第四十話 妹のモヤモヤ
リンはシュウの部屋をノックした。
「兄さん。帰っていますか?」
リンの問いかけに答える者はいない。どうやらシュウはまだ外出をしているようだ。ランに会いに行くと言っていたが、どこかに寄り道をしているのかもしれない。
リンは溜息をつくと、自室へ入った。部屋は奇麗に整頓されている。年頃の女子にしては物が少ない。目立つ物と言えばベッドとローテーブル、クッションくらいである。最近はシャーロットの影響で服が増えていた。
(シャーロットさんは明日で帰るんですね。無事解決して良かった)
兄に自分以外の女性が近付くことは嫌だと思っているが、シャーロットは良い人だった。それがかえってリンを悩ませている。
(最近の兄さんは楽しそうですね。いつかこういう日が来ると思っていましたが……。でも……)
リンはまた溜息をついた。ここ数日、溜息が増えている。リンはクッションを抱いて床に座った。
(でも……シャーロットさんは……)
サイコメトリストであるリンはマナの変化に敏感だ。人に視えないものを感知する。
(シャーロットさんは私と接する時と、兄さんと接する時で……、マナを意図的に変えているように感じます。でも、マナを自在に変化させる異能なんてあるのでしょうか)
リンは抱いているクッションに顔を埋めた。シャーロットが何らかの能力を使っていることは初日から勘づいていた。兄が彼女に惹かれている理由がそれなら看過できないことだ。汚い手段だと軽蔑する。
(でも、シャーロットさんが<魅了>を使っているとして……。それが何の罪になるんですかね)
リンはクッションを抱いたまま、ごろんと横になった。兄の心を返して欲しいが、実際にシャーロットは良い人だった。自分の知らない世界を教えてくれた。
明日、シャーロットはいなくなってくれる。嬉しくもあり寂しくもあった。
(それにあの夜……)
リンは白石の事件を思い出していた。あの地下室の光景は、まだ鮮明に覚えている。あの日、あの地下室にダークマナの残り香を感じたのである。
ダークマナ自体はそこまで珍しくはない。あるところにはある。見掛けたら近付かないだけだ。しかし、あまり濃いダークマナを浴びると心身に良くない。死ぬことすらある。白石の症状はダークマナ中毒のようだとリンは思っていた。
(兄さんは念動力系だからマナの機微に疎いです。話しても理解できないでしょうけど)
リンはクッションをベッドの上に投げた。何とも表現しづらい感情をクッションへ転換したのである。その時、扉がノックされた。
「リンさん、入っても良いですか?」
声の主はシャーロットである。リンは少し緊張しながら、扉を開けた。
「はい、どうぞ」
シャーロットを部屋に招き入れる。リンはクッションを定位置に戻し、シャーロットに促した。自分はベッドに座る。シャーロットはいつも通り笑顔だ。
「リンさん。お世話になりました。色々大変でしたが、皆と仲良くなれて嬉しかったです」
「こちらこそ色々と教えていただいてありがとうございました。楽しかったです」
リンの本心だった。これまで女同士での買い物や会食はあまり経験したことがなかった。いわゆる女子会は楽しいイベントだったのだ。
「それに……ごめんなさいね。お兄さんとの時間を奪ってしまって。寂しい思いをさせてしまいました」
シャーロットは本当に申し訳なさそうにそう言った。リンは本心を見透かされたようで恥ずかしくなる。
「い、いえ! 仕事ですから。気にしないでください。それに……私にも分かっています。兄だっていつかは私から離れていきますから」
リンにとって、今回の一件は色々と勉強になった。兄と二人で暮らしていたら気付けないことも沢山あった。
(もう色々と考えるのはやめよう。あの夜のことは兄さんには言わず、私の胸の中に秘めておこう。それで良いじゃないですか)
リンははにかんで笑った。明日からまた日常が戻ってくる。それで良いと思った。シャーロットとリンはお互いに笑い合った。そして遠慮しがちに言う。
「リンさん……。あの地下室でのこと……シュウさんには言わないのですか?」
唐突の質問にリンは焦った。シャーロットは寂しそうな笑みを浮かべている。
「リンさんは精神感応系能力者ですよね。……なら、何か思うことがあったと思うのです」
正直返答に迷った。シャーロットに嘘は通じないらしい。リンは十数秒考え、こう答えた。
「いえ、私が言うことは何もありません。兄が幸せならそれで良いのです」
短い言葉に百の意味を込めたつもりである。それを聞いてシャーロットはグリーンの瞳を見開いた。彼女にとって意外な返答だったのかもしれない。
「ありがとう……ございます」
少しの沈黙後、シャーロットは口を開いた。その表情は照れているように見えた。
「あの……リンさん。明日なんですけど。シュウさんと食事をしたいと思っています。……その、仕事ではないデート……です。……許してくれますか?」
これも覚悟していたことだ。リンの想定より早く訪れたが、いずれこうなることは分かっていた。小さい頃から考えていたことだ。この時が来たら笑顔で快諾しようと。勿論、リンが認めた相手に限るが、シャーロットはそれを満たしていた。
「分かりました。兄をお願いいたします」
少し涙が出るが、シャーロットは見逃してくれるだろう。女子同士の配慮である。
「ありがとうございます。リンさん」
シャーロットは笑顔で一礼すると、部屋を出て行った。
部屋の外で声がした。
「シュウさん! お帰りなさい」
「ああ、シャーロットさん。丁度良かった! えーと……その」
リンは兄の煮え切らない発言に溜息をついた。恐らくランにアドバイスを貰い、シャーロットをデートに誘おうとしているのだろう。
リンはベッドから立つと、扉を開けた。シャーロットにアイコンタクトを送り、シュウに話しかける。
「兄さん。シャーロットさんが兄さんと明日デートをしたいそうですよ」
「リン! いたのか? え? 俺とデート! シャーロットさん」
シャーロットはくすくすと笑いながら答えた。
「はい。フレンチでディナーでもいかがでしょうか。今回のお礼に私が招待しますから」
「ほ、本当ですか! それは嬉しいな」
(兄さん……初デートで彼女側に招待させるなんて……。まったく先が思いやられますよ)
リンはうなだれながら自室へ戻った。後は二人で考えて欲しい。百パーセント納得しているわけではない。
年の差カップルというほどではないが、三つも年上の女性をエスコートするのは骨が折れるだろう。何せ相手は世界的なアイドルである。
(スラム育ちの便利屋と異人の歌姫……。これはちょっと無理かもしれませんね。そうなったら慰めてあげますよ)
リンはおかしくなって笑ってしまう。部屋の前の二人が事務所へ降りていく気配を感じ、リンはベッドにダイブした。
(明日かぁ。兄さんが粗相をしないか心配ですね)
嫉妬心が無いわけではないが、純粋にそそっかしい兄が心配でもあった。こっそり付いていくくらい許されるだろう。何せこちらが身を引いたのだ。
(心細いからチェンを連れて行きますかね)
リンはスマートフォンを取り出すと、チェンにメッセージを送った。そして時計を見る。
「あ、もう夕ご飯の時間じゃないですか。シャーロットさんに手伝ってもらって準備をしましょう」
二人の仲を邪魔するつもりはないが、夕飯は人類に共通した毎日のタスクである。リンは部屋を出ると、事務所へ降りていった。
【参照】
地下室のこと→第三十四話 闇へ誘う女