(18)夢は終わらず
神龍との決戦を終えてから、はや一ヶ月が経過した。ラジオドールと電束陣をふんだんに使った復興作業が功を奏し、戦いの余波で破壊されたビル街は元の形を取り戻し始めている。以前のようにとまではいかないが、避難所暮らしだった人も徐々に元の住居に帰ってきて、大通りは賑わい始めていた。
立体型広告が消えた平らな掲示板を見上げながら、ミコトは修繕されたばかりの歩道の柵にフレムと並んで腰掛けていた。
「まさかまた隠れて過ごすことになるとはなぁ」
麗かな日差しを浴びながら呟くと、マフラーに赤い鼻先を埋めたフレムがクスクスと肩を揺らした。
「人気者ですね。兄様」
「そうだな。楽しくて仕方がない」
皮肉混じりに言いながら、ミコトはビルの隙間から見えるネオホログラフの格子を遠くから眺めた。あの辺りはまだ復興が進んでいない場所で、一般人が立ち入らないように結界を張ってあるのだ。ネオホログラフ内部では、ラジオドールに入った精霊が魔法を行使しており、それを見るために観光客や電束陣の研究を進める要人達が集まっている。精霊が見えない人たちにとっては多額の交通費を使ってでもラジオドールを見たくてしょうがないのだろう。彼らがばら撒く金が結果的に街の復興につながっているのは思わぬ収穫であった。
極秘として扱ってきた電束陣とラジオドールを堂々と使っていいのかと思うが、神竜討伐の際に散々見せつけたのだから今更だ、とブラトニーが笑っていた。実際、電束陣の存在を誤魔化せないことを前提に、FGは召喚士協会から電束陣を回収していたのだから、この件に関しては全くの無問題である。独自に開発しない限りは他人の手に渡らない上、もし身内から流出してもFGが実力行使で抹消する。
ただしラジオドールについては、召喚士協会の元々の理念である「精霊と人間を繋ぐ召喚士の再興」のために、復興以降もそのまま利用すると決まった。他の組織に手が出されないよう特許を申請するとか誰がか言っていたが、ラジオドールは精霊という中身があってこそ動くので、そんなことをせずとも召喚士協会しか扱えないだろう。
現状一番大きな問題を抱えているのは通称『神龍事件』と名付けられてしまった先の討伐である。ネオホログラフの中でミコトたちが繰り広げた戦いは、結界の外にいた人間によって撮影され、メディアでも大々的に取り上げられることになった。映像に写り込んだ精霊や非科学的現象、そして空を切り裂いた神龍の姿は偽物と断言するには生々し過ぎて、日本だけでなく世界中で大騒ぎとなった。混乱のあまり暴動まで起きかけたが、世界中の各支部が手を尽くしてくれたため大事には至らなかった。
しかし、自分たちの預かり知らぬ場所で大規模な戦争が行われたことについては、世間からかなりのバッシングを受ける羽目になった。日本支部のトップであるルカもFG代表のブラトニーと共に説明責任がどうのと駆り出され、映像に映っていたアレクたちも暴動事件に巻き込まれないよう大っぴらに外出することができなくなった。世間の批判も分からないでもない。自分の近所でドンパチやられれば誰だって怒る。精霊でさえそうなのだから、人間の憤怒は一入だ。
無論、ミコトも外出は控えるように言われていたが、認識阻害魔法でフレムと不知火家の屋敷を抜け出して外を満喫中だ。こうして外出するのはもう片手では足りないほどの回数だが、日々元の形を取り戻していく街を見られるのなら、一般人に見つかるリスク程度は大した問題ではなかった。
ネットやニュースではバッシングばかりだが、ここで生活している人は言うほど精霊を否定的に見てはいない。恨みを買っているも事実だが、それが全てではないと分かるだけでも、十分外出の価値はある。アレク達にも散々そう言っているのだが、連れ出すまでにはまだまだ時間がかかりそうだ。
ミコトはビニール袋からまだ暖かい肉まんを二つ取り出し、一つをフレムに手渡した。フレムはあちちっと紙包装の先端を摘みながらテープを取り、何度も息を吹きかけてから白い球体にかぶりついた。
「ふふ、やっはり冬はこれですね!」
「日本の味に慣れるの早いな」
「当然です。兄様の故郷の味なので!」
「あはは、何言ってんだよ」
笑いはしたものの、高校時代はコンビニ飯で育ったようなものだから否定できなかった。お袋の味といえばウーヴェの男飯しか思いつかないし、日本で食べたものの七割はコンビニ弁当や給食だ。
流石にこれだけを故郷の味認定させたくないため、帰ったらフレムに日本料理を振る舞おうとミコトは固く決意した。
柔らかい餡を咀嚼し、身体に悪そうな肉の旨みを堪能しているうちにあっという間に紙袋の中が空っぽになった。ミコトは無意識にフレムの手元を凝視するも、途中でフレムの手に遮られてしまう。
「あげませんよ」
「はいはい、いらねぇよ」
ビニール袋にゴミを突っ込んで、ついでに買っていたジュースのペットボトルを取り出す。カシュッと白いキャップから漏れる炭酸が冷たくて、甘味料の香りに一人で後悔した。
「食べ終わったらまた温かいの食べに行こう」
「いいですよ。あそこのファミレスが復活したみたいなのでそこに行きたいです」
「おう。好きなだけ奢ってやるよ」
「言っておきますけどデザートだけですよ。私が食べるの」
「え、ハンバーグは?」
「っ頼まないです! そんなに食べれませんから!」
目に見えて狼狽える姿をニヤニヤ見下ろせば、フレムは頬を赤くしながらヤケになって肉まんを大きく頬張った。
自然と生まれた会話の隙間に決して煩くない喧騒が混ざり込んでくる。スマホを片手に颯爽と歩き去っていくスーツ姿や、連休明けで気怠げな制服姿の集団がミコトたちの前を次々と横切った。淀みのない彼らの歩調は乾いた土地でもでも咲き誇る野花を彷彿とさせた。
「街、もう半分以上元通りですね」
「ああ。来月には全部終わるよ」
ラジオドール関係に興味を持つ腹黒い人々の支援のおかげか、予定よりも大幅に早く街は機能を取り戻している。日常が戻ってきた分、世間からの精霊への興味は湯水のように湧いて出るだろう。召喚士としては嬉しい悲鳴である。
「旅に行くのはもう少し先になりそうですね」
「ああ。無理にでも行くけどな」
「支部の人を虐めるのはほどほどにしてくださいね」
「善処する」
言いながら、半分まで減ったペットボトルにキャップを乗せて、鼻から炭酸を追い出した。次いで、フレムが肉まんを食べ終わるのを見計らってゴミを回収し、ファミレス方面へ足を向けた。
「フレム。最初はどの国に行きたい?」
「そうですねぇ。折角ですし、ルカさんが行きたいところにしましょうよ」
「そうなると『みんなが行きたいところでいい』ってあいつが言い出すぞ」
「むぅ……」
最初、ミコトはフレム達とルカとで別の日に旅をする予定だったが、ジュールから一緒に行けばいいと提案され、最終的に四人で長い旅に出ることになった。その時ジュールから未来の家族だと揶揄われてまた復興区域を増やしてしまったことについては割愛する。
早いうちに旅に出るのは四人で満場一致だが、ジュールの身体がまだまだ本調子ではないため数ヶ月ほど先になるだろう。一時期肉体が精霊化し、魂まで分断されていたジュールはベッドから起き上がるまで一週間を要した。食事もつい先日にやっと固形物を食べられるようになったばかりで、今は立つためのリハビリに専念中である。
そんなジュールを介抱するために、奴の恋人であるブラトニーは即断で日本に別荘を購入した。バリアフリー完備の一軒家が一体どれほどの金額だったかは聞きたくない。ジュールが退院できるようになったらすぐに家に引き取るとブラトニーが言っていたので、ミコトは心底兄に同情した。外道の選択をすればとことん堕ちるような女に愛されてもなお幸せと言い切るジュールは、やはり頭がおかしいのかも知れない。
「まさか旅に行く時にはーさんもついて来ないだろうな?」
ふと思いついた可能性に自分で恐れ慄けば、フレムは曖昧に笑うだけだった。
「それはそうと、精霊界は大丈夫なのです? ヌーヴァス様が魔王城を粉砕してしまいましたけど」
「あれはもうこっぴどく叱られたらしいから。今は運動会しながら建設中だってよ」
神龍討伐に参加した精霊たちの筆頭であるヌーヴァス達は、あの日以来人間界に顔を出すことなく、自分たちの日常に早々に戻っていった。唯一フィロアだけはルカ達と連絡を取り合っているようだが、ジェファーソンとこそこそ何かを企んでいるとクラマからも聞いている。FG特有の隠し事は健在のようだが、フィロアなら無視していても大丈夫だろう。ジェファーソンとの会話も大方ラジオドールを使った精霊界の開拓といった、知的探究心丸出しの話ばかりに違いない。事故で与えた右目を有効活用してくれているようで何よりだ。
「あ、兄様。いっそ精霊界に行きませんか? 精霊界を独り占めできるのは今だけじゃないですか!」
「いいなそれ。そうと来ればアレクたちも連れて行かないとな。えっと……ガイアスキングダムで、あいつらどこに行きたいって言ってたっけ?」
「うーん? 忘れちゃいましたね。結局ジャンケンで決めるように、で終わったような」
「……だな。今度ジャンケンさせるか」
ミコトたちと違って、不知火家の屋敷に大人しく謹慎中のアレクとクラマは、一週間前まではミコトと一緒に魔法と電束陣を使った復興作業に勤しんでいた。そのあと、事件の真相を暴かんとしたマスコミに追いかけ回されたため、今は自主的に引きこもっている。
実は今日もミコトから二人を外出に誘ったのだが、まだ他人のカメラやスマートフォンを見るのは無理だと顔を真っ青にしていた。いくら有名人でも四六時中追いかけられればトラウマになるらしい。
一方、二人と一緒に復興作業をしていたレイナは、今も修復途中の区域でラジオドールを引き連れて魔法を使いまくっている。ホヒュメアから魔力が供給されるようになったため体力も無尽蔵らしいが、使い過ぎて早い段階で精霊化するかもしれない。ブラトニーが一応レイナの監視をしているらしいが心配だ。
後でレイナのところにも顔を出そう。いや、ブラトニーがいるのなら行かなくてもいいか。
一人で自問自答しているうちに目的のファミリーレストランに到着し、重たいドアを押し開けて中に入った。カランカランと澄んだ音色を奏でるベルに呼ばれて、店員が晴れやかな表情でテーブルに案内してくれる。
窓際の席に行く途中、別のテーブルで大型タブレットで新聞を読む人を見つけた。新聞の内容は相変わらず神龍事件のことばかりで、人々の記憶から消し去ったはずの白昼夢事件のことまで大々的に書かれているようだった。
神龍がいなくなったため、今更白昼夢事件を隠蔽しようとは誰も思っていない。いずれは先の決戦に至るまでの経緯も公的な記録に残すことになるだろうが、まだ全てを公表すべきではないとルカは箝口令を敷いた。ただでさえ神龍事件で治安が乱れているところに新たな爆弾を落とすのは確かに愚行だ。その結果、真相を知りたがる人々が増えて、ますますアレク達が外に出たがらなくなるのは如何ともし難いが。
ふと、ポケットの中に入れていたスマホが震え出した。
「悪いフレム。先に頼んでおいてくれ」
「はーい」
ミコトは着いたばかりの席から立ち上がり、いそいそと店の外へ移動した。窓際の席にいるフレムに小さく手を振ってから画面を確認すると、そこにはジュールの名前が浮かんでいた。
思いっきり舌打ちをしながらボタンを押す。
「今フレムと飯食うところなんだけど」
『どうせデザート食べにきただけだろ』
「なんで分かるんだよサトリ妖怪め」
チラリと背後のフレムを気にしながら悪態をつくと、ジュールからけらけらと乾いた笑いが聞こえてきた。後ろから聞こえて来るアナウンスを聞く限り、病院のフロントにいるようだ。誰かが車椅子を押してジュールを散歩に連れ出しているのかも知れない。
「要件を言え」
『連れないなぁ。戻ってきた時は泣きながら抱きしめてくれたのに』
「うっせぇ切るぞ!」
『どうどう、落ち着けよ。短気はモテないぞ』
「もう間に合ってるっつの!」
『お、じゃあなんだ、嫁にやっと告白したか?』
「……………した」
答えた瞬間、電話の向こうでクラマらしき人物が吹き出した。遅れてアレクがマジでおめでとうと喚いている声まで聞こえる。ミコトは顔が熱くなるのを自覚しながら威嚇するように喉を震わせた。
「てんめぇ……もう一回湖に沈めんぞ!」
『ははははは! いやつい手が滑ってスピーカーになってたんだ、許せ』
怒りで震えるあまりスマホが軋んだ。いっそここで精霊を召喚して暗殺してやろうと魔力を練れば、ジュールが慌てたように矢継ぎ早に言った。
『すまんすまん。本当に悪気はなかったんだ。ほら、幸せって共有するべきだろ?』
「どの口が!」
『それで、ルカからオーケー貰った?』
「だからなんだよ!」
『――――良かったな』
どうせ興味本位でシチュエーションやらセリフを聞いてくるつもりだと思っていたせいで、唐突に掛けられた優しい声音にたじろいだ。
「………おう」
またぞろ熱くなる頬を手で仰ぎながら返事をした。あのヘタレがねぇ、とクラマの呟きが聞こえたが、罵倒が上手く表現できずに口をモゴモゴさせるしか出来なかった。
ルカに告白をしたのは、神龍がいなくなったその日の夜だった。不知火家の屋敷の桜の下で、傷が塞がったばかりの身体を引きずって夜風を浴びている時に、偶然ルカがそこに来たのだ。
あの桜の木の下で大切な人を守ると約束した、などとベタな話をしたものの、なかなか想いを切り出せずに世間話に興じていた気がする。だが、幼い頃から髪を伸ばしていたという話題になって、ルカが短くなった髪を触りながら泣き出してしまった。パニックになって笑わせてやろうとしているうちに、いつの間にかルカの好きなところを言いまくるという醜態を晒してしまったのだ。引くに引けなくなったので涙目で好きだと叫んで、無性に恥ずかしさで死にたくなった。
この人生の中で一番恥ずかしい思い出になること間違いなしだったが、その後に見たルカの表情でもうどうでも良くなった。あの顔で、小さな声で告げられた返事で、なんだか無駄だと思っていた自分の人生が報われた気がした。
いつかこの話も誰かに自慢することになるのだろうが、ジュールにだけは絶対に知られたくない。ミコトはガラスに映る自分の横顔が赤いのを見ながら、ぎゅっと唇を噛み締めた。
『なぁミコト』
「……なに」
来るなら来い、と虚空に睨みを聞かせるが、直後に肩透かしを食らった。
『四年間、長生きしてどうだった?』
「……いきなりどうした」
『気になったからに決まってるだろう』
「なんで」
『無駄な問答は嫌いじゃなかったか?』
羞恥心が消えた代わりに苛立ちが湧き上がる。遠慮のない舌打ちをしてから吐き捨てるように言い放った。
「癪だけど悪くなかったよ」
『もっと素直に言ってみろって』
「この野郎……!」
今度こそスマホからバキッと決定的な悲鳴が上がったが、完全に破壊する寸前で理性が追いついてきた。怒りを滲ませた溜息を傍に捨てて、一先ず深呼吸をして記憶を掘り返してみる。
確か、白昼夢事件で神龍殺しに失敗してからは、自分の感情が希薄になっていたように思う。食べ物の味や景色の色は知覚できたが、以前ほど情動は揺れ動かなかった。次は絶対に失敗しないようにと機械的に計画を立てて、ルカを人間界に置いていったのだったか。今になって振り返るとあの時の行動はかなりクズだったと断言できる。ミコトにはルカの父親を死なせてしまった負い目があり、ルカはルカで、全てミコトに任せて何も出来なかったと後悔していたようだが、そのせいで何年間もすれ違う羽目になった。
人間界を離れた後、運動会やいたずらで時々戦場じみていた精霊界で過ごしていくうちに、自分はジュールの魔法で白昼夢事件のことを忘れていった。そのおかげで、人間界に突き落とされても呑気に過ごし、三年前のようにすぐに逃げ出したりはしなかった。罪を忘れている間に過ごした時間はとても楽しく、だからこそ全て思い出した時の落差は凄まじかった。
あの時アレクに引き留められていなかったら、またフレムにアオスブルフを使わせていたかも知れない。そう思うだけで背筋が凍る。
振り返ってみると辛い思い出の方が明らかに多い。穴があったら入りたいぐらい未来設計が下手くそな人生だった。それでもミコトの口からは、自分でも予想外の言葉が飛び出した。
「楽しかったよ。生きてて良かった」
不思議と意識に馴染んだ自分の感情に納得すると、ジュールが少しだけ声を震わせた。
『そりゃ良かった。俺もそれが聞けて幸せだ』
「くっさ」
『おい』
「そういうセリフははーさんにだけ言っとけ」
ハン、と鼻を鳴らすと今度はジュールのほうからミシミシと音がした。変なところで沸点が低い反応に一頻り笑っていると、釣られたようにジュールもいつしか笑っていた。
『退院したら酒を飲みに行こうか。フレムはまだお預けだけど』
「俺身体的にはまだ十八歳だぞ」
『精神的に成長したからいいんだよ。無礼講だ』
「なんだそりゃ」
苦笑すると、俄かに向こう側が騒がしくなった。アレクと女性が会話をしているのだけは辛うじて分かった。
『……おっと、もう時間だ。邪魔して悪かったな』
「ああ。リハビリ頑張れよ」
『あ、板チョコ欲しい。うちの彼女厳しくて買ってくれないから』
「へいへい。じゃあな」
ミコトは雑な返事をしてからスマホをタップし、板チョコ三枚を頭にメモしながらファミレスの中に戻った。新しい客と勘違いした店員に軽く手を振りながら席に戻ると、フレムはシフォンケーキとココッシュに囲まれて幸せそうにしていた。ミコトの席の前には湯気を立たせたカフェオレが置かれている。
「これ飲んでいいのか?」
「どうぞ。特製ブレンドなのです」
言われて見てみれば、テーブルの隅にはシュガーとコーヒーフレッシュの残骸が置かれていた。これは甘そうだと期待しながら飲んでみると、意外にもバランスの良い風味にミコトは目を見開いた。
「美味しいな」
「でしょう? これがシフォンケーキにぴったりなのですよ!」
「なら頼むしかないな」
今日の大発見を力説するフレムについ破顔しながら、ミコトはメニューを開いてシフォンケーキの欄を眺めて、ついでに小腹が満たせそうなものを探し始めた。しばらくページを捲っていると、あっとフレムが声を上げた。
「珍しいですね。ミコト兄様、もしかして爪を伸ばし始めたのですか?」
「ん?」
自分の手をみれば、指の縁から二ミリ程度しか伸びなかったはずの爪が明らかにそれ以上に伸びていた。不老不死のせいで髪も爪も身長も伸びないはずで、些細であってもかなり異常な光景だった。
ちょうど一ヶ月爪を放置すれば伸びるであろう幅を持ったそれをまじまじと見つめて、ようやくミコトは自分の身に何が起きたのか理解した。
「フレム。確か日本召喚士学校に通うんだっけ?」
「はい。ブラトニー姉様が手配してくれたので、今年の四月から!」
「じゃあ、卒業したらジュールと一緒に酒を飲みに行こうか」
白い爪の先端を指の腹で確かめながら言ってみると、フレムはキョトンとした顔でフォークを縦に振った。
「その時まだ私は十八歳ですよ?」
「いいんだよ。無礼講だ」
首を傾げるフレムに微笑みかけながら、ミコトはゆっくりとコーヒーカップを傾けた。滑らかな甘さの後に追いついて来る渋みを、今度こそ本当の意味で味わえる。
近況のことばかり考えて、これから先の未来なんて考えても見なかった。使命から解放されてもう死ぬ心配はなくなり、しかも動き始めた肉体の時間が命の期限を教えてくれる。不死性は残っているかは分からないが、自分は確かに伸びた爪の分だけ年老いたのだ。それだけで十分だ。
絶対に口に出したりしないが、人としての人生を諦めさせなかったあいつらに感謝したくて堪らない。真正面から喜びを伝えたくはないから、手始めに精戦でもけしかけるべきか。
緩みそうになる頬をカフェオレで引き締め直していると、フレムが大きく切り取ったシフォンケーキの一部をフォークに乗せて差し出してきた。
「兄様、一口食べます?」
「じゃあ貰う」
大きく口を開けて受け取ると、あっという間にしゅわしゅわと舌の上で溶けてしまった。名残惜しそうに目を細めると、フレムは無邪気に微笑みながら呼び出しボタンを押してくれた。
店員が来る前にメニューを開いて、あらかじめ決めていた商品名に目を滑らせる。それでも頭の中では全く別のことがずっと居座っていた。夢というのは意識に残りやすい分、神龍よりも厄介である。
三年後に少し大人びた自分が精戦大会の舞台で優勝カップを持つ姿を想像して、ミコトは無性にむず痒くてついに頬を緩めてしまった。
これにて本編は完結です。
また時間があればストーリーに入れられなかった『B』とFGの裏話や、召喚士学校時代のわちゃわちゃを番外編か別枠で書きたいと思っています。
最後に、二年に渡る長期連載に付き合っていただいてありがとうございました。ブックマークと評価を下さった方々には本当に感謝しています。
読破した皆さんに幸あれ!




