記憶・1
ボクは死ぬの? どうして?
なぜ? ボクはどこに行くの? ボクの夢はどこに行くの?
ねえ……お母さんは?……どこ?
見えないよ……
* * *
伸一にとって由美の絵を見るのは決して心地よいものではなかった。
絵は、由美の夢そのものだった。
だが、伸一にとっては、その絵のなかに自らの捨てた夢を見せ付けられる思いがした。
自分が捨てた夢。
伸一にも脚本家になりたいと本気で願った時期があった。大学時代、伸一は毎日時間を惜しんで脚本を書き続けた。自分の書いた脚本をテレビ局や映画会社に持ち込んだこともあった。その頃知り合った由美とともに夢に向かって突き進みたいと本気で語り合い、同じように夢を持つ由美を愛した。だが、夢に向かって進もうとしていた伸一を、時とともに現実が捕まえた。生活のために働かなければいけないという現実。そのためには夢を捨てなければいけないという現実。自らの才能の限界という最も酷な現実。それに気づいた時、すでに由美のお腹のなかには奈美という命が芽生えていた。それは尚更、現実から逃げられないことをつきつけられるものだった。
伸一の心のなかでずっと憧れ続けていた夢は、いつのまにか風化し、色褪せ、そして錆付いて消えていった。
それとは対照的に由美だけは少しずつではあるが、夢に向かって進んでいる。
由美の絵のなかには、自分が捨てた世界が存在している。時折、夢を捨てた自分が愚弄されているような気分になることがあった。
(あいつは俺の夢に惚れていたんだ)
脱け殻のように会社勤めをする自分を由美がどう思っているのか、想像するだけで辛かった。
もちろん伸一は由美のことを今でも愛していたし、その結果として生まれた奈美のことを誰よりも大切に思っている。自分が大切にしてきた夢が、現実のなかで埋もれてしまったことも大切な家族に比べれば些細なことだといえる。
それでも、由美の描く絵だけは真っ直ぐに見ることが出来なかった。
そのためにはアルコールに頼るのが一番手っ取りばやい方法だった。どんなに早く帰宅出来る時にも必ず飲んで帰るようにした。そうすることで現実に目をむけずに済むように思えた。それがいかに卑怯な手段であるかは自分でもよくわかっていたが、そうすることを止めることは出来なかった。しかし、なぜなのかはわからないが、それでも時折その自分を苦しめる由美の絵を無性に見たくなることがある。そんなときはこっそりと夜中にベッドから抜け出し暗やみのなかで由美の絵をじっと眺めるのだった。あえてそうすることで自らの今いる場所を確認出来、安心出来るような気がした。
だが、今夜は違っていた。
(なんなんだこの絵は?)
薄暗い背景、そしてそこにたたずむ一人の男。それはこれまでの由美の絵とはまったく違うものだった。
ここ最近、由美の様子がおかしい事は伸一も気づいていた。いつも何かに悩まされているような顔をして、これまで以上にキャンパスの前に座る時間が増えてきている。だが、その理由がまったくわからない。奈美が夜中に突然泣きだしたり、意味のわからないことを言い出したりするのも、きっと由美の影響だろう。
(いったいあいつは何をやっているんだ)
夢を追う由美と、現実のなかで生きる自分と、これまでも考え方が違うと感じる部分がないわけではない。それでも、それなりに由美のことを理解出来ていたつもりだ。
だが、最近の由美の行動は理解出来ないところがあった。
(あいつは何を考えているんだ?)
伸一にはこの時、由美と奈美がどのような状況に立たされているのか全く知らなかった。
* * *
朝から冷えた空気が街を包んでいる。
公園のベンチで、時折落ちてくる細かな雪を見つめながら、由美はあの〈男〉のことを考えていた。
隣には奈美が座り、その由美の顔を心配そうに見上げている。
〈男〉の沈黙はそのまま由美の不安へと変わってくる。
(何か企んでいる……それとも何かを待っている?)
由美の胸のなかには、自分があの〈男〉を知っているという確信に似た思いがあった。それなのに、なぜそんな気持ちになるのか、具体的なことが何も思い出すことが出来ない。
ただ、あの〈男〉のことを考えるとき、どうしてもそこに父の面影が重なってくる。
(どうして?)
あの〈男〉と父とどんな関係があるというのだろう。
由美が子供の頃に行方を消してしまったことも、その一つの理由かもしれない。なぜ、父が行方を消してしまったのか、それは母も話してはくれなかった。話をしていて父の話題になると、母はわざとそのことから話を逸らすようなところがあった。
母は何か知っていたのだろうか。
「お母さん」
ふと自分を呼ぶ奈美の声に由美ははっとして顔をあげた。
「どうしたの?」
奈美の顔を覗きこんだ。何かに脅えたような目をしている。由美はその奈美の視線を追った。
その視線の先にあるものを見て、由美は表情を強張らせた。
〈男〉の姿がそこにあった。
〈男〉が歩いてくる。
その足は確実に由美のほうへと真直ぐに向かっている。
由美は咄嗟に奈美の身体をきつく抱きしめた。
足が震える。
〈男〉は近づいてくると、二人の前に立った。
「怖いか?」
静かな口調で〈男〉が言った。
「……誰が……あなたなんて……」
そう言った自分の声がわずかに震えている。
「この前はよくも邪魔してくれたな」
「邪魔?」
「くっくっく……わかっていないようだな」
「何を言ってるの?」
「所詮、人間などその程度。この俺に勝とうなどと思うなよ」
〈男〉は嘲笑うように言った。
「ふざけないで……あなたの思い通りにはさせないから」
由美の言葉に〈男〉の口がニヤリと歪んだ。
「そうか。なら、おまえの力がどれほどのものか見せてもらおう」
〈男〉はそう言うと、くるりと由美たちに背を向けた。そして、まるで空気に溶け込んでいくように、すぅっと姿を消していった。
〈男〉が消えた後もしばらくの間動くことが出来なかった。
「お母さん……痛いよ」
奈美の声にはっと我に返り、知らぬ間に強く抱きしめていたその小さな身体を離した。
「ごめん」
鼓動が激しく鳴っている。
いよいよ〈男〉が自分に向かってくる。それがはっきりとわかった。
ふと、一つの視線が自分に向けられていることに気づき、由美ははっとして向かいのベンチを見つめた。
若い男が座っている。
青いジーンズ、黒のハーフコートの下に茶色いセーターが見える。その顔つきは若く、学生のようにも見える。
男はじっと由美を見つめている。
(誰?)
そう思ったとき、若者が突然立ちあがると由美のもとへと歩み寄ってきた。
思わず身を引き締める。
若者は由美に近づくと口を開いた。だが、若者の言葉は意外なものだった。
「あなたには、あの〈男〉の姿が見えるんですね」
静かに若者は言った。
「え……それじゃあなたにも見えたんですか?」
「僕にはいろいろなものが見えますから」
若者はそう言って軽く笑ってみせた。
(いろいろなもの?)
由美には若者が言ったことがわからなかった。まるで自分には〈男〉の姿が見えることは当然とでも言うような口振りだ。それでも由美には、自分以外にも〈男〉を見ることが出来る人間がいるということが嬉しかった。
「良かった」
由美は思わず胸を撫で下ろした。「私以外にも見える人がいたんですね。誰も私の話を信じてくれる人がいなくって……」
「確かにあいつを見ることが出来る人間は滅多にいませんからね」
「あの男は何者なんですか?」
「さあ……どう説明すればいいでしょうね」
若者は少し困ったように言った。だが、その表情に由美はますます嬉しくなった。この若者ならば、あの〈男〉について情報を持っているに違いない。
「あの男のせいでもう二人も死んでるんです」
堰を切ったように言葉が口から溢れてきていた。〈男〉を見ることが出来る人がいたことの喜びから、由美はこれまでのことを若者に話した。
(この人ならわかってくれるかもしれない)
若者は立ったまま、由美が話すのを静かに聞いていた。
「――あいつ、今度は私を狙うと言っています。いったいどうすればいいんでしょう? あの男を知ってるなら教えてください。どうやれば倒すことが出来るんですか?」
「あいつを倒す? 勇ましいですね」
若者は少し驚いたように由美を見つめた。
「え……」
「あの〈男〉と戦うことなど出来ませんよ。もちろん倒すことも無理でしょう。あの〈男〉はそういう存在ですから」
「でも……私にはそういう力があるみたいなんです。あの〈男〉を見ることが出来るのもそういうことなんでしょ?」
「ええ。あの〈男〉は普通の人間には見ることは出来ない。確かにあなたや娘さんには、少し他の人間には特別な力があるようですけどね」
若者はちらりと奈美のほうに視線を向けた。そして、さらに続けた。
「けれど、だからといってあの〈男〉と戦うことは出来ません。もちろん僕だってあの〈男〉と争うことなど出来ません」
「あの〈男〉は何者なんですか?」
「あいつは<夢喰>ですよ」
「<夢喰>?」
「この世の中は不公平に出来ている。そのなかで自分という存在を呪い、憎しみを持った者が<夢喰>となるのです。<夢喰>は人間の闇の部分を映す鏡、そして、一陣の風と同じです。その風がどの方向に向かっているかは帆をはる船次第。つまりその人の心次第……とは言っても、人間の心というのはもともと負の力が強いものです。奴が負の塊に見えるのはそのせいです。奴に心を食われないようにするには自分を見つめ、強くなるしかない。あの〈男〉を倒そうなんて考えちゃいけません。<夢喰>は時がくれば、自然に浄化されていくものです」
「そんな……」
「奴は人間に幻覚を見せ、その幻覚に惑わされた人間の夢を喰うのです。奴が見せる幻覚、それは人間の弱さです。もし、あいつと戦うというのであれば、その弱さを克服することがあなたの戦いと言えるでしょう。ただ、普通と少し違っているのは……あの〈男〉があなたたちに特別な感情を持っているところです。そのせいか、普通の<夢喰>よりも強い『力』を持っている。確かにちょっと危険な存在ではありますね」
「特別な感情? なぜ?」
「それは僕にもわかりません。でも、ひょっとしたら……」
若者は少し考え込むように視線を落とした。だが、すぐに顔をあげて――「いや、これはあなたの問題です。僕が何かを言うことではありません」
「そんな……私はどうすれば……」
「それはあなたが考えることです。でも、唯一言えることは、自分という存在を見つめることです。そして、心を強くすることです。そうすればあの〈男〉を恐れる必要はありません。きっとあなたなら大丈夫ですよ」
若者は透明な目で由美を見た。
(この人は何を知っているの?)
まるで〈男〉のことも、由美のことも全て知っているような口調。
「あなた……いったい誰なの?」
「ただの通りすがりの霊能者ってとこですよ」
若者は静かに笑った。そして――「あなたが本当の夢を掴めることを祈ってますよ」
そう言うと立ち去っていった。
若者の後ろ姿を由美はぼんやりと見送った。
「自分を見つめ……強くなる」
由美は若者の言葉を繰り返した。




