参 零の覚悟
地から湧き出た黒い怨念。常世で長く醸成された怨みはヘドロのような怨念。
日登利の頭の上で、今や境内を覆いつくさんとしていた。
その姿は里のどこからも見えるほど。
逃げていた飛鳥馬の民は手を合わせた。
吾妻家の守護神が、常世神が虫の暴走を止めに来たのだと感謝して。
だが、社の下に居た物は正反対の行動に出る。
叫び声を上げて、逃げて、許しを乞う。
育ち続ける黒い揚羽の身体が見えるが故に。
パキパキとカサカサと甲殻が擦れる音が聞こえるほど近くに居る者たちには、その身体が小さい虫の集合体と分かっていたから。
ウジが、ゴキブリが、シデムシが、ムカデが、ゲジゲジ。
集まり、よれて、鎖のように繋がり、しっかと結んでいたから。
黒い身体の、どこまでも暗い目が、しっかと怨みを湛えていたから。
救い主にならぬと、もっと禍々しいものであると、分かってしまったから。
だからこそ、逃げ惑い、頭を地に擦りつけ、泣き声を上げた。
だからこそ、日登利はほくそ笑んだ。
幾らよっても落ちて来る蟲たち、爛れたように落ちて行く蟲たち。
それらを纏め上げながら。
扱い切れない怨みの集合体を、受け止め、操り、額に汗を掻きながら笑った。
そして手を上げ、口を開く。
「羽ばたけ」
黒揚羽、常世ノ蝶は緩やかに優雅――とほど遠く動き出した。
最初は小さく引かれた翅の下部。
そして波打つように上部へと、大きくうねりながら伝わっていく。
ぼとりぼとりと落としながら。
全身から蟲を落としながら。
爛れた姿で、ただ一度、最期に一度。
全ての怨みをこの世に叩き付けるために羽ばたいた。
今や里の三分の一も覆わんとする巨蝶の羽ばたき。
風は巻き、木々は倒れて、土は吹き上げられ、人々はひれ伏すことしか出来ない。
そして翅から、身体から、怨みに満ちた黒き蟲が飛び立つ。
それらは嵐となって駆け巡り、ヘドロとなって濁流を生み、爛れとなって垂れ落ち溶ける。
社は壊れ、砂利は汚され、鳥居は吹き飛んだ。
森は腐って、山は崩れ、大地は爛れてしまった。
それは世界最後の日のようであった。
地獄の底のようでも、黙示録に記された終末のようでもあった。
黒い厄災が里を襲った。
災禍が過ぎるまで誰も、何も出来なかった。
そして最後には何もなくなった。
木は腐り、建物は崩落し、川は氾濫、土はぬかるみ、田畑は使いものにならない。
残されたのは山間の荒野と、飛鳥馬だった場所の南北を貫くアスファルトだけ。
それと黒い塊だけ。
里を爛れせしめた蟲たちの残骸だ。
ヘドロのように固まった、蟲たちだったものがあちこちに残っていた。
その内の一つ、一際大きい塊が道路へと転がっていた。アスファルトにへばりつき吐き戻すように人を押し出していく。人々を、100を超える人々を。
一塊の人々を吐き、アスファルトに転がし――蟲たちだったものは掻き消えた。
「何で? これ、生きてるじゃん?」
複雑に絡み合った人々の塊――であるが、それぞれは生きている。
大した怪我もしてない。黒く汚れていても、その下の肌は血色がいい。
「殺さなかったんじゃろ」
「え、じゃあ、サラがやろー」
「おい、待てっ」
日登利は漂う黒い塊から姿を現すと声を上げて止めた。
手にした出刃包丁を振り下ろさんとしているサラを。
「何?」
「何じゃない。勝手に殺すな」
「は? 何言ってんのお前? サラを愛してない奴の話聞く気ないんだけど?」
「そいつらに罪はない」
「それ”お前に”ってだけじゃん? ”生きている”だけでサラへの罪だし?」
「どうあっても――止めないつもりか」
互いの目に互いに対する怨みが籠る。
――一触即発
そんな雰囲気の中、デン婆の手が動いた。
すぱんすぱんと、ほぼ同時に、5mは離れた二人の頭が背後から叩かれる。
「やめい」
「っつー、ちょっとデン婆。叩くことないじゃん?」
「何で俺まで」
「サラをやる気じゃったろうが」
「折角、こんな糞みたいな里がまっさらになったってのに。水を差すからだ」
「はっ機嫌が悪いのう」
「怨霊だからな」
「違うな。陰陽師を逃がしたからじゃろ?」
「逃げられたんだ」
「扱い切れない力使うからじゃん? お前のミスだから”逃がした”でしょ?」
「突然消えたんだから仕方ないだろ。ぐちぐちぐちぐち五月蠅いな」
「いや、褒めておるのよ」
「は?」
「ここでやっても怨みが晴れてしまう。殺すのは最後にしておけ。そうすれば怨みが持続するじゃろ?」
「ああ、確かに。一番怨んでいる奴を後に回しておけば――良かったのか」
「では行くか」
「ほーい、で給料は? 給料は? サラ、ちゃんと働いたじゃん?」
「戻ったらな」
「やった! これで聖夜君に会いに行ける!」
”何言ってんだこいつ”と思いつつ、動かない日登利。
それを察してデン婆が振り返った。
「来ぬのか?」
「いや、何で行くんだよ。何なんだお前ら」
「怨みを晴らす。それ以外に存在の理由はないじゃろ?」
「俺の質問の答えか、それ?」
「無論、やるんじゃろ? 陰陽庁を――」
「ぶっころーす!」
”ノリが軽い””本当に怨霊か””やる気があるのか?”
疑問は、断る理由は多々浮かんだが――
そんな二人の目はどこまでも暗い黒い怨念塗れの目。先程までとうって変わって。
ほんの少し、陰陽庁の名前を出しただけで――すべてを滅ぼさんとする怨みの瞳に変化した。
「だから一緒に来なくてもいいっしょ? サラたちでやるし?」
「どうする? 日登利よ」
「ああ、なら全員殺すまで頼む」
日登利もごく軽く物騒な台詞を返した。
二人の真似をした。
恐らく二人はもっと前から怨霊になって、陰陽庁と戦っている。
だと言うのに怨みは深い。まだまだ底が見えない。
だから真似た。
常に軽く、気楽に、怨みを晴らすその瞬間が来るまでは――




