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第59話 甘えたい前夜に(2)

 早速帰りがけに富澤商店寄ってくね! とつばめが意気揚々と帰宅した後、折角だからと日曜にも関わらずくるみが晩ごはんを用意してくれることになった。


 厳しく冷え込む真冬にぴったりな温かい鴨せいろだ。


 いつもどおりご相伴に預かり、柚子の皮や芹の薬味でいい塩梅に仕上がったそれをつるつる啜り、腹の底から温まったため息をほぅ……と逃す。ばたばたしていつものように一汁三菜を用意出来なかったことをくるみは気にしていたようだが、そもそも彼女がいなければ碧は目玉焼きごはんくらいしか用意できないので、感謝こそあれど文句などあるはずない。


 碧が皿洗いをし、くるみが趣味だという編み物をしているところで、玄関のチャイムが鳴った。


「あら、こんな時間にお客様?」


「なんだろ、何も届く予定はなかったはずだけど」


 訝りながらも画面を見ると、どうやら宅配便らしい。ただ何も注文した覚えがないのがそこはかとなく嫌な予感がするが。


 玄関を出て、二月の身を切るような寒空の下でも爽やかな運送業者の人から押印と引き換えに荷物を受け取る。荷物に貼られた伝票には住所が手書きで、しかも流麗な筆記体で(したた)められており、碧は名前を見ずとも送り主が一発で分かった。


「荷物、ルカ……向こうの友人からだった」


 リビングに戻ってからローテーブルの上に開封した中身を置く。柔らかなゴールドにお城の柄が描かれた異国の紙箱に、くるみは不思議そうな眼差しを向けた。


「バレンタインが近いからってルカが送ってくれたんです。ドイツはチョコレート大国だから」


「ルカ……さん。その人って前に碧くんが電話していた方よね? チョコレートといえばガーナとベルギーって印象があったから、ちょっと意外かも」


「日本だと意外と知られてないんだよね。けど美味しいよ。有名なのだとHeinemann(ハイネマン)とかMilka(ミルカ)とかもドイツのブランドだし」


 外国産のお菓子はあまり食べたことがないのだろう。くるみが物珍しそうに、箱を見つめる。どうしたいかは見てくれからバレバレなのに決して「ひとつちょうだい」とは言わないくるみの引っ込み思案な気質に苦笑しつつ、碧は戸棚からアーガイル柄のマグカップを取り出し、ミルクパンを火にかけた。


「はい、これ」


 数分ほどして、くるみに差し出したのはふあふあと温かな湯気を立てるマグカップ。くるみの密かな好物である蜂蜜を一垂らししたホットミルクだ。火傷しないように、ほんのり温かい程度まで粗熱を取ってある。


「甘いチョコレートにあうかなって思って。僕ドイツチョコは昔飽きるほど食べたから、今回届いたのはくるみさん好きに食べていいよ」


「え……いいの?」


「まあ何事も冒険っていうし。海外のお菓子あまり食べたことないんでしょ?」


「うん……ありがとう」


 ぎこちなくマグカップを受け取ると、両掌に伝わる温かさにくるみはふにゃ、とヘーゼルの瞳を細める。その様相はまるでこちらに懐いて心を許した白猫のようで、この上なく可愛らしい。


 慎重にふぅふぅしてからミルクをひとくち含み、くるみが心持ち瞳を輝かせてチョコレートの箱をゆっくりと開くのをひとしきり見守ってから碧は皿洗いを済ますべくキッチンに引っ込んだ。


 きっと甘い物が好きなくるみは喜んでくれるだろう。


 その時はそう思っていた。なにせ天運が碧に恐ろしい試練を与えることになるとは、まさか思うはずもないのだから。


                *


 そして彼女の様子がおかしいことに気がついたのは、食器かごに残っていた皿をしまい、残り物をお弁当箱に詰め、洗い物を終えてリビングに戻った折だった。


 ふぅと一息ついてソファに座り、隣にちょこんと腰掛けるくるみに話しかける。


「チョコレートどう? 美味しかったならルカにもそう伝えておくよ」


 しかし、待てども返事がない。


 不審に思って目を向けると、くるみはぬるくなったホットミルクのマグを両手でそっと包み込んだまま、ぽーっと遠くを見つめていた。


 いつもは定規のようにびしっと正された姿勢も、今はふんにゃりとしてソファに体を預けている。その瞳にいつもの凛とした気高さも聡明な輝きもなく、潤んだ瞳にとろけた蜂蜜のような色彩を滲ませていた。


 言い換えれば、ぽへーという気の抜けた効果音がぴったりの佇まいだ。


「あの、くるみさん……?」


「……んー……」


 不可解に思い名前を呼ぶと、空目遣いでゆっくりゆっくりくるみが振り向く。


 普段はミルクのように真っ白な頬は今はなぜか熟れた林檎みたいな朱に上気しており、一方で醸す空気はどこか気怠げかつ虚ろでさえある。


 おかしい。何かがおかしい。けど何がおかしいかは分からない。


「もしかして体調悪い?」


「んーん……?」


 舌足らずに紡がれた、というよりおそらくくるみの意志に反して出てきた言葉に満たぬ声は、いつもよりずっと糖度が高くとろけるように碧の耳をくすぐった。


 普段のくるみの声が涼やかで清らかな淡雪に蜂蜜をひとたらししたような控えめな甘さだとすれば、今のはまるでたっぷりのお砂糖と蜂蜜を焦がしたような、濃密な甘さと焦ったさを込めた色の声。


 すっかり困惑していると、右半身を突如くすぐる柔らかな重みに思わず身が竦む。


 改めて見ると、ヘーゼルの瞳を眠たげな猫のようにきゅむっと閉じ——挙げ句の果てに何故か碧に擦り寄ってきたくるみの姿。


「え、何?」


「……あたたかい」


「いやあの、離れた方がよろしいんじゃ?」


「や」


「???」


 普段の彼女であればまず確実に言わない台詞だし、絶対にしてこない甘え方だ。これにはさすがの碧も動揺を隠しきれず、見るからに狼狽える。


「……くるみさん? 何してるの? まさか甘えてる?」


 矢継ぎ早に尋ねながら、零さないようにそっとマグカップを受け取ってローテーブルに置くものの、くるみは碧の言葉を聞いていないらしく、甘えん坊な猫もかくやといった様相でこちらの二の腕に頬をすりすりしてくる。普段は澄ましたくるみの思いがけない仕草に、碧の鼓動はどんどん早鐘を打ち始める。果たしてこれは夢か真か。


「くるみ様?」


 あまりに度し難い行為に、思わず学校で呼ばれているみたいに様をつけてしまったのだが、それが彼女はお気に召さなかったらしい。ほんのりと眉をひそめて、むっとしながら碧の両頬をむぎーとつねった。


「な……なにふるんれふか」


「さまは嫌。さんも嫌」


 摘まれてさぞ情けない顔をしているだろうこちらの頬をくるみは不機嫌そうに弄ぶ。


 これをご褒美と捉える人並外れた趣味は別に持ってないのだが、このお仕置きは何だか相当深い仲じゃないと出来ない戯れな気がして居た堪れない。向こうから友達以上と認識されているようで気恥ずかしいので一刻も早く脱出したい。


「くるみ…………さん。いていてっ分かったから。……くる、み」


 つねる手に力を込められたので再度訂正すると、ようやく許してくれたようで碧の頬から手を離し、糸が切れたようにぽてんと碧のひざの上に寝転がった。


 淡い胡桃(くるみ)のような(いろ)の髪が空気のようにかろやかにしゃらんと動きに取り残され、甘やかな花の芳香を碧に届ける。それから何が琴線に触れたのか、


「……うふふっ」


 急にくすくすと笑い出した。


 何の脈絡もない行動は、確実に彼女が平常ではないことを示している。


「そんな酒に酔ったみたいな…………あ」


 自分で言って、自分で思い当たった。


 嫌な予感がしたし、嫌な予感は大抵当たることも知っている。たとえば朝から気分が乗らなかった二年前のとある日は、乗った船が見事に荒天で大揺れした。


 信じたくない気持ちもありつつ、碧はくるみを膝に乗せたまま、ローテーブルにある一枚の紙切れに手を伸ばす。途中がっと手の甲がぶつかり、毛糸が転がった。


 無理してぐぐっと指を伸ばし続けやっとの思いで手にしたそれは、全文がドイツ語で書かれたリーフレット。

 そして瞬時に目を通し読み終えた碧は全てを察し——再び左手で顔を覆った。


「ルカのやつ……何で洋酒入りなんか…………」


 彼から送られたのは、いわゆるシャンパントリュフだった。


 見た目は普通のチョコだしドイツ語が読めないんだから、分からなかったのも無理はないだろう。つまりこの事件は碧の不注意が招いたものだ。


 それにしても高校生への贈り物で洋酒チョコを選ぶルカはどうなんだ、という気持ちがないでもないが、日本の法律でも問題はないし、もとより向こうは高校生の酒は合法だ。今は彼を責めたってどうにもなるまい。


 一緒にいれば気づいて止められたのにと後悔している間も、くるみはすりすり甘えるように膝に寄り添ってきていた。


 親に甘える小さな子供のようにあどけない仕草。


 それを見ると何故だか、止めさせる気にはならなかった。


「……ああ、もう」


 いっそ我慢を手放しこのまま猫可愛がりしちゃおうか。


 そんななし崩しに近い気持ちと、彼女には嫌われたくないという気持ちと、今のおかしな状況への思考停止。それらがぐるぐる三匹の虎のように周り続けバターのように溶けそうになりながら、なんとか己の膝の上にいるくるみの肩に手を置き「起きてください」と引き剥がすように持ち上げて起こす。


 ぽわぽわとはてなマークを浮かべているくるみにとうとう碧は決断したようにスマホを手に取った。


「今からタクシー呼びますから。そこで大人しくしていて」


「……住所わかるの?」


「あ」


 ほろ酔いの人に論破された。とても悔しい。


「わたしなら、だいじょうぶ。帰るならもうすこし、やすんで……歩いて帰れるから」


「それはいろいろ危ないので駄目です。禁止です」


「じゃあもうしばらく……いていい?」


「なっ……それも駄目。とにかくだめ。反論も禁止です」


 男子高校生も色々たいへんなんですよとはさすがに言えなかったが、くるみは碧の忠告を言葉通りに受け取ったらしい。もう少しだけ居たかったな、なんて物寂しさを仕草に滲ませながらコートと鞄を持ってソファを離れようとするので、咄嗟に——矛盾なのは承知の上でその肩をぐいっと捕まえていた。


「!」


 確かに恋人同士でもない男女の距離というものにも限度があるが、寂しそうな表情をさせてまで突き放すほうがいいかで言えば——否だ。


 それにプラスして、今の彼女を徒歩で帰すのはどう考えても危ないというのもあるが。


 驚きに彩られた、透明に澄み渡った綺麗な瞳が、こちらに向けられる。


 まるで言葉を話せない代わりに眼差しで訴えかけてくる子猫みたいに、ひたむきなその目に見つめられるとどきっとする。大人のつもりなのに大人でいられなくなるようで、息の仕方を一瞬忘れそうになりながら、思い出したように長い長いため息を吐いた。


「……参ったなぁ。まあ、くるみさんだからいいけど」


 それが真理だった。


 可愛いは正義だが、それ以上に、くるみだから。彼女以外の相手だったらきっと塩対応をしていただろうし、そもそも二人きりになろうとも思わない。


 今の彼女はやけに素直で甘えん坊で、今までに知らない姿がそこにはあった。正直この僅かな間で何度、猫っ可愛がりしたい誘惑に負けそうになったか分からない。


 酒は人間の本性を暴くというが、くるみ本来の性格はああまで甘えん坊なのだろうか。


 もしそうだとしたら、明日から高貴な猫さながらツンと澄ました彼女を見るたび——否応なしに思い出してしまいそうだ。


 酔い覚ましに水を注いでリビングに戻ると、くるみが拗ねたように眉を下げて心細げにぬいぐるみを抱き抱えていた。


「とりあえず、お水飲める?」


 訴えかけるような視線をいなしてからぐいっと水差しを差し出すと、くるみは押されるようにだが受け取ってくれた。


 くぴくぴとグラスを傾ける間に、碧は彼女が摂ってしまった酒の量をざっと計算する。さっき箱を見た時に消えていたチョコはそれほど多くないのでそう問題視するほどではないだろう、などと思考していると隣の少女がつんつんと碧の袖を引っぱる。


「……あおくん」


 それから反則的なまでの上目遣い。計算ではなく天然でやってるであろうからこそ罪深いそれに脈が跳ね、碧は堪えきれずそっぽを向く。


「何ですか。僕は一体どうすればいいんですか」


「……甘えられれば、いいのに」


 一見会話の返答のようなそれは、碧に向けたものというより、傾いた願望の(さかずき)から独り言が零れ落ちたといったものに近い。


 つんつん、と。もう一度袖を引かれるので、後ろ髪を引かれる思いで振り向く。どうやらこの子は話がしたいらしい。


「……私ね」


「うん」


「あおくんといるとたまに……気持ちがばたばたーってなるの」


 普段はしないような大きな身振り手振りを交えて伝えてくる。


「いつもの自分と、そうじゃない自分が、両方わーってなって」


 酔わされたはずの瞳が、真摯な光を碧に渡してくる。


「だから私も甘えられるように……がんばりたい。がんばる」


 ぐっと裾を握ってくる小さな指が、碧に先日の記憶をふとよみがえらせた。つばめのお菓子教室の約束をした時の会話を。


『……甘え方なんて分からないし』


 他人に頼らない自分を、くるみは自分でも気にしていたのだろうか。


 一度碧がクリスマスイブの前に手助けしてからは信頼を勝ち取ったらしく、色んな表情を見せてくれるようにはなった。が、互いに委ね合う関係(ひと)に至った訳じゃない。


 碧も彼女が自分の足で立つことを望むのなら無理強いをするつもりはないが、本当はそうじゃないことはすでに知っている。


 だからくるみの今の発言はかなり微笑ましいものとして受け取ったし、がんばれと応援したくなる類の決明だったし、日本にいる間は他人と関わる気がないなんて自分事の縛りを解いて思うままに甘やかすのも……(やぶさ)かじゃない。


 ——が、それとこれは話が別だ。


 碧はくるみに薄手のブランケットをふわっと被せると、見つめ合う彼我(ひが)の距離を緩慢な動きで縮める。

 そのまま何かが起こるわけでもなく、鼻先はすれ違い——ブランケット越しの彼女の頭にぽすっと顎を乗せ、静かに言い聞かせた。


「甘えてもいい。くるみさんはがんばっているよ、いつも。努力家で偉いし。……けど今は駄目。明日以降ならいいけど」


 予想はしていたことだが、案の定不思議そうに首を傾げられる振動が伝わってくる。


「……どうして今日は駄目なの」


「どうしてって、そんなの……はぁ」


「?」


 あの聡明なくるみが、碧の吐いたため息の理由すら文字通り何も分かっていない様子だ。どう説明するか散々迷った挙句、本音を言うべく口を開いた。


「だからさ、くるみさんのことが大事だから。……に決まってるでしょ」


 きっと記憶が失くなっているだろうから恥を凌ぎ思い切って伝えたが、碧にとってくるみは大事な人のひとりだというのは事実だ。


 だから正気を取り戻した時に普段の彼女が傷ついてしまうようなことを、今の彼女にさせるわけにはいかなかった。くるみは確かに純真な一面があるが、それに反して人一倍身持ちは堅い。だから碧相手にここまで身を寄せるのは、大きな信頼があるからに他ならない。それを彼女の()()の間に裏切りたくはなかった。


「……?」


 ふれあっていた体勢から十センチだけ離れて表情を覗くと、くるみは〈大事〉という言葉の意味を捉えることができなかったのか、きょとんとしていた。どこまでも純真な瞳は、逃した答えの行方を探るようにくるくると瞬いている。


 初めは驚かせてしまったせいで酔いが覚めたのかと思ったが、ローディングに時間がかかっているみたいに考え込んで動かなくなっているだけだと気づき、ほっと安堵した。


 そう、分からなくていい。


 少なくとも今はまだ……伝わらなくていい思いだ。


「だからまあせめて、ベッドで横にでもなっててくださいな。僕はリビングにいるから」


「う、ん……。ひとりになるの?」


「嫌なら代わりにこいつが一緒にいるから。また後で様子見に来る」


 歩けそうではあったので、そっと支えながら寝室、というか自室に連れて行きベッドに座らせる。ほいっとハスキーを渡せば押されるがまま受け取り、手の中のそれがお気に入りのぬいぐるみと気づくや否や、じんわりと真冬の朝の白湯のように温かな眼差しを落とした。それにまた不覚にも見惚れてしまって、表情には出さないようにして部屋を出た。


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