第25話「離群索居」
今日の関教場のHRは、普段の5割増しで静かだった。
騒めきは一切ない。
だが、誰もが呼吸を浅くしているのが分かるほど、空気は浮き立っていた。
その理由は明白で、三年後期『地域課への実務修習』の配属発表があるためだ。
これまで校内の閉じた環境で訓練を積んできた学生たちが、初めて外へ出る。
本物の警察署で着替え、本物の交番に立ち、現実の市民と向き合う現場。
階級こそ既に巡査部長だが、警察官としての、最初の一歩である。
「……それでは、これから各自の実務収集先を告げる。」
教室を見渡しながらの関の声は、いつもより低く、重かった。
しかし教場の空気は、未だに静かに沸いていた。
呼吸の浅さや、わずかな姿勢の前傾が、その期待を露骨に示している。
これから読み上げられるのは、単なる実務収集先ではない。
どの警察署に行くかで、これまでの2年半の成績・素行・資質・成長度合い等、全ての要素の評価がわかる。
言い換えれば、自分が組織からどのくらい期待され、どのくらい必要とされているかが分かる。
それに加えて、『警察官として、最初に立つ現場』それが自分にとっての基準となる。
「名前を呼ばれた者は、その場で返事をして立ち、教卓前に来い。それぞれの所属からの指示事項を渡す。」
関の声が落ち、乾いた音を立てて決裁挟が開かれ、その視線が紙面をなぞった。
一拍で教場の空気が、さらに締まる。
「朝倉友理奈。」
「はい!」
ほとんど間を置かない明るい声に、朝倉らしさが滲む。
「姫野衣。」
「はい。」
朝倉とは対照的に、姫野の返事は短いのに芯が有り、無駄がない。
「2名は警視庁新宿警察署地域課。…就く交番は、歌舞伎町交番だ。」
告げられた瞬間、朝倉が小さくガッツポーズをした。
日本で一番大きな警察署の、日本で一番忙しい交番。
つまり、組織から最も期待されているのが、この2人という訳だ。
一瞬の静寂の後、教場のあちこちで小さく息が漏れ、羨望と緊張がないまぜになった空気が流れる。
朝倉がわずかに肩をすくめ、姫野は表情を変えないまま前を見据えている。
志望はサイバーと外事、2人の方向性は違うが、どちらも処理能力は高い。
熱い朝倉と冷静な姫野なら、共に現場に投げても崩れにくい組み合わせだ。
関の声が、間を置かず次を呼ぶ。
「横峯奈美。」
「はい!」
横峯の背筋が音を立てるように伸び、わずかに力の入った声が聞こえた。
「最上実梨。」
「……はい。」
遅れはないが、感情も乗っていない。
最上はいつも通り、結果だけを見る顔をしている。
「お前たちは、大阪府警察南警察署地域課。… 戎橋交番だな。」
道頓堀の繁華街、雑多で濃い現場だ。
その分組織からの期待は高く、横峯の拳が、膝の上でわずかに握られるのが見えた。
最上は反応を見せないが、視線だけが僅かに鋭くなる。
闘志を秘めるタイプと、外に出すタイプ。
対外的なコミュニケーションに違いがある方が、役割分担が明確になり現場は回る。
関の指が、次の行へ滑る。
「干川莉子。」
「はい!」
半拍遅れて柔らかく弾む声に、教場の空気がほんの少しだけ緩む。
関が次の名前を呼ぼうとするその一瞬、視線がわずかにこちらへ寄った気がした。
俺は無意識に呼吸を整える。
「…………浅井莉紗。」
「……えっ、は、はい!」
予想を外されたような、戸惑い混じりの返答。
干川の隣で、浅井が慌てて立ち上がる。
「返事くらいきちんとしろ。」
関の一言が、短く落ちる。
「2名。福岡県警察博多警察署地域課。中洲警部交番へ行ってもらう。」
そこで一度、教場の流れが途切れた。
干川が浅井へ何か囁き、浅井はまだ状況を飲み込みきれていない顔をしている。
そして俺の名前は、まだ呼ばれていない。
決裁挟のページは、確実に先へ進んでいる。
だが、その流れの中に、自分の順番だけが、最初から存在しないかのように欠けていた。
理解は一瞬で済み、胸の内側で何かが静かに冷えていく。
それでも俺は表情は崩さず、ただ視線だけを前に固定する。
関教官が次の名前を読み上げ、教場の期待はまだ続いている。
俺だけを、置き去りにしたまま。
安堵、期待、高揚、そのすべてが、ここにいる者たちの共有財産だった。
読み上げは終わり、関は一度、名簿から目を離して教場を見渡した。
そして、ほんの一瞬だけ、視線が俺で止まる。
「……以上だ。各自、来週から指定された所属で研鑽を積むように。また、君たちは階級から言ったら初級幹部だ。既に部下がいる状態となる。」
一拍、わずかな間を置いて、関は続けた。
「しかし、各都道府県警で採用され、既に現場で何年もやっている巡査、巡査長は大勢いる。自分より現場知識や経験が勝る年下部下から何を得て、何を指導するのか、そのことは常に考えろ。以上。」
俺の名前が呼ばれなかったことには皆気づいていた。
しかし、それを関に指摘する者をいない。
「……なお、佐藤には別途通達がある。18時に教官室へ来い。」
関の声に反応するかのように、皆の視線が横から、前から、斜め後ろから動く。
それは好奇と、理解と、そして予測済みの納得の感情が見え隠れしていた。
朝倉が何か言いかけてやめ、干川は小さく息を吐き肩をすくめ、姫野と最上は視線すら寄越さなかった。
横峯だけが、一度だけこちらを見たが何も言わなかった。
だが、言葉にしなくても、全員が同じ結論に到達していることを感じた。




