お守り
ジギーが次に現れたのは、翌日の朝だった。孤児院の横の林に置いたままだった機関服を手渡され、フォルテナはひったくるようにしてポケットの中を確認した。
――あった
そこにあった手になじんだ形と冷たさに、涙が滲んだ。これは、ナギニーユが救った人に手渡すお守りだ。誰かを救うことが出来なかった時の、悲しさを隠しもしない顔、そして救えた時のお日様のような笑顔を思い出す。ナギが人を殺すはずなんてない。
そのまま感傷に浸りそうになり、ジギーの存在を思い出して慌てて天井を見上げた。
「まだ、悪いのか?」
そんなフォルテナと、半分も空いていない食器を見比べてジギーは言った。涙に気が付いていないふりをしてくれていることに感謝しながら、フォルテナはちがう、と首を横に振った。ナギニーユの仮面について話さないことに、強い罪悪感を感じて目を伏せる。
「じっとしているからお腹がすかないだけです。もう、代償は抜けました。いろいろ、ありがとうございました」
フォルテナは素直に頭を下げる。
ジギーは何も言わずに椅子に座って、フォルテナが残した料理を食べ始めた。冷めたスープを啜って、パンを齧りながら、鳥を蒸したものを口の中に捻じ込む。
新たに頼めばいいものの、相当お腹がすいているのだろう。ジギーはごくん、と口の中のものを飲み込み、フォルテナを見て、眉を寄せたおかしな顔をした。
「……気持ち悪いなあ。お前が素直だと気持ち悪いわ」
「なっ。……いいです。もう二度と言いませんから」
フォルテナが膨れると、ジギーは本当におかしなものを見るような目で見て、食事を再開した。
フォルテナは今までずっと心の上に被せていた蓋が外れて、忘れかけていた沢山の感情が溢れているように感じていた。こんなにたくさんの温かい感情を、かつての自分が持っていたことを思い出す。持っていたことすら忘れていたのに「ナギニーユが生きていた」ただそれだけで世界がこんなにも変わった。疑問や不安は残っているけれど、それは解決していけばいいことだと思える。
皿に付いたソースを最後のパンで舐めとるようにして、ジギーは食事を終えた。フォルテナはケトルを掴んで、底に手を添えて霊力を集中する。コポコポとお湯が沸いた。
「便利だよなあ」
フォルテナの淹れた紅茶のカップを受け取りながら、ジギーが感心したように言った。そういえば、ジギーにお茶を淹れてやるのは初めてかもしれない。ナギニーユは、今もミルクで煎れた甘い紅茶を飲むのだろうか。自分の為にも紅茶を淹れながら、緩みそうになる口元を引き締める。
「あとは」
ジギーが急に話しを切り出してきて、フォルテナは飲もうとしていた紅茶を置いた。良いから飲みながら聞け、と促されてカップに口を付ける。良い茶葉を使っているらしく、香りがよい。
「アティファを連れ出せた。今は隣の俺の部屋で待たせてる」
ジギーは親指で、フォルテナの部屋の壁を指さす。そこに、アティファが居るというのだろう。
「どうやって?」
フォルテナが慌てて置いたカップがソーサーにあたって、かしゃん、と大きな音を立てた。ジギーはちらりとカップを見てから、頭の後で手を組んで椅子の背もたれに寄りかかった。
「まあ、やりようはいくらでもある。……で、イスラなんだが、アティファの話じゃ死霊に憑かれたらしい」
「はあ!?」
フォルテナは目を見開いて、まだ揺れている紅茶の波紋を見つめた。孤児院のように人が多く集まっている場所で死霊対策をしていないなんて考えられない。
「本当だとしたら、アマランス神殿に向かっているはずですね? 事務局に行って確認しましょう」
「もう行ってきた。ヴェイアの事務局では、イスラの事を把握してない」
フォルテナは機関服に左腕だけを通した状態で止まる。死霊憑きが出たというのに、トギノス事務所が把握していないとはどうゆうことなのか。ジギーは天井を見つめて、瞬きをした。目の下のクマがいつもよりも濃い。疲れているのだろう、と思うとそうさせてしまった自分の軽率な行動を思って胸が痛んだ。
「精霊憑きを通さずに神殿に向かったということですか? じゃあ直接アマランス神殿に向かいますか?」
「いや、一旦イグマイに戻る。そろそろ怒られるだろうし、対策しておきたいこともあるしな」
そう言って、ジギーは目を閉じた。怒られるって何に? と、聞き返そうとしてフォルテナは口を閉じた。ジギーの胸が大きく上下している。まさかと思って近づくとすうすう、という規則正しい呼吸音だ聞こえた。驚いたことに一瞬で眠りに落ちたらしい。
フォルテナは、静かに機関服を身に着けた。ジギーは寝かせておきたいが、部屋で待っているというアティファが心配で、様子を見に行ってみようと思ったのだ。
足音を立てないように、ドアに向かうフォルテナの制服の裾が、ジギーの長い腕に掴まれた。
「どこへ行く」
「あの、アティファの……」
「そうか」
ジギーは椅子に座ったまま首をごきんごきんと回した。その拍子にトップハットが足元に転げ落ちた。フォルテナは条件反射のように屈んだものの、汚れた帽子を見て拾い上げることを一瞬ためらった。
だが、この姿勢になって拾わないのもおかしい。ブリムの端を持ってジギーに差し出した。
「お前、息止めてるだろ? 汚い、臭う、と思ってるだろ?」
「思っていません。早く受け取ってください」
フォルテナは更に帽子を突き出す。ジギーは、黙って見下ろしたまま受け取ろうとしなかった。業を煮やしたフォルテナは、帽子をぽん、とジギーの頭に向かって投げる。帽子は上手くジギーの頭に収まりそうになったところで、くるりと向きを変えてフォルテナの頭の上に収まった。
「うわあ!」
フォルテナは思わず帽子を叩き落す。帽子は床に着く前にくるりと回転して浮かび上り、ジギーの頭の上に収まった。
――風を司る神霊、ヲン=フドワの力
フォルテナは息をのんで一連の動きを追った。ジギーの能力を見たのは初めてだったのだ。そもそもヲン=フドワの力を見るのも初めてだった。
「思ってるじゃねえか。さて、帰るか。アティファを呼んでくるから荷物をまとめて置け」
ジギーが愉快そうに笑って立ち上がって部屋を出る。ドアを閉める寸前に、開けるときは誰であるかを確認するよう、子供に言うように言い聞かせられた。
フォルテナは閉まったドアに向けて舌を出してから、私物を手際よくまとめ始めた。空になった食器をまとめ、毛布を畳んだところで、部屋のドアがノックされた。
ジギーだろうとドアノブを掴んだが、忠告を思い出して手を止める。
「俺だ」
廊下からジギーの声が聞こえて、フォルテナは安心してドアを開けた。
「よし、いきなり開けなかったな。これからもそうしろよ」
満足げなジギーを偉そうにと睨んで、それでも何も言い返さずに我慢する。衣擦れの音が聞こえてフォルテナは視線を下げた。
ジギーの足元に、灰色のワンピースを着た幼い少女が所在なげに立っていた。五つくらいだろうか。顔は俯きながらも、目だけはしっかり上げてフォルテナを観察している。フォルテナは慌てて、寄せていた眉を解いて笑顔を作った。
「こんにちわ、アティファね?」
アティファはすっと目を逸らせる。イスラとは随分印象の違う少女だとフォルテナは思った。そういえば自分の姉、ヒュンメルと自分も真逆の姉妹だった。姉妹というのはそういうものなのだろうか。姉のようになりたくて、でも姉にはなれない妹は、違う人間になろうとするのかもしれない。
「……こんにちわ」
しばらく経ってから、消え入りそうな声でアティファが言った。フォルテナはアティファの前にひざまずく。
「私はフォルテナ。イスラの友達」
「お姉ちゃんの!? フォルテナ!?」
アティファの顔が、ばね仕掛けの人形のように、ぱっと上がる。目はまん丸で、頬は真っ赤だった。吹き出したい気持ちを堪えてフォルテナは頷いた。こうやって明るい表情をすれば、確かにイスラによく似ている。
アティファは灰色のワンピースをたくし上げた。下から生成のドロワーズと、少し出ているおへそが顔を出した。アティファは更にドロワーズに手をかける。
「ち、ちょっと、アティファ、何で、何してるの?」
フォルテナは慌てて、その手を押さえる。アティファはきょとんとした顔をして、フォルテナを見た。その隙に、さっとワンピースを元に戻す。まだ幼い子供とはいえ、廊下で素っ裸になるのはまずい。少し変わった子なのだろうか。
「行くぞ」
ジギーが言うと、アティファはびくっと肩を振るわせた。どこに、と聞きたいのだろうが、ちらっとジギーの顔を見てすばやく目を逸らす。大人の顔色を窺う生活をしてきたことが見て取れた。フォルテナは、怯えさせないように少し屈みこみ、アティファの前に笑顔で手を差し出した。
「行こう、アティファ」
アティファの小さく柔らかい手が、遠慮がちにそっとフォルテナに触れる。その手をぎゅっと握り返すと、見上げたアティファの顔が安心したように綻んだ。
――行こう
ヴェイアではいろいろあった。ありすぎて頭の整理も心の整理も付いていない。それでも自分で選んで、自分の足で歩いて行かなくてはならないのだから。