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イマワノキワニ  作者: ジョセフ武園
1/2

カルテ#1 門屋浩二さん

令和3年現在。

日本では9割を超える人々がその人生を始め、そして終える場所は病院である。

小暮桜子こぐれさくらこはそんな病院に人生のほとんど所在していた、稀な人間であろう。



「おはようございます」

 7月という季節なのに外はまだ明るさが朧気な時間から、彼女達の勤務は始まる。


 詰め所に入ると、夜勤明けの同僚が記録を付けながら「おはよう」と消え入りそうな声を出した。


 小暮は詰め所内に耳障りに響く心電図モニターを見るとそこには、昨夜より1つグラフが画面に増えている。

「うん、また申し送りで言うけど5号室の門屋かどやさんが0時頃に急変してね。かなり大変だったけど準夜勤(じゅんや)が丁度切り替えの時だったから人手があって助かったよ。今ハシラさんが採血行ってくれてる」

 小暮はモニターをまじまじと見る。

「血中酸素濃度(SPO2)88ですか……」


医師(せんせい)に酸素(O2)指示貰ってマスクでいってるんだけどね……。発熱もあるから肺炎……誤嚥性かなって、当直(せんせい)は言ってた。朝一で胸写(レントゲン)予約してる」


 同僚がそう言った時に詰め所の外で慌ただしい音が鳴った。

「おはようございます‼ 」

 早番の看護助手のケーコちゃんが出勤してきたのだ。


「おはよう」

 小暮達が挨拶を返すと、同僚は記録作業に戻る。まるで映画のシーンの様に大きなテーブルにカルテが所せましと並ぶ光景はもう見慣れたものだ。


 小暮は、詰め所を出るとその真向いの病室305号室に向かった。

 この詰め所の最も近い病室は通称『ステ部屋』と呼ばれている。


 重いドアをノックすると小暮は「失礼しますよ、門屋さん」と言って入室する。


 どうやら、採血の同僚はもうここには居ないらしい。


 白が基調の1Rアパート程の部屋の中央の殿堂ベッドに横たわった門屋さんは辛そうにこちらに顔を向けると。

「ああ……さくらこちゃん……来てくれたのかい」とかすれかすれの声を出した。


「はい。しんどかったですね門屋さん。もうすぐ検査の人や医師(せんせい)も来られるので診てもらって薬を処方してもらいましょう」

 小暮は微笑むと、門屋の脱水予防の点滴が挿入っていない左手をそっと握る。まるで湯がいた様に熱い。


「い……やぁ、まいった……まいった……最近なーんか飲み込みが悪いのは気付いてたんじゃけどなぁ……」門屋は笑顔をつくり、絞る様にそう言った。


 門屋浩二(かどやこうじ)は80代前半の男性患者で、肺疾患と肝硬変で度々経過入院されていた顔なじみの患者だ。性格がとにかく明るく小暮達看護師やケーコちゃんら看護助手にも男女問わず人気がある。

 病院に居ると、どうにも気を滅入らせる患者がほとんどなのだが、彼はとにかく気分転換が上手くまた性格から家族、見舞客の訪問もかなり多かった。

 競馬が好きで週に一度は必ず家族と外出をして、競馬券の販売所に行って弾けそうな笑顔で戻ってこられるのがお決まりだ。


「はぁ、まいった、来週は……ひ孫と久しぶりに会える予定じゃったんじゃけど」


「治したら、すぐにまた会えますよ」

 小暮は会話の途中でさりげなく体温計を彼の腋窩に入れていた。

 音が鳴ると同時に素早く抜いて数値を確認する。


「何度? 」


「8度6分ですね。アイスノン、替えましょう」







 門屋の家族に連絡が病院から入ったその3時間後に、彼の意識は無くなった。


 丁度、門屋の奥さんが病院に来て1時間後くらいだった。

 それまでしんどそうながらも会話も出来ていたから、奥さんの狼狽もひどかった。


 しかし、いつも優しく丁寧に接してくれるスタッフたちは、皆表情を真剣に、自分の夫へ向かい自分へは目も合わせない。そこで彼女もまた信じられないながらも理解する。今が夫の瀬戸際なのだと。


 医師が看護師達を制したのは僅か10分後程の事。

 聴診器で胸の音を聞いて、心電図を見ながら首頸動脈で脈拍を探る。

 そして、奥さんへ振り返ると真剣な表情で言う。


「ご主人に……お声を、かけてあげて下さい」


 呆然と、その言葉を聞いた奥さんは暫く固まり、そしてゆっくりと。

 何十年と連れ添った男性へと近づき。

 その手を両手で大切そうに握る。


「お、おとうさん……しんどいね? しんどいねぇ?

 ごめんねぇ、こんな事なら先月帰って来た時にお父さん大好きな、アコウのお刺身を食べさせてあげたらよかったねぇ?

 ごめんねぇ、ごめんねぇ……」

 そして、そこに雨の様に涙が落ちる。


 患者に最後に与えられる時間。

 それは、家族との別れの時間だ。

 無論、これが与えられない患者も何人もいる事を知っている。

 だから小暮は思った。

 これも、また門屋という人間の積んだ徳ゆえに必然に与えられたのかもと。


 その時だった。

 病室の心電図モニターの音が大きく「ピッピ」と鳴り始めた。


 諦めていた医師も驚いた様に動く。看護師達もまた体勢を整えた。


 門屋の目が小さく開き、確かに奥さんの方へ動いた。


「ば」


「ばぁああ……い」


「ばぁい…………」


『バイバイ』

 彼は確かに、その場にいる全員に聴こえる様に

 必死でそう言った。




 今わの際の言葉。という言葉がある。

 だが、それは死期を悟った上で残っている時間で行うものであり。


 人が生涯を終える時は、ほとんどがもうそのような余裕はない。声を出す余裕がないのだ。


 だからこそその時が本当に来た時は。

 いくら、大切な人に何かを言おうとしても、もう手遅れなのだ。


 なのに。


 門屋は、涙を溢す妻に

 少しでも、その心に未練が残らぬように。

 成し遂げた。



 その2時間後。

 その部屋は、まるで何事も無かったようにスッキリと整えられていた。


 80年以上の時間を生きた者でも。1日の急変のきっかけと、半日の経過で余りにも呆気なくそれは幕を閉じる。


 門屋が死亡退院ステルベンした後の綺麗な病室。


 ステ部屋。

 それは、急変したり危機可能性が高い患者が優先的に入る病室であり最期を迎える病院の中でも最も最後に迎える場所。


 彼女はこれからも、この部屋に入室した患者の最期を看取ることになるのだ。

 換気の為に開けた窓から子どもの笑い声が初夏の風と混じって入ってくる。

 近所の小学校の帰りだろうか。きっと、これからもこの声はこの病室に変わりなく存在るのだろう。


 小暮は、静かに両手を重ねると頭を下げ、そして言った。

「門屋さん。本当にお疲れ様でした」

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