
けれど、画家だった父さんがいなくなってから、すべてが変わってしまった。
絵を描くたびに、母さんの顔が曇るようになったのだ。
以前は、私の絵を見るたびに嬉しそうに笑っていた母さんが、今は父さんを思い出したように、悲しそうに微笑む。
私の絵は、父さんに似ていた。
だから母さんは、絵を見るたびに父さんを思い出してしまうのだろう。
母さんのそんな顔を、見たくなかった。
だから私は、描くのをやめた。
描かない方が、傷つかないと思ったから。
母さんも。
私も。
波に消されていく葵葉の指の線を見つめながら、胸の奥に小さな痛みが広がる。
でも、隣で葵葉が静かに砂をすくう音が聞こえてきて、少しだけ現実に引き戻された。
その穏やかな手つきに、胸の奥の痛みがわずかに和らぐ気がした。
葵葉は立ち上がると、こちらを振り返った。
冬の光の中で、その笑みは不思議なほど穏やかだった。
「僕、絵を描くのが好きなんだ」
少し間をおいて、葵葉は私を見た。
「ミトは?」
「私は……好きだったな」
「そっか」
葵葉は再びしゃがみ込み、今度は海の生き物を描き始めた。
タコ、ヒトデ、カメに貝、フグ――さまざまなものを。
その絵を見て、思わず声がこぼれた。
「上手いな」
その言葉に、葵葉は嬉しそうに笑った。
「ありがとう!僕、絵を習ってたんだ」
「どんくらい?」
「4年間くらい」
葵葉は手を止め、こちらを見た。
「これが僕が1番好きな海の生き物」
「クラゲか」
「そう。ミトは?」
「私はーー」
「あっ、言っちゃダメ!ミトも描いて」
「はあ?」
葵葉は今しがた描いたクラゲの絵を消し、丁寧に地面をならすと“どうぞ”と横にずれた。
期待に満ちた瞳を向けられる。
その押しに流されるように、私は久しぶりに地面に手をつけた。
指先が砂に触れる直前で、ほんの少しだけ動きが止まる。
最後にこうして絵を描いたのは、いつだっただろう。
ザラザラと砂が指にくっつく。
その感覚が懐かしかった。
幼い頃はよく、父と絵しりとりをしながら遊んだものだ。
私の描いた絵は分かりづらかったらしく、父さんによく外された。
悔しくて『違う!』とむきになって、何度も『もう一回』とせがんだものだ。
楽しかった記憶が蘇り、思わずふっと笑ってしまう。
その笑顔に息を呑んだ葵葉の視線には気づかなかった。
人差し指で線を描いていく。
描き終えると同時に、葵葉が言った。
「イルカ」
「正解」
呟くように答えると、葵葉はじっとイルカの絵を見つめた。
「凄い上手いじゃん」
葵葉はなぞるように指を動かし、ヒレの部分で止める。
「ここ、先生と同じだ」
「同じ?」
「うん。先生も、線の入りは太くて、終わりは細いんだ。角も一筆で済ませず、二本線で交わらせるんだよ」
葵葉はその部分を指で示し、懐かしそうに笑った。
「懐かしいなあ」
「もう会ってないのか?」
「うん。先生は三年前に亡くなったから」
「そうだったのか……」
葵葉の「うん、病気でね」という声が、波の音に紛れて聞こえてきた。
二人の間に、しばらく沈黙が落ちる。
やがて波が押し寄せ、イルカの輪郭がゆっくりとほどけていく。
それは次第に広がり、砂の上にはもう何も残らない。
「消えちゃったね」
葵葉は軽く手を払って立ち上がると、体を伸ばす。
「久しぶりに砂に描いたな」
「ああ」
「ミトも、久しぶりだったの?」
「そうだよ」
私も立ち上がり、波にさらわれた跡を見つめながら呟いた。
「……私もだよ」
「え?」
「私の絵の先生も、病気で亡くなったんだ。二年前に」
背伸びしていた葵葉の手が、ゆっくりと下ろされる。
「どんな人だったの?」
「私に絵を教えてくれたのは父さんだった。物静かだけど、感情がよく顔に出る人で、優しい人だったな」
「そっか。ミトはいつから教わってたの?」
「いつからだろう……物心ついたときには、もう父さんの後を追いかけてた。父さんは画家だったから」
「画家だったんだ。凄いね」
「ああ。今思うと鬱陶しいくらい父さんにくっついてたな」
「そうなんだ」
私は頷く。
母さんにもよくくっつき虫と揶揄われたものだ。
「ミトとお父さんはすごい仲良しだったんだね」
「うん。自分でも父ちゃん子だったなって思う」
「ミトはお父さんのこと大好きだったんだね」
「……ああ」
「ミトのお父さんもミトが大好きだったんだ」
「そうだな……」
返事をしながら、私は視線を落とした。
足元の砂が、波に濡れてゆっくり色を変えていく。
「会いたい?」
「……そりゃあ、会いたいよ」
声が少し震えてしまう。
なぜ、
「僕もだよ」
父さんに会えない寂しさに、押し潰されそうだった。
会いたくて、会いたくて仕方がなかった。
それでも、会えるはずがないことも分かっていた。
丑三つ時――幽霊が出やすい時間があると知ったときは、こっそり起きて待っていたものだ。
ずっと父さんの話をするのは苦しかった。
会えないことが、ただ辛かった。
でも、同じ寂しさを抱えている人がここにいた。
自分だけじゃないのだと気づくと、胸の奥に小さな痛みと一緒に温かさが灯った。
「父さんは海を描くのが好きだったんだ」
「そうなんだ」
「だから、私もよく海を描いてたな」
葵葉は海の方を指さした。
「じゃあ、ミトならあの波をどんな色で描く?」
「え?」
突然の問いに、言葉が詰まる。
葵葉の指先を追って海を見る。
冬の海。
灰色の空。
冷たい風。
けれど波の内側には、太陽に反射した光があった。
「青と灰色を混ぜた色かな……半透明みたいに描きたい……葵葉ならどうする?」
「僕は、少し紫がかった色にするかな」
「そっか」
私たちは少し移動して海から離れた位置に座る。
両膝を抱えて座る葵葉の横で、私はあぐらをかいて目の前の光景を見つめる。
これほどじっと海を眺めるのはいつぶりだろうか。
穏やかな時間が過ぎていく。
「ねえ、ミト」
「ん?」
「また絵を描きたいって思う?」
その質問に、胸がざわついた。
波の音が、やけに大きく聞こえた。
「……思うよ。でもーー」
「でも?」
「怖い。描いたら、また辛くなる気がする。それに、母さんを悲しませたくない」
葵葉は少し考えてから、穏やかに言った。
「悲しませたくないって思うのは、優しさだよ。でもね、描くことで大切な記憶を残すこともできるんだ」
その言葉の意味は、すぐには分からなかった。
けれど、胸の奥がわずかに揺れた気がした。
緩やかな風が頬を撫でていく。
「……葵葉は絵を描くのが辛くないのか?」
葵葉は少し息をついて、海を見つめた。
「……辛いよ。特に先生と一緒に描いた絵を描く時は。でも、描かずにいる方がもっと怖いんだ。先生と過ごした時間を、なかったことにしてしまいそうで」
葵葉はそっと砂をすくい上げた。
風にさらわれて少しずつ落ちていく。
「……描かないでいたら、本当に先生がいなかったみたいになっていった。だから描いた。悲しくても、描けば先生のいた時間を残せる気がしたから」
その言葉を聞いて、私は俯いたまま拳を握りしめた。
『描くって、見えないものを見ようとすることだよ』
父の声が、遠い記憶の底からゆっくりと浮かび上がる。
胸の奥がじんわりと熱くなる。
葵葉が軽く笑いながら言った。
「まあ、それが僕の考え。もしミトが絵を描きたいと思えた時に描いたらいいんだよ」
胸の奥に、ほんの小さな灯がともる。
「そろそろ帰ろっか。風が強くなってきたし」
「うん」
私は頷き、もう一度だけ先ほどいた場所を見た。
そこにはもう何も残っていない。
けれど、砂の感触だけは確かに掌にあった。
――描くのは怖い。
でも、あの白い波の色を、もう一度筆でなぞってみたくなった。
その想いを抱えたまま、私は先に行く葵葉の背中を追って歩き出した。




