1節 ある遠い国で
新肢秩暦三三七年七月六日。夏。
「ママ、あれってなに?」
ある子供が、路地の向こうを指差した。
「こら、そういうのは無視しなさい…!」
酷く慌てた様子で、その母親は彼の視線を右腕で隠す。
そして、向こう側にいた警官に頭を下げ、早足で場を離れた。
「ふん。洒落になんねえな」
その場にいる中での“最高位”の警官は、地面に倒れていた男に向かって、吐き捨てるように言った。
「こんなヤツらの近くにいると、こっちまで悪モンに見えるじゃねぇか」
制帽を直しながら、酷くシビアな口調で加えた。
「本当に困りますよね…」
その後輩は少しばかり肩を竦め、仲間の同意を求めるように笑った。
「――“脱走者”は」
それを聞いて、奥で彼らを見つめていた少年――ミゲルは眉をひそめる。
そして痛ましげに、父親から目を逸らした。
《なぜ父さんが…》
彼は小さな拳を、強く握りしめた。
※※※
今から数時間前。
父親はいつものように仕事に行く準備をしていた。
ネクタイを締め、朝食を作る父を、まだ十一歳の息子は黙って眺めていた。
《今日は、なんだか父さんが笑っている…》
珍しく朝から笑顔の父に、ミゲルは些か首を傾げていた。
二人は明るい気分のまま朝食を終え、家を出る前、父はミゲルの頭を軽く叩くように撫でて言った。
「――すぐ帰ってくる。外に出るときは、絶対にマントをはずすなよ」
痛みよりも、その言葉の意味よりも――ただ嬉しくて、彼は静かに頷いた。
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「どうして……どうして分かった?」
かすれた声で、地面に倒れていた男が尋ねる。
すると、警官たちは一斉に振り向いた。
「屍は黙ってろ」
最高位の警官は、不機嫌そうに声を上げる。
男の腫れた顔。
力の失われた腕。
それが見えなかったのだろうか、彼は躊躇せず男に蹴りを入れた。
それを見たミゲルは体を震わせ、父の方へ一歩歩こうとした。
「――やめておけ」
無愛想な声。
まだ新入りの警官は少年の前に腕を伸ばし、彼を止めた。
「何だディエゴ?言いたいことでもあるのか?」
それに気づいた最高位は、新入りに挑発的な言葉を向ける。
「いいえ、ただ…」
彼は自分より大柄な上司に怯まず、真剣な眼差しを向けた。
「――彼に理由くらい教えても問題ないかと」
ミゲルは男を不思議そうに見上げるも、決して目を合わせようとはしなかった。
「ハッ!何だ?こんなヤツに同情でも湧いたのか?」
荒々しい手振りを加えて、ティアゴは声高に訊いた。
「そこまでにしとけ、ティアゴ。
市民に見られたらどうすんだよ…」
隣にいた同僚が嘆息しながら、彼を落ち着かせようと注意する。
ティアゴは舌を鳴らし、倒れている男の胸ぐらを掴み、自分の方へ向けた。
「いいだろ。どうしてお前がこうなってるのかを教えてやろう」
不気味な笑顔で、荒い息を吹きかける。
「捲ってやれよディエゴ…」
彼が命令すると、胸ぐらを掴まれた男は、自分の息子に視線を置いた。
その目を感じたミゲルは、急にパニックになり、必死に自分の腕を引き離そうとした。
「……」
ディエゴは微動だにせず、少年の腕を強く掴み、それをティアゴと父親に見せた。
「…これ、なーんだ?」
ティアゴは男の頬を掴み、意地の悪い笑みを浮かべた。
「印…」
父親は大変寂しそうに、ミゲルから目を退かした。
「そうだ。それに、ただのノタムではなく――、
――“低層地区”のものだと分かるだろ?」
男の顔を離すと、ティアゴは嘲笑しながら語り始めた。
「――今日の朝、ある通報があったんだ。
ある奇妙なノタムを持った少年を見たってな」
男は顔を上げることもできず、黙って聞いていた。
一方で、ミゲルはその言葉を聞いて、一瞬だけ動きを止めた。
「…何だ?心当たりでもあるのか?」
ティアゴの視線を察して、ミゲルは一層震えた。
「そうだよな……無いわけないよな?」
呼吸が浅くなり、心拍が一気に跳ね上がった。
《思い出したくない…》
けれど、その“心当たり”が脳裏にこびりついて離れない。
自分の、あの時の失敗が――




