第280話 修学旅行〈前編〉(2)
碧は口を開けたバックパックと、着替えを床に並べながら、メモと睨めっこしていた。
週明けには修学旅行、という状況になってようやく、旅行の荷詰めを後回しにしていたことを思い出し、たった今着手していたわけだ。
と言っても家にあるものを詰めるだけで、買い出しなどはしないのだが。
なぜかというと、これはシンプルに勉強時間を確保したいためだ。周りがすでに本気出しているかは知らないが、くるみと別々の大学に行くわけにはいかない碧は、もうすでに余った時間の全てを勉強に当てていた。
そうなるとそもそも、二年生のうちに修学旅行をする学校がほとんどのなか、なぜうちは三年なのか? というところが疑問になる。
教員が言うには、修学旅行はこれまでがんばってきたことの労いと、これが終わったらあとは各自受験に本気を出すように、という切り替えのための行事……だそう。
うちは私立がゆえに、二年修了時点で、本来三年間で学ぶ全ての学習を終わらせる、という独自の課程を採用している。進度には問題ないし、予想だが言ってしまえば、スケジュールに余裕ができるのは、高二の秋冬より高三の春ということだろう。
と……話を戻すが、ちなみにメモは、家族や親戚たちに聞いた希望のお土産が箇条書きされている。旅行にいくときは事前にほしいものを聴取するのが、秋矢家の慣わしだ。
鞄にはお土産を持ち帰るためのスペースを空けなければいけないため、これを見ながら荷造りをしていたのだが……そのお土産のまあ遠慮知らずなこと。
妹と父は〈おすすめでいいよ!〉と言ってくれてだいぶ優しいほうなのだが、従兄弟たちは〈ハリーポッターの魔法の杖〉〈賞味期限が十分のモンブラン〉と、ことごとく持ち帰るのに難儀するものばかり指定するのだから困ったものだ。ていうかモンブランに至ってはむりだろ。
——ぴろん。
スマホがメッセージの着信を告げてきたので見れば、ひとり遅刻した者からのお土産の希望が届いていた。
〈大阪土産は豚まんがいい!〉
何のことはない、ほたるからだった。
なぜ返事が遅かったかはあらかた想像がつく。永遠の子供と思われたあのほたるも、春から大手のブライダルサロンに就職し、毎日忙しい様子。そもそも普段から連絡を取りあうわけでもないし、突発で送った碧のLINEが後回しになるのもいたしかたないのだろう。
〈行列らしいし買えそうなら買います 期待しないでください〉
と、そっけない返事をすぐさまするも、既読はつかなかった。
*
「あ〜疲れた……って待ってあーくんのお土産のLINE返してなかったやっば〜……」
帰宅早々ベッドに倒れこみながら、ほたるはスマホを見て嘆いた。
すぐ返そうにもお土産がどれいいかなんてすぐに思い浮かばず、後回しにしていた結果、仕事がなかなかに忙しくてすっかり忘れていたのだ。
「とりあえず大阪っていえばこれってやつでいいや……」
定番の豚まんを依頼してトークを閉じる。
そのままついでに目も閉じて、メイクを落とさなければいけない葛藤と眠気で戦うほたる。ていうか、社会人ってありえないくらい時間がない。
憧れのサロンに就職が決まって喜んだのも束の間、六時に目覚めてメイクして髪を巻いて家事当番の日は朝ごはんに家族の目玉焼きとトーストを焼いて、電車で出勤してあとは夜までずーっと拘束。解放された時にはもうくたくた。これを週五日? おばあちゃんになるまで?
いっぽうで、従弟は一生に一度の修学旅行……。なんだ、なんなんだこの格差は。
「はー羨ましい……私も旅行したいよおお! 明日になったら急に高校生に戻らないかな!? 十七歳に戻れー!!」
と上掛けを蹴っぽりながら駄々っ子のように叫んだ瞬間、文鳥のもちがぴるると鳴き、まるで話を聞きつけたかのようにLINEの通知が一回だけ鳴った。
あーくん返事早、と思いつつ見れば、ロック画面に表示されたサジェストを上書きするようにスマホがぶるぶると震え出す。相手はルカだった。
それも珍しく電話だ。
「もーしもーし……ルカちー?」
『やっほー。その様子だともしかして寝落ち寸前?』
「そう。ちょうど今から修学旅行の夢を見る予定だったの」
『よくわかんないけどだいたい察した。碧か』
苦笑した気配のあとに、妙な沈黙をしばし挟んで、それからこんな提案をされた。
『……なら代わりに、俺と旅行にでも行く?』
「え!? 行きたい行きたい!!」
体を直角にして飛びおきつつ即答すれば、彼らしいちょっと不思議なイントネーションで笑われる。
『冗談だよねって言わないんだ?』
「ルカちーのことだから、上げて落とす嘘は吐かないに決まってるじゃーん」
『……はあ。そう』
なぜか大きなため息を吐かれた。そんなへんなことは言っていないんだけど。
『じゃあ明日の夜また電話するからそのとき計画しよう。どこに行きたいか考えておいて』
「わかったぁー……」
眠気がまた押し寄せてくる。せめて肌が荒れないようにメイクは落とさないと——と重たいまぶたと格闘していると、おやすみの挨拶を残して電話はあっけなく切れてしまった。
*
日本らしい田園風景が、どんどん後ろにながれていく。
東京駅のみどりの窓口近くにて点呼ののち、ぞろぞろと改札をとおり、午前七時すぎ発。
五月中旬のその日は、さつきらしい晴天にめぐまれて、柏ヶ丘高生を運ぶ新幹線〈のぞみ〉号は関東から遠ざかっていく。
いよいよ、待ちに待った修学旅行の始まりなわけだ。
「ようやくゆっくりできる……」
そして碧はといえば、大きく伸びをしてから座席に体を沈めていた。
到着までの二時間半がぜんぶ自由時間だと思うと、心のゆとりをぐんぐんと取り戻せていく感覚がある。なにせ、出発前夜までみっちりと受験生らしく勉強に打ちこんでいたのだ。何もしない贅沢というのはいつぶりだろう。
気持ちだけなら、駅弁と冷えた缶ビールを開けているサラリーマンのそれだった。
手許にあるのはぬるいミネラルウォーターなのだが。
初夏が近づきちょっとずつ汗ばむ季節になりつつあるが、衣替えがまだなのでブレザーを着てきている。
一枚脱いでもいいが棚に上げるのが億劫だったので、ネクタイを緩めシャツの襟を解放して、ゆったりできる格好を探る。
ちなみに、席順はあらかじめ決めていたとおり、みんな仲よし同士で着席。
後ろを見渡せば、学友たちは持ち寄ったおかしをシェアしつつ「母さんに木刀だけは買うなって言われてさー」「いや買うだろ」と、思い思いのお喋りに花を咲かせている。
つばめとくるみもまた隣同士に座って、前後のクラスメイトと一緒になりながらしおりを見たり、旅行の予定を話しあったり。時にはスマホでふたりで自撮りをしたりと、女の子同士ならではのふわふわした空間が醸成されていた。
いっぽう、碧と並びで座っている湊斗は出発早々、窓にもたれてすぴすぴと気持ちよさそうに爆睡。年がいもなく昨晩はうまく寝つけなかったのだろう。
なので話し相手もおらず、僕も寝ておくかとまぶたを下ろしたところで、後ろから何者かに肩を突かれた。
「碧っち。じゃがりこいる?」
振り返れば、座席の隙間から颯太がにっかりと覗いている。
「いる!」
お言葉に甘えて一本ちょうだいすると、その隣に座っている夏貴が、色とりどりの荷物がお行儀よく並んでいる棚を見上げて言った。
「碧はずいぶんとでかい荷物で来たな。三泊四日なのに」
「あー。僕が持ってたダッフルバッグなら、あれはくるみさんの鞄だよ。重たそうだし持ってあげてただけ。僕のはこれ」
足もとにあるネイビーのバックパックを指差す。あちこちにポケットがたくさんついており、財布やお茶をさっと取り出しやすい、長年の愛用品だ。
家族に頼まれたお土産のことも考えてスペースも空けていた。持参したのは最低限の衣服や貴重品、学校から指示されたノートや筆記具くらい。
「いかにも旅慣れてる人ってかんじの鞄だな」
「日本ならそのへんのドラッグストアかコンビニにかけこめば大体ものは揃うから」
「修学旅行でそれやるやついるんだ」
「てか、楪さんの荷物も、碧っちが監修してあげればよかったんじゃ?」
「まあ……本人がこれがいいみたいだからそこは好きにさせようかなって」
くるみは、旅行の荷造りはこれが初めて、というわけじゃない。
一緒にベルリンへ行く前には、碧がくるみをショッピングモールへと連れて行って、海外旅行にはなにが要るかの手解きをした。だから勝手は分かっているはずだ。
ちなみに、たとえばそれはフライトグッズだったり、貴重品を持ち歩く際のウエストポーチや、モバイルバッテリーなど。
もともと旅行が多かった碧の手許にはグッズが揃っていたので、大抵は余っているものをくるみに貸せば事足りた。それをくるみは「私ばっかりおんぶに抱っこ……」と気にしており、今回の修学旅行は碧をアテンドすることに熱心になっていたというわけだ。
どうも、関西に実は一度も行ったことのない、と碧が言ったのを、覚えてくれていたらしい。だから「今度は私が抱っこします!」とはりきり、荷物があんなにてんこもりになっているのだろう。
なにが詰めこまれているかは分からないが……それは後で聞いてみよう、と離れたところにいるくるみに目を遣ると、彼女はつばめをはじめとした級友たちにかこまれて和やかに笑っている。
夏貴も同じほうをちらりと見て、それから誰に言うでもなく呟いた。
「あの事件からもうすぐ一年か……。早いもんだな」
「懐かしいそれ。あったなそんなことも」
「当事者が忘れるなよ。こっちはずっと覚えてるからな」
でも、一年という時はそれなりに重い。事件を、過去のものにするには十分な時間だ。
今ではひとりの少女をしている彼女の〈妖精姫〉時代を知る人だって、実はそう多くはないのかもしれない。今は自分たちが最高学年で、かつてを知る先輩たちはみんな卒業した。
クラブ活動にもはいっていないから後輩との関わりもない。なんなら今年の一年生に関しては、くるみのことを、ラブラブな彼氏がいるすごく美人な先輩——という印象くらいしか思っていないんじゃないだろうか?
友人達にかこまれて、少女らしく明るい笑みを浮かべるくるみを穏やかな気持ちで眺めていると、夏貴がまた絡んでくる。
「ていうか、てっきりふたりは隣同士になるかと思ってたんだけど、そこはいいんだな」
「くるみさんのことだよね? 新幹線の間くらい、僕は離れてても構わないよ」
「え。そうなんだ。いつも一緒に居ていちゃついてるのに?」
「僕らがどういう印象なのか察するけれど、なんか前提がずれてる気がするな……」
と、苦笑した。
わりとクラスメイトにはされがちな勘違いなのだが、これには笑うべきなのか、抗議をするべきか。なんにせよ、名誉のためにしっかり訂正はしたほうがいいだろう。
「つき合っているからって、そもそも四六時中一緒にいるわけでもないからな。そもそも僕は半年前からバイトしてるから、会えない日があるのも今に始まった事じゃない」
「言われてみればだな」
「うちに来てくれてるときも、それぞれやりたい事があるならお互いには構わないでそっちをするし」
趣味の時間だって、くるみが読書や編み物をしている間に、碧はスマホでLINEの返信をしたり友達のSNSを巡回したり、いつか渡航したい国のことを調べたりと、別のことをするのが大抵。
勿論、録画した番組や映画をTVで見たり一緒に和やかな時間を過ごすこともあるが、まあ言ってしまえばその時その時。常々くっついている、というのは大きな勘違いだ。
「空間を共有してるだけ……みたいな?」
「そうそう。それに、僕はいつでもくるみさんを占有……って言いかたは違うか、時間を貰うことはできるけどさ、友達との修学旅行は一生に一度だけじゃん」
家に帰れば、碧とくるみの時間はたくさんある。だからこういう学校行事ならではの、掛け替えのない瞬間は、友達との思い出を重ねることを第一優先にするべきだ。こちらとて、彼女の友人関係のさまたげになるような彼氏ではいたくない。
そもそも、二日目や三日目については一緒に巡る約束をしているのだし、こういうときくらいは譲ってやらないと、クラスメイトとの交友を碧が奪ってしまうことになる。
その回答で納得いったのかそうでないのか、夏貴は「ふーん」というリアクションしか返さず、颯太は「さすがだねー」と嫌味なくさわやかに笑ってきた。
話を切り上げたところで椅子に座り直しながら、ふと車窓に映る自分を見て自嘲する。
——まあ、ちょっと格好つけたけど。
碧とてずっとこの調子でいれば、寂しくならないわけでもない。
くるみとは後からまた話すことは出来るから、今はそれでいいのだが、そうじゃなければこんな余裕でいることはできなかっただろう。
——昔の僕なら一人でもへっちゃら……ってか、独りが当たり前だったんだけどな。
そう思うと、呑気に眠っている湊斗が、なんだかちょっとだけ羨ましい。
ブレザーのポケットでスマホが震えた気がしたが、読むのは後回しにして眼を閉じた。




