日本丸
いったい、日本列島には「群雄割拠」という状態が現出したことなどあるのだろうか。平安時代に発生した武士階級は、お上、朝廷からの働きかけとして形成され、それがやがて、荘園同士の武力闘争が増えると、荘官や郡司に、武官である武士が任命されるようになり、土地経営者の顔をするようになった。
彼らは、有力農民であり、納税を請け負う、後の名主の前駆だった「タト(田堵)」を従え、栄達した田堵が侍階級(六位以下)になる現象を挿み、混沌としつつも、全国の地面を占めるようになっていった。
かつて、私田という言葉は、有力農民・田堵のもの、それを荘園に寄進することで、不輸不入特権を手に入れた、という、田堵を軸にした捉え方をされていた。
だが、現代的な武士観だと、むしろ、そうやって肥大化した荘園の管理に眼目が置かれているようだ。大貴族や社寺の荘園が大きくなり、荘園同士の土地争いが盛んになる。その前線に立って、領地経営をすることで、侍は、領主という顔を手に入れた。
上からだ。
トップダウンで形勢がかたちづくられている。
そもそも、律令制の国司は、中央から赴任する官吏(かみ〈守〉すけ〈助〉じょう〈掾〉さかん〈目〉の四階級)だ。任期は六年だが、満了せずに交替することが多く、わりと流動する。
郡司は、一見、国司の下僚でしかないと思えてしまう。いや、実際に下僚なのだが、
彼らは、地元の豪族がそのまま任命された、世襲の終身官、つまり、民は、それまでの為政者と、実際に顔と顔を突き合わせて、現場レベルで生活を統治される、古代村落の秩序が継続していたのだ!
つまり、豪族に郡司の肩書きを付けて、その上に、中央からやって来る国史が乗っかっている体制である。
それまでの生活環境を収公し、国家の公認のものとした。
武士の台頭というのは、つまり、土地管理にあたる部局が拡大し、我が物顔をしたことであり、その部局というのは、朝廷のものにほかならない。
群雄割拠といっても、朝廷という組織内の対立だ。
この構図は、その後も継続し、朝廷から「外れた」侍による相克や押領という現象は、あったとしても、南北朝の混乱期の足利尊氏(またあの男だ)であり、以後は室町後期の戦国時代でも、実力で一国を切り取った毛利元就や武田信玄を足利義輝が周防・長門や信濃守護に任命し、以後、実力でのぶんどりが正当化されたとみなされ、室町秩序は破綻する。
それでもまだ、室町幕府は朝廷の一部局であり、実力者が現場レベルの対応をする、律令以来の現場主義、アウトソーシングへの権威付加のやり方だ。アウトソーシングされた武士たちがやりたい放題にやっているわけで、群雄割拠といいつつ、朝廷内の事象である。 確かに、万世一系、いや、血統上そうかどうかは置くとして、本当にそうではないかと錯誤するくらいに、天皇を頂点とする朝廷の支配が、外注先の武家集団に実質日本を経営されながらも、存続している。
この状態が続く限り、彼らは臣下でしかなく、堂上や主上の意向を枉げることはできない。
作者としては、水蒸気かなあ、と、かんがえてしまう。日本列島の範囲内は、人民みな、貴賤上下なく、同じ湿度に浸かっている。
この一体感があるために、たとえばヤマト政権が確立した時も、他の豪族がそれと対抗して激しく抗争する、という現象は起こりにくく、抜きん出た実力なり、権威なりを誇示されると、一斉にそちらになびいてしまう。
なびいたところで、律令的な言い方をすれば、自分が郡司になり、自分の上に中央から来た国司が君臨するだけで、実質的な生活は何となく継続するという妙な信頼感が彼我にある。
日の丸お屋形は全国を乗せる日本丸で、それで古代から、極言すれば現代までやって来たという、盤石の上下関係、それも非常に拘束のゆるいものが成立している。
それは、日本人が、多少平和ぼけにも太平楽にもなるだろう。
海の向こうからやって来ない限り、基本的に「外敵」は存在しない天地なのだ。
(楽園というのは)
やがてこの奔流に呑まれることになる徐福も嘆いただろう。




