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1話


「どうだ! 良い所だろう、勇樹!」


 勇樹は隣でハンドルを握る男にそう言われ、ため息を押し殺して窓の外を見た。

 見渡す限りのド田舎だ。高速道路を降りて市街地を抜け、視界が開けたかと思えばこれだ。

 まず目につくのは、視界のほとんどを埋める乾いた田んぼ。春分の今頃はまだ水を張っていないらしい。

 民家がぽつりぽつりと立ち、それに寄り添うように薄暗い林が生えている。よく見ると、林の中にはたいてい小さな鳥居や祠のようなものが見えた。


「父さんはな! こういう広々としたところで暮らすのが夢だったんだ!」


 男は、勇樹の沈鬱な表情など意に介さず叫んだ。何十年も前に舗装されたきりだろうひび割れたアスファルトを、乱暴に踏み鳴らして走るため、自然と大声になる。


「……そうなんですか。それは良かったですね」


 勇樹は、聞こえても聞こえなくてもどちらでもいいという風に答えた。

 広々とした風景に思えるが、遠くを見れば、四方をぐるりと高い山々に囲まれているのがわかる。巨大なすり鉢の底を走っているような、逃げ場のない閉塞感があった。

 以前から、高速道路から眼下に見える山あいの町を見ては、あんな場所でどうやって生きているのかと不思議に思っていた。まさか自分がそこに住むことになるとは思いもしなかった。


「ははははは! 見てみなさい、柿の木があんなに並んでるぞ。ウチでも育てような!」

「………………」

「おっ、ご近所さんかな。浅井です! 引っ越してきましたァ!! よろしくお願いします!!」


 車の窓を全開にし、田んぼの端にいた見ず知らずの農家に向かって突然大声を張り上げる。過剰に朗らかな義父、晃一の横顔を見ながら、勇樹は鈍い頭痛を覚えた。


 この春で高校一年生になる。本来なら新しい環境への期待や不安がある時期のはずなのに、どうしてこんな見知らぬ土地へ連れてこられなければならないのか。

 実の父親は、一年前に交通事故で亡くなった。同じく事故に巻き込まれていた自分は、偶然居合わせた晃一に助けられた。それが縁で、母はこの男と再婚した。

 母は遠く離れた街の病院に入院している。お腹には新しい命が宿っているが、臨月にはまだ遠い。妊娠の経過が思わしくなく、絶対安静が必要だという理由で、晃一がわざわざ手配した病院だ。


 車は平地を抜け、黒々とした山の中へと分け入っていった。

 両脇から崖のような山肌が迫り、さっきまでの明るい日差しが届かなくなる。さらに曲がりくねった道を進むと、不意に視界が開けた。

 そこは、険しい山々の合間にぽっかりと隠されたような、平坦な土地だった。


「ここが私たちが住む、奥水(おくみ)だ。区分としては、高速を下りたところの、市街地の一部になるけどな」と、晃一が言った。


 集落の中心には少し太めの道路と、それに沿うように細い川がうねりながら流れている。その川と道を境にして、片側には平らな田畑が一面に広がり、もう片側には古びた家々が点々と立ち並んでいた。

 集落全体が川に沿ってなだらかな上り坂になっている。

 一見するとのどかな農村だが、周囲はどこを見上げても圧迫感のある山林に完全に包囲されており、外界から隔絶された巨大な檻の中にいるようだった。


 車は集落の中心より少し奥に進んでから、住宅がある側に入り、一軒の家の前に停まった。

 隣の家までは、間に畑や空き地を挟んで数十メートルは離れている。今まで住んでいた地方都市の住宅街の、隣の生活音まで聞こえてくる距離感とはまるで違った。

 目の前の家は、築数十年は経っていそうな、どこにでもある普通の中古の戸建てだった。ただ、田舎の家らしく広い庭がついている。外観から察するに部屋の数も相当なものだろう。

 これから生まれてくる弟を含めた四人家族なら、ちょうどいいのかもしれない。三人で暮らすには持て余す広さだ。


「さあ、勇樹。荷物を部屋に運ぼう。母さんが退院するまで、散らかしたままにしておくのはだめだぞ」

「わかりました」

「こら、母さんとの約束を忘れたのか?」

「はい……お父さん」

「よし! それじゃあ段ボールに書いてあるとおり、それぞれの位置に! はじめ!」


 晃一は車のトランクから段ボールを四ついっぺんに抱え、軽快な足取りでスタスタと歩き出した。

 勇樹は『台所』と書かれた段ボールをひとつ持ち上げ、重い足取りで晃一のあとを追った。未だに、この男を”父親”と呼ぶことには強い抵抗があった。


「おんやあ、今日じゃったかいのう」


 突然、背後からしわがれた声がした。

 勇樹が驚いて振り向くと、すぐそこに老婆が立っていた。小柄で腰が「く」の字に曲がっており、薄汚れた手ぬぐいを頭にかけてあごの下で結んでいる。足音など全く聞こえなかった。


「こ、こんにちは」

「こがいなとこへ、よう来たなぁ。ほんまに」


 勇樹は思わず半歩後ずさった。

 ちらりと老婆の足元から背後へと目をやる。ここはすでに敷地の中、塀の内側だ。これが田舎特有の距離感というやつなのだろうか。


「こがいな『カミ』のほうに住み着きよってからに。よそもんは遠慮っちゅうもんを知らんのう」

「はぁ……カミ、ですか?」

「あっちがカミ、川上のほうじゃ」


 老婆の節くれだった指の先、集落の奥のほうを見上げる位置に、村を見下ろすように建つひときわ大きな屋敷があった。周囲の木々を切り払い、そこだけが異様に開けている。


「ああ、神谷(かみや)さんですね」


 荷物を置いた晃一が、人当たりの良い笑顔で戻ってきた。


「ほんまなら、この辺りは神谷サンの地所(じしょ)じゃっちゅうのにな。あそこの次男坊が、なにをトチ狂って売りに出したんじゃか」

「えぇ、もちろん存じてますよ。神谷隆次(りゅうじ)さんから直接譲っていただいたのですから」


 晃一はニコニコと笑ったまま、老婆を見下ろした。


「なるほど、家の位置で序列を作るというのは、わかりやすくて良いですね」

「そうじゃ。本来ならお前らよそもんは、わしらよりもっと下の……」

「つまり」


 晃一は、世間話でもするようなごく自然なトーンで老婆の言葉を遮った。


「つまり、あなたは私より『下の人間』ということですね」


 老婆が言葉を失い、目を見開いて晃一を見上げた。

 勇樹は息を飲んで、黙っていた。張り詰めた空気の中、晃一だけが楽しげに微笑んでいる。


「冗談ですよ」

「……ヒッヒ、おもろいよそもんが来たのう」


 老婆は口の端を歪めて笑ったが、その濁った目は全く笑っていなかった。逃げるように背を向ける。


「今日の晩、集会所で寄り合いがあるけえ。顔を出しんさいや」

「えぇ、もちろん! ご近所の行事には積極的に参加したいと思っています」


 晃一が愛想よく返事をしながら老婆の背中を見送るその目に、一切の感情が宿っていないのを、勇樹は見逃さなかった。

 胃の底がひやりと冷たくなる。この男がこういう目をしたあとには、必ず嫌なことが起こるのだ。


 勇樹は手元の段ボールを強く握りしめた。


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