記憶・2
日曜の午後、伸一はいつもの休日と同じようにテレビをつけっぱなしにしながらソファで眠り込んでいた。
由美と奈美の二人は公園に散歩に出かけており、部屋のなかはボリュームを絞ったテレビの音だけが静かに聞こえている。
その伸一の眠りを覚ますかのように電話のベルが鳴り出した。
ビクリとして、体を起こす。
周囲を見回し自分以外に誰もいないことを確認してから、伸一は渋々といった様子でゆっくりと立ち上がり受話器を取った。
「……はい」
少し寝ぼけた声で電話に出る。だが、次第にそのボンヤリとした表情が変わっていった。
「え? す、すいませんがもう一度言ってもらえますか?」
――あなたの書いた脚本が入選したんです
男は繰り返した。
その男は自分の名前も、どこかのテレビ局の名前も言っていたが、伸一はすでに忘れてしまっていた。
「ほ……本当ですか?」
――はい、それで今後のことも含めまして一度お話をさせていただきたいのですがよろしいでしょうか?
「しかし……私はそんなものに応募した覚えがないのですが……」
もう何年もの間、脚本など書いたこともない。
――それはおかしいですね。『明日への時間』というのは岡野さんの作品じゃないんですか?
「それは確かに私の書いたものです。でも、5年も前に書いたものです。どこかの賞に応募したのかもしれませんが……それが何だったのかも忘れてしまいました」
――そうですか。これは不思議なこともあるものですね。ひょっとしたらどこかに紛れていたものが、ひょっこりと現れたってことでしょうか。では、どうします?
「どうって……」
――あの作品は素晴らしいものです。たとえそれが5年前のものだとしても、ドラマにする価値はあると思っています。ただ、岡野さんご本人が応募していない、受賞は迷惑だと仰るのなら……
「い、いえ、迷惑なんてことはありませんが……」
――では、受賞をお受けなさいますか?
「ええ。もちろんです」
間髪おかずに伸一は答えた。
若い頃に夢見たものが、突然、目の前に姿を現したのだ。
――それでは詳しい打ち合わせをしたいのですが、今度、そちらにお邪魔してもよろしいでしょうか?
「はい。よろしくお願いします」
――わかりました。それではまた改めて電話させていただきます。
丁寧な口調でその電話は切れた。
伸一は受話器を握り締めたまま、その場に立ち尽くした。
ほんの少しの間、伸一は今自分に起きたことがわからなくなっていた。そして、ゆっくりと電話の内容を思い出していった。
(俺の脚本が入賞?)
胸の奥底で眠っていたものが目を覚ましたような気がする。
忘れていた熱い夢への情熱。それが再び体の奥から沸いてくる。
(やった……ついにやったんだ!)
伸一はその場に立ったまま小さく拳を握り締めた。
* * *
野川という男がやってきたのは一週間後の日曜日だった。
伸一から何も聞かされていなかった由美は、野川の訪問に面食らった。
「私、『M-TOWN』の野川と申します」
野川はそう言って名刺を差し出した。伸一はちらりと名刺を見ると、すぐに無言で隣に座っている由美に名刺をまわしてよこした。
名刺には『M-TOWN 野川公彦』とだけ書かれている。
40代後半だろうか。大柄な体格にダブルのスーツを着込み、黒いフレームの眼鏡をかけ、その口元には無精髭を蓄えている。
「うちはドラマの制作会社でして、各テレビ局からの依頼を受けてドラマを制作するのを業務としております」
不思議そうに名刺を見つめる由美に向かって野川はそう説明した。
「このたびは岡野さんの作品が当社の『脚本新人賞』を受賞され、そのドラマ化の件と今後の執筆活動について打ち合わせをさせていただきたいと思いお伺いさせていただきました」
由美は名刺をテーブルの上に置いてから口を開いた。
「あの……主人の脚本が何かの賞を受賞したというのは本当ですか?」
「本当ですよ。ご主人からお話は?」
「いえ、ぜんぜん。今日初めて知りました」
「そうですか。それじゃ驚かれたでしょう?」
「はい。昔、脚本を書いていたことは知っていたんですが、最近はそんなことは全然教えてくれなかったので……」
ちらりと伸一を横目で見ながら由美は答えた。
「最近のやつじゃないよ」
伸一は由美に向かって言った。「もう5年も前のやつに送ったやつなんだ」
「え? それじゃどうして?」
「さあ、どうしてでしょうなぁ」
と答えたのは野川のほうだった。「原稿は一時、資料室に運ばれ保管されることになっています。資料室には過去の原稿も保管されているので、偶然にそれが混じってしまったのかもしれません」
「そうなんですか。それなのに主人の脚本が受賞なんですか?」
「本来は対象外ということになるんでしょうなぁ……ただ、正直に言わせてもらえれば、我々としてはそれがいつの応募作かなんてことはどうでもいいことなんですよ。問題はその脚本が優れているかどうかです。今回は二百点を超える応募があったんですが、岡野さんの作品は素晴らしい出来でした」
「もうだいぶ前に応募したものだったので正直言って応募したことも忘れてました」
伸一はわずかに照れながら言った。
「どんな作品なんですか?」
由美の質問に野川はちらりと伸一のほうを見た。
「おや、奥さんには教えていないのですか?」
「あまり作品の内容については話した事はないですね」
「そうなんですか」
野川は由美に顔を向け――「良い作品ですよ。今度、ドラマになりますので、それをご覧になってください」
「はぁ……」
「それではさっそくですが――」
野川の顔つきがほんの少し真剣なものに変わった。「岡野さんは、今後、脚本家として仕事していくお気持ちはおありですか?」
「プロってことですか?」
伸一も真剣な眼差しで野川を見た。
「もちろんです。よろしければうちの専属の脚本家になりませんか?」
「え?」
野川の言った夢のような一言に由美は耳を疑った。5年も前に書いた脚本が受賞したというのも驚きだが、こんなにすぐにプロの脚本家として仕事を依頼されるなんてことがあるのだろうか。
「いやぁ、唐突で申し訳ないです。あの作品はスタッフのなかでも話題になりまして、岡野さんならばプロとしてやっていけるんじゃないか。いや、ぜひそうしてもらえないかって話になりましてね。それで今日、お伺いさせていただいたんですよ」
「そんな……」
伸一は嬉しそうに口元をにやつかせた。
その気持ちは由美にとっても同じだった。伸一が若い頃、ずっと脚本家になりたかったことは由美も知っている。しかもたった一つの作品をきっかけとして、夢だったプロの脚本家になれるかもしれないチャンスが目の前に広がっているのだ。喜ばないわけがない。
だが、不安がないわけではない。
「そんな簡単にプロになんてなれるものなんですか?」
由美が野川に訊いた。
「力さえあれば大丈夫です」
すぐに野川は答えた。
「主人にはそれほどの力があるんでしょうか?」
由美は不安そうな顔で訊いた。伸一の夢が叶うことは喜ばしいことだ。だが、プロの脚本家となれば今の会社も辞めなければいけなくなる。
「よせよ」
少し伸一が不機嫌そうな声を出した。野川は真直ぐに由美に顔を向けて言った。
「もちろんです。岡野さんの作品には誰でもがひきつけられる魅力がある。岡野さんならばプロの脚本家として大成功を収めることが出来ると思いますね。もちろんこれからも勉強はするべきかと思いますけどね」
「勉強というのは?」
「別に学校通いをしてくれと言っているわけじゃないですよ。うちは受賞を理由に馬鹿高い授業料を払わせて学校で勉強させる、なんて詐欺まがいの商売なんてしていませんからね。つまり人生としての勉強ですよ。特にいろいろなところを旅行してみたりしてみるのもいいことだと思いますよ。そうすることによってさまざまなイメ-ジが岡野さんのなかでつくられるわけです。どうですか? プロになってみませんか?」
野川は目を輝かせて伸一のほうを見た。
「あなた……」
由美はちらりと伸一を見た。伸一はテーブルに置かれた野川の名刺を見つめながら真剣な顔で考え込んでいる。だが、その表情はすでに答えを決めているようにも見える。
「悪い話じゃないと思いますよ」
「あの……もし、プロの脚本家になるとなったら今の仕事はどうなるんですか?」
由美が野川に問いかけた。
「そうですね。こちらとしては良い脚本さえ書いてもらえるなら、他の仕事をするかどうかについては立ち入るようなことはしません。ただ、他の仕事もやられて、さらに脚本となると……どれほどの仕事が出来るでしょうね」
野川の言葉は暗に辞めるべきと言っているように聞こえる。
「辞めなきゃいけないってことですね」
「そうは言ってませんよ。けど、プロの脚本家になるのが岡野さんの夢なんでしょう。しかもプロの脚本家となれば収入だってそれなりのものです。ご主人を信じてみるのも大切なことじゃないでしょうか。中途半端が一番悪いですよ。すぐに答えを出す必要はありません。お二人で話し合ってみてください」
* * *
「どうすればいいと思う?」
夕食を済ませ後片付けをしていると、テレビを観ていると思っていた伸一が突然声をかけてきた。それは当然の質問だった。
由美は手を止めて振り返った。由美自身、後片付けが終わったあとでゆっくりと伸一と話しをしようと思っていたことだった
「さあ、どうしていいか……あんまり突然で……」
エプロンで濡れた手を拭きながら、そっと居間の伸一に近づきながらその表情を伺った。
「チャンスなんて突然やってくるもんだよ」
「もっと早く話してくれれば良かったのに」
「悪い。俺も電話をもらった時は半信半疑だったんだ。おまえに話した後で間違いでしたなんてことになったら格好悪いだろ」
伸一は軽く笑いながら言った。
「あの人、信用出来る人かしら」
そう言いながら由美はソファに腰を降ろした。
「ドラマの制作会社なんて、どこも同じようなもんだよ。夢を追いかけるならそれくらいのリスクは覚悟しないとな」
伸一はすでに心を決めてしまっているように見える。
「脚本家になるのがあなたの夢だったものね」
「ああ」
「でも、会社はどうするの?」
「会社か……」
途端に伸一は渋い表情になった。「なんとかなるんじゃないか」
「どうなんとかなるの? 一応、家のこともあるしそんな簡単に決められないでしょ?」
伸一が脚本の仕事をしたい気持ちはよくわかるが、あまり簡単に受け入れてしまうのはやはり不安だった。
「やめたほうがいいって思ってるのか?」
「そうじゃないけど……慎重に考えて欲しいわ」
「それは結局、やめろって言ってるんだろ?」
そう言って伸一はごろりと背を向けてソファに横になった。それはどこか投げやりでふて腐れているようにも見え、あまり気持ち良いものではなかった。
「だから、そんなこと言ってないじゃないの」
「じゃあ、どうしろって言うんだ?」
「それを話し合ってるんでしょ。最初は会社を辞めずになんとかやっていけないかしら?」
「じゃあ、いつ執筆しろって言うんだ?」
「夜とか……休みの日とか」
「それじゃ、俺は働きづめってわけか」
伸一は拗ねたような言い方をした。少し怒り始めている証拠だ。「それに中途半端が一番悪いって野川さんも言ってたじゃないか」
「それはそうだけど……じゃあ、あなたは会社を辞めるつもりでいるの? もし、脚本家として成功出来なかったら――」
「嫌なこと言うなよ。おまえは俺が初めから失敗するって決めつけてるのか?」
「そうじゃないわ」
「ずいぶん信用がないんだな。おまえにそんなにまで信用されてないとは思わなかったよ」
「そんなんじゃないけど……」
「お前も今でも絵を描いているじゃないか。おまえだって夢を追いかけているんだろ? おまえは良くて俺はダメなのか?」
「私はただ慎重に考えて欲しいだけよ」
「俺は慎重だよ。だが、慎重なだけが良い結果を得られるとは限らないんだ。時には決断が大切なんだ」
伸一は起き上がると強い口調で言った。
「あなた……」
「俺は会社を辞めるからな。辞めてプロの脚本家になるんだ」
そう言うと伸一は再びゴロリと寝転び、由美の反論を聞くまいというようにテレビのリモコンに手を伸ばしてボリュームを上げた。