エピローグ
朝の光が、机の上のスケッチブックを静かに照らしている。
窓を開けても、相変わらず風はほとんど入ってこない。それでも、どこか遠くで流れている気配だけは、かすかに伝わってくる。
妻が出かける音を聞きながら、鉛筆を手に取った。
指先に、屋上で見つけた紙のざらつきがまだ残っている。乾いた表面、紙に前夜の雨の跡がなかったことを思った。
相変わらず涼の姿は見かけなかった。この街にはもう居ないのかもしれない。だが、どこかで風の流れを見ているのだろうと、自然に思えた。
机の上の白い紙を見つめる。何を描くかは決めていない。
ただ、線を置いてみる。
鉛筆を紙に当てると、線は以前より軽く迷いが少ない。倉庫街の隙間でも、高架下の影でもない。ただ、紙の上をゆっくりと流れていく。
昼前、外へ出た。川沿いの遊歩道は、夏の光が濃く落ちていた。ベンチに腰を下ろし、スケッチブックを開く。
風は弱い。だが、完全に止まっているわけではない。対岸の工場の煙がゆっくり形を変えている。その変化を眺めながら、紙に線を置いていく。
描きながら、ふと思う。涼は本当に居たのだろうか。もしかしたら自分は、息子の影を投影していただけなのではないか、そんな気さえした。
ただ、その影が残した風の痕跡が、大事なことを思い出させる。
帰り道、古い商店街の裏路地を歩く。 閉じたシャッターの端が、風に押されて小さく鳴っている。
そのまま商店街を抜けると、小さな書店の前に出た。
店に入ると、冷房の風がゆっくりと流れ、印刷のインクの匂いが薄く漂っている。
一つの棚の前で立ち止まった。
並んでいる雑誌を1冊ずつ手に取っては棚に戻し、また別の1冊を手に取る。紙の重さを確かめるように丁寧にページをめくる。
やがて、その中の1冊を選んで会計を済ますと、大事そうに抱えて書店を出た。
家に戻ると、スケッチブックを開き無心に描き始める。
やがて帰宅した妻が、冷たい麦茶の入ったグラスを持ってきたが、それにも気づくことなく、鉛筆を走らせ続けていた。
しばらくの間その様子を見ていた妻は、グラスの水滴が紙を濡らさないように、少し離れたところにそっと麦茶を置いた。
買ってきた雑誌は机の上に開いたまま置かれている。開かれたページには、県の美術連盟が主催する絵画展の告知が載っていた。
風はどこかで流れている。その流れの中に、自分もまた足を踏み入れたことを感じていた。
完




