風のない朝
目が覚めると、ぼんやりした朝の光が窓から射し込んでいた。
空は晴れているようだが、どこか白んで見える。
窓を開けても風は入ってこず、網戸の向こうで隣のマンションの壁だけが無表情に光っていた。
今日の会議は何時だったかと一瞬だけ考える。
次の瞬間には、もうその必要がないことを思い出す。
会社を早期退職して既に4か月が過ぎたが、長年の習慣で、毎朝同じ時刻に目が覚めてしまう。
3歳年下の妻は7時半を少し過ぎるころに家を出る。子どもの手がかからなくなってから、事務職のパートを始めて20年近く経つ。口紅と眉を描くだけの簡単な化粧をして、低いヒールを履いて出かけて行く。
「今日は暑くなるって」玄関から妻が言った。
「そうか」
「朝のうちに散歩でもしてきたら?お医者さんにも出かけなさいって言われているんでしょ。」
昨夜も同じことを言われたなと思う。
妻が出かけていき、玄関の扉が閉まる。
流しの脇に置かれた薬の袋を手に取る。血圧の薬。医者には、数値そのものよりも、家にこもっていることのほうが問題だと言われた。
「散歩でも趣味でも、なにか外へ出る理由を作りなさい」というのが医者の指示だった。
ふっ、とため息をついて立ち上がると、本棚からまっさらなスケッチブックを取り出した。
昨日、病院の帰りに、商店街の文具店へ寄ってみたのだ。
店先に大学ノートや画用紙が積まれていて、その隅にスケッチブックが何冊か立てかけてあった。
その中から、茶色い厚手の表紙のついた小さなスケッチブックを手に取った。
家に戻ると、妻はそれを見て少し笑って「珍しい」と言った。
「医者に言われたから」
なんとなく言い訳がましい返事になった。
夜になって、ふと思い出して、押し入れの奥を探した。
古い缶を見つけて開けると、乾いた鉛筆や練り消し、小さなカッターナイフが入っている。昔、使っていたものだ。
缶から、黒鉛と紙の匂いがかすかに漂ってくる。
かつてアトリエと呼ぶには狭すぎる部屋で、油絵具の匂いに包まれて過ごした時間を思い出した。窓辺に置いた石膏像。乾きかけのテレピン油。夏の夕方、汗ばんだシャツが、まだ若い背中に張りつく感触。
以前は絵を描いていた。もっと正確に言えば、絵を描いて生きていくつもりでいた時期があった。
だが、現実は容赦なかった。
就職、結婚、子ども、住宅ローン。絵は生活の外側へ押しやられ、そのまま静かに沈んでいった。
昼前、スケッチブックを手に外へ出た。
アスファルトは乾いた光を返し、ビルの壁は熱を溜めこんでいた。交差点で止まるたび、車の排気ガス、コンビニの冷気、工事現場の土の匂い、様々な街の匂いが鼻先をかすめる。
駅前の再開発ビルはガラスを鈍く光らせ、その足元で人が絶えず出入りしている。
人の流れはある。
だが、空気の流れが、どこかで止まっているような息苦しさを感じて、歩き続けた。
川沿いの遊歩道まで歩き、ベンチに腰を下ろすと、スケッチブックを開いた。
鉛筆を紙に当てる。
久しぶりに描く線は、驚くほど不器用で硬かった。建物の角は必要以上にまっすぐで、電柱は重く、欄干は息苦しいほど正確だった。
こわばって、流れを失った線は、長年の間に凝り固まってしまった、自分自身の輪郭のようだ。
やがて、描き終えて顔を上げる。
風はない。木の葉は一枚も揺れず、対岸の工場の煙だけが、どこにも行けないまま重たい空の下で形を崩していた。
「それ、街が苦しそうだな」
不意に背後から声をかけられた。
振り向くと、若い男が川を跨ぐ高架の柱にもたれている。
20代の前半くらいだろうか。
洗いざらしたTシャツ、ジーンズの膝は擦れて白くなっている。足元には汚れたリュックサックと、角の潰れたスケッチブックが置いてあった。
「苦しそうか・・・」少し納得しながら呟く。
男は肩をすくめた。「うまいけど。息をしてない感じがするな。」「この辺りは風が抜けないからね、描くとだいたい重くなるんだ」
男は近づいてくるでもなく、柱にもたれたまま川のほうを見ていた。




