↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
灰色の街のスケッチ  作者: ままま


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/7

風のない朝

目が覚めると、ぼんやりした朝の光が窓から射し込んでいた。

空は晴れているようだが、どこか白んで見える。

窓を開けても風は入ってこず、網戸の向こうで隣のマンションの壁だけが無表情に光っていた。


今日の会議は何時だったかと一瞬だけ考える。

次の瞬間には、もうその必要がないことを思い出す。

会社を早期退職して既に4か月が過ぎたが、長年の習慣で、毎朝同じ時刻に目が覚めてしまう。


3歳年下の妻は7時半を少し過ぎるころに家を出る。子どもの手がかからなくなってから、事務職のパートを始めて20年近く経つ。口紅と眉を描くだけの簡単な化粧をして、低いヒールを履いて出かけて行く。


「今日は暑くなるって」玄関から妻が言った。


「そうか」


「朝のうちに散歩でもしてきたら?お医者さんにも出かけなさいって言われているんでしょ。」

昨夜も同じことを言われたなと思う。


妻が出かけていき、玄関の扉が閉まる。

流しの脇に置かれた薬の袋を手に取る。血圧の薬。医者には、数値そのものよりも、家にこもっていることのほうが問題だと言われた。

「散歩でも趣味でも、なにか外へ出る理由を作りなさい」というのが医者の指示だった。


ふっ、とため息をついて立ち上がると、本棚からまっさらなスケッチブックを取り出した。

昨日、病院の帰りに、商店街の文具店へ寄ってみたのだ。

店先に大学ノートや画用紙が積まれていて、その隅にスケッチブックが何冊か立てかけてあった。

その中から、茶色い厚手の表紙のついた小さなスケッチブックを手に取った。


家に戻ると、妻はそれを見て少し笑って「珍しい」と言った。

「医者に言われたから」

なんとなく言い訳がましい返事になった。



夜になって、ふと思い出して、押し入れの奥を探した。

古い缶を見つけて開けると、乾いた鉛筆や練り消し、小さなカッターナイフが入っている。昔、使っていたものだ。

缶から、黒鉛と紙の匂いがかすかに漂ってくる。

かつてアトリエと呼ぶには狭すぎる部屋で、油絵具の匂いに包まれて過ごした時間を思い出した。窓辺に置いた石膏像。乾きかけのテレピン油。夏の夕方、汗ばんだシャツが、まだ若い背中に張りつく感触。


以前は絵を描いていた。もっと正確に言えば、絵を描いて生きていくつもりでいた時期があった。

だが、現実は容赦なかった。

就職、結婚、子ども、住宅ローン。絵は生活の外側へ押しやられ、そのまま静かに沈んでいった。



昼前、スケッチブックを手に外へ出た。

アスファルトは乾いた光を返し、ビルの壁は熱を溜めこんでいた。交差点で止まるたび、車の排気ガス、コンビニの冷気、工事現場の土の匂い、様々な街の匂いが鼻先をかすめる。

駅前の再開発ビルはガラスを鈍く光らせ、その足元で人が絶えず出入りしている。


人の流れはある。

だが、空気の流れが、どこかで止まっているような息苦しさを感じて、歩き続けた。


川沿いの遊歩道まで歩き、ベンチに腰を下ろすと、スケッチブックを開いた。

鉛筆を紙に当てる。

久しぶりに描く線は、驚くほど不器用で硬かった。建物の角は必要以上にまっすぐで、電柱は重く、欄干は息苦しいほど正確だった。

こわばって、流れを失った線は、長年の間に凝り固まってしまった、自分自身の輪郭のようだ。



やがて、描き終えて顔を上げる。

風はない。木の葉は一枚も揺れず、対岸の工場の煙だけが、どこにも行けないまま重たい空の下で形を崩していた。


「それ、街が苦しそうだな」

不意に背後から声をかけられた。


振り向くと、若い男が川を跨ぐ高架の柱にもたれている。

20代の前半くらいだろうか。

洗いざらしたTシャツ、ジーンズの膝は擦れて白くなっている。足元には汚れたリュックサックと、角の潰れたスケッチブックが置いてあった。


「苦しそうか・・・」少し納得しながら呟く。

男は肩をすくめた。「うまいけど。息をしてない感じがするな。」「この辺りは風が抜けないからね、描くとだいたい重くなるんだ」


男は近づいてくるでもなく、柱にもたれたまま川のほうを見ていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。