Act.60 東雲哀惜を廃す <1>
二千九十八年 三月三十日。
眠れない夜を過ごした――わけでもなかった襲たちは、翌日、朝早くから出立の準備を始めていた。
今日一日は冷え込むとのことで、襲は黒のダウンコートを羽織り、右手に黒の箱…と言うよりアタッシュケースの類を提げ、シェリルはカーキー色のジャケットを羽織り、柩ほどの大きさの黒い箱を下げたイアノートを連れて家の外へと出る。
目的地へ着くと同時、襲は心底嫌そうな表情で、
「う、うわぁ……」
最寄りの駅前で彼らの到着を待っていたのは、何やら高級感漂う黒の無人車両だった。
昨晩のうちにTIGに送信されていたメールの内容によると、どうやらこれは真藍家の専用車両らしく、言うまでもなく作戦用に明日香が手配してくれていたものである。
バンパーに付けられた紫陽花のエンブレムに嫌そうな表情を浮かべた襲だったが、その後は特に文句を言うこともなくドアの引手横に表示された立体画面に予め教えられていた暗証番号を打ち込み、イアノートと荷物の積み込み作業を行っていた。
二人と一機が車両へと乗り込むや否や、運転席側で音声による案内が流れ、車は静かに走り出す。
「本当に良かったんですか?」
揺れることすらほとんどない車両の中で、襲はイアノートを挟んで向かい側の席に座るシェリルへと声を掛けていた。
凛とした表情で姿勢良く座っていたシェリルは僅かに腰を屈め、前へと乗り出す姿勢で答えを返してくる。
「はい、楠那さんにもごほうしするよう頼まれていましたし、浅野さんから連絡があるまでは動きようがありませんから」
「そうですか、わかりました」
再び沈黙に包まれた車内では、心無しかイアノートの青い瞳が淡い輝きを灯しているように見えなくもない。地下道路に入り暗がりへと落ちると、その肌さえ青く仄めいているかのよう。
そんな奇妙な錯覚に囚われていたシェリルは、目線を窓の外へと固定したまま、微動だにしない襲へと視線を流しながら昨夜の出来事を思い返していた。
◇◆◇◆◇◆◇
脳裏を過ぎるのは、楠那宅から襲の家へとリニアモーターカーを使って移動している最中でのこと。
サークル活動の一環として《VSS-18便》の護衛を行うことを口にした襲は、予想通り、シェリルの怒りでも喧嘩でもなく、激しい動揺を買っていた。
「そ、そんな…。でも、あの子たちは一日に一人殺されていくんです。
もちろん襲さんの都合はお察ししますし、申し訳ないと思っていますが……」
彼女が浮かべるのは、焦りと恐怖の色。
脅迫文に綴られていた内容が嘘ではないことを嫌と言うほど実感させられていた少女には、今この時、一分一秒ですら惜しいのであろう。
無論、襲はそのことを察していた。その上で、この話をしなくてはならないと判断していた。
「別にシェリルさんのお手を煩わせるつもりはこちらにもありません。そして、シェリルさんの下に送られてきた脅迫文の内容が嘘だとも、俺は思っていません」
口を開こうとしたシェリルを、手を翳して制して。
襲は無表情のまま、彼女にとって残酷な話を切り出す。
「ですが、連中が人質の命を今も生かしてくれている保証はどこにもないと思います。これはあくまでも推測ですが」
「どういう……意味ですか?」
シェリルの蒼褪めた顔を正面から見据えながら、襲は紫苑の瞳を僅かに細めた。
「送られてくる生首――ご遺体は、既に生者ではなく“死者でしかない”ということですよ。
だから一日に一人ずつ、人質を殺傷しているという保証はどこにもない。予め人質を全員殺めておき、一日に一体、ご遺体をこちらへと送りつけているだけかもしれない」
「で、でも……それはッ」
「構成術を使えば遺体の腐敗を遅らせることも可能です」
シェリルの反論の言葉に、襲は冷徹な言葉を重ねた。
少女の瞳が濡れ、揺れ始めるのを知覚しながらも、襲には会話を中断させるつもりなどない。
「そもそも貴女と連中との間で交わされたのは約束でも、盟約でもありません。ただの脅迫です。こちらが素直に命令に従ったとしても、連中には人質を返す道理がない」
瞬間、彼女の表情に映った感情がどんなものであったのか。
それは当の本人でさえ知りえないものであった。
子供たちの為に何もできないという無力感と責任感の狭間で、シェリルの心は揺れ動く。
「ならッ!なら、私はどうすればいいんですかッ!?」
揺らぎの中から放たれた声が拭いきれない苛立ちと焦燥を孕んでいたことも、あるいは必然なのかもしれない。
「……どうすれば、良かったんですか」
それでも、彼女は泣かない。己が泣くことを、許容できない。
抱いた感情は、単純な見栄やプライド、責任感に起因しただけのものではなく、罪悪感にも起因するものなのだから。
それは美しいことだと、襲は素直に思っていた。
もしシェリルが己の置かれた現状を哀れみ泣き喚くようなことがあれば、きっと自分は同情心など抱かなかったであろう。そして、こうして手を貸そうなどとも思わなかったはずだと、襲は心中で悟っていた。
「失われたものは、二度と戻っては来ません」
襲は窓の外へと視線を投げてから、静かに言った。
「ですが、失われていないものは、取り戻すことができます」
「そ、それって……」
シェリルへと視線を戻した襲は、強く、諭すような口調で断言する。
言葉の裏に隠された確信にも似た自信に対して、少女は紫苑の瞳の奥に揺らぐ確かな感情の“音を聴いた”。
「今回の一件では楠那さんに後続を頼まれた以上、俺の命令には絶対に従ってもらいます。ですが、もし俺のことが信用できなくなったその時は――」
囁きと共に、襲は自信の上着のポケットからバタフライナイフを取り出した。
それを震えるシェリルの掌に押し付け、包み込むように握らせる。困惑の色を浮かべる青の瞳を覗き込みながら、襲は少女の手を己の方へと手繰った。
握られたナイフの切先を己の左胸に当てながら、襲は言う。
「迷わず後ろから討って下さい」
有無を言わさぬ威圧感に、シェリルは息を呑んだ。
こちらを見詰めてくる視線には、恐怖や緊張といった一切の躊躇いが感じられない。
紫の底に沈んだ真意を汲み取ろうとしても、虚像の如く実体感がなく、抜き身の刃にも似た冷ややかな輝きだけが見詰め返してくるだけである。
思考が既に停止しつつあるシェリルを余所に、襲の言葉はなおも続いた。
「今、浅野さんに連中の正体を探ってもらっています。ただ待つのは心苦しいかとは思いますが、連絡が入るまでは下手に動かず、大人しく待機していてください」
震えるシェリルの掌からナイフを取り上げ、懐へと仕舞いながら襲は告げる。
「これが一つ目の命令です、いいですね?」
駅に停止したリニアモーターカーから降り、夜道を無言で歩き出した襲の後ろ姿を見送りながら、シェリルは一人、俯くように頷いていた。
◇◆◇◆◇◆◇
「ここが目的地、アイハ・フォノニクスか」
車両が自動で向かった先は、ウィスタリアの沿岸部の外れにある巨大な工場施設であった。
敷地面積の広大さと言えば、厳重な警備が敷かれたゲートを潜った者全てに、他の企業とは格が違うことを瞬間的に理解させるほどである。まぁ、既に具体性に欠けている表現ではあるのだが、襲は素直にそう思った。
敷地面積からしてあの第七学園さえ優に超えているであろうこの場所は、どうやら搭乗型AIUを開発する為の施設らしいと、襲は流れてゆく景色に連立している施設を眺めながら判断していた。
「イア、スーツ持ってきてないか?」
工業系の施設の多くが製造ラインを確保する為に広大な横幅を持つものだが、ここにある建物は縦にもかなり大きなものが多い。
工業団地と言うよりは高層ビルの連立地帯といった趣がある敷地内を這うように進む車内で、襲はポツリと独りごちるように訊ねていた。
「いえ?持ってきてないですね」
「……不味いぞ、真藍家の車に乗って来た俺たちがこんなカジュアルな格好をしていたら、間違いなく第一印象が悪くなるっ!」
黒い箱の中を覗き込んで顔を青くしている襲を見て、中央座席に座っていたイアノートは無表情のまま口を開く。
「大丈夫ですよ。元から眼付きが悪いんですから」
「おいおいどういう意味で大丈夫なんだ…?」
これまた無表情で返しているうちに、黒の車体はある建物の中へと入っていた。
建物の中に入った瞬間、既に黙っていたシェリルを始め全員の意識が窓の外へと向けられる。
彼らを出迎えたのは、頭頂高二十メートルはあろう機械兵の群れだった。
様々な配色の塗装がなされた機体は、全て搭乗型軍用AIU、ANIMUSである。
それぞれの形状に微妙な違いが見受けられるのは、恐らく想定される稼働現場が異なるためであろう。左右の外壁に設けられたメンテナンス用の固定機に立ち並ぶその姿は、板に四足を括られ大人しく極刑が下されるのを待つ囚人の姿を彷彿とさせるものがある。
一世紀前のある種の人々には堪らない光景なのかもしれないが、これらの兵器は言うまでもなく物理的には非効率的な構造をしており、機械単体では歩くことは疎か立つことさえままならない。何ならそよ風で転倒するまである。改めて考えると情けないな…。
ならば固定機ではなく“補助機”と呼んだ方が正しいのかもしれないな、などと襲が悪戯な思考を巡らせていると、襲たちを乗せた車が重厚な合板性の扉の前で停止した。
車体認証システムでも積んでいるのか、何やら運転席側のパネルに文字列が表示され、すぐにロック解除を知らせる電子音が鳴る。
『ご降車ください』
無線による音声なのか、それとも装置によって作られた電子音なのか。なんとも聞き分けのつかない声に急かされ、襲たちは車から降りた。
黒い箱を片手に扉へと歩き出すと同時に、目の前の巨大な扉が開いてゆく。
「歓迎されてるな」
ゆっくりと開いてゆく扉の先で襲たちを待っていたのは、アサルトライフルなどの銃火器で武装した十数人の軍人であった。まぁ、一企業に雇われている時点で彼らは専属の警備員なのかもしれないが。
言い様もない緊張感にシェリルの表情が少し硬くなる一方で、相変わらずの無表情を保っていた襲は声音だけ(?)を跳ねさせている。
「手とか振っといた方がいいかな?」
「襲さま、ご自重なさってください」
こうして無表情のまま交わされる会話は、何も知らない周囲の者から見るとどう映るのだろうか?
真藍家の車から降りてきた人物、それも見てくれだけは良い二人の密談が、まさかどうしようもないほど幼稚なものだとは夢にも思っていないことだろう。
その脇に立つ銀髪の少女が浮かべている苦笑いでさえも、もしかしたら淑女の憂いを帯びた微笑みと誤解されている可能性すらある。
事実、襲に話し掛けてきたガタイの良い男の表情には、微塵の精神的ゆとりがない。
「雨宮襲様ですね?お待ちしておりました、どうぞこちらへ」
警備員の列に誘導され襲たちが辿り着いた先には、人間が持つ銃火器をそのまま巨大化させ巨人専用に作り替えたような兵器の数々が秩序だって並べられた、巨大な武器庫を連想させる奇妙な空間が広がっていた。
入口に掲げられていた「ANIMUS専用兵装第一開発研究所」との表記を見る限り、どうやら搭乗型AIUに搭載する装備の開発・研究をおこなっている施設らしい。
興味深そうに視線を左右へと泳がせているシェリルを余所に、襲とイアノートの視線は目の前に立つ一人の人物の方へと向けられていた。
「アイハ・フォノニクスへようこそ!歓迎するわっ」
明瞭極まりない滑舌と声量で襲たちを迎え入れたのは、拳銃のような造形をしたAIU調整機材を携えた、何とも高慢そうな金髪の少女であった。




