第10話 閃光のラクア
レンドルは兵舎に戻り、書庫で時間をつぶした。
薄暗い書庫の空気はひんやりと冷たく、古い羊皮紙とインクの匂いが澱んでいる。
知りたかったのは、加護の扱い方についてだった。
神殿で刻まれた、あの魂が焼けつくような衝動。そして、大通りで親子を護ろうとした瞬間に爆発した、世界のすべてを置き去りにするようなあの異常な速度。
人が鍛錬で到達できる範疇を明らかに超えていた。その正体を引き出すヒントが、どこかにないかと貪るように棚を探した。
だが――望む記述は見つからなかった。
棚に並んでいるのは、加護を授かった過去の英雄たちの華々しい戦歴や、武勇伝の記録ばかりだ。
これ以上は時間の無駄だと判断し、レンドルは重い書類や本を棚へ戻した。
気付けば、小さな窓から差し込む光は完全に失われ、夜の帳が降りていた。
書庫にこもっている間に、あっという間に時間は過ぎていたのだ。
食堂へ向かった時には、夕食の時間の賑わいが訪れていた。
いつも通り、訓練生たちの熱気と喧騒に包まれていた。
壁や長机に据えられた何本もの燭台が、赤々とした炎を揺らし、部屋全体を暖かく照らし出している。
レンドルは急に激しい空腹を覚え、木皿を手に取って配膳の列に並んだ。
正面の大きな釜からは、刻んだ根菜と脂身の浮いた熱いスープの匂いが立ち上っている。料理番の男が、無造作な手つきで深皿にスープを注ぎ、その横で別の男が、焼きしめられた硬い黒パンを一つ、放り投げるように皿に乗せた。
受け取りの最後、脇に置かれた水瓶から、薄切りのレモンが浮いた水を革袋にたっぷりと注ぐ。わずかに漂う爽やかな香りが、身体に心地よかった。
皿を抱え、座る場所を探して見回す。一人遅れてやってきたレンドルに、ロッサルが小さく手を挙げた。
「レンドル、ここだ」
呼びかけられて、レンドルは着席して早速パンをかじる。
「書庫にいたのか?」
「加護について、少し調べておきたくてな」
「おい、まさか、運試しは……」
「銀狼に一歩、近づいた」
ロッサルの目が丸くなり、そして笑った。
「やったな、レンドル」
「ありがとう。誰にも言うなよ」
「分かってるさ」
テーブルの中央には、共有の大皿に盛られた塩漬け肉の細切れと、酸っぱい匂いのする野草のサラダが置かれていた。レンドルは空いた手でそれらを無造作に掴み、自分の皿の端へと放り込むように取り分けた。行儀を気にする余裕などない。今はただ、腹を満たすことが最優先だった。
「そうだレンドル。お前がいない間にルベリア王国の遠征が決まったぞ、三日後だ」
レモン水を飲み、パンを流し込んだ。
「……いよいよか」
「といっても、俺たちは後方支援だけどな」
長テーブルにびっしり座った訓練生たちは、がつがつと食事をしながら、好き勝手に話していた。
訓練のこと、故郷のこと、恋人のこと、魔物のこと。加護のこと。
一日の疲れを飛ばすような笑い声が食堂を賑わせていた。
そんな中、誰かの低くよく通る声が、食堂に静寂をもたらす。
「ルベリアとの戦争なんだけど、ラクロアンと手を組むらしい」
貿易商人の息子、ダーウィだった。
レンドルは船の話が好きで、海の向こうの話をよく聞かせてもらっていた。
近くに座っていたレンドルたちは、食事の手を止めてダーウィの方を見た。
ロッサルが口火を切った。
「それ、俺も知ってるけど、噂じゃないのか?」
「噂じゃない。上官達が会議室で話していた、それにだ――」
ダーウィが、鼻息を荒くした。
「ラクロアンの、閃光のラクアが来ている」
静寂のなか、この名前が出たとたんに、ざわめきが起きた。
「来てるって、どこにだよ」
「今、このサンガードにだ。親父の商船に乗って来た」
「はあ? 商船に乗ってって、そんなことあるかよ。偽物だろ」
「そういう自由な奴らしいんだ。親父が興奮してた」
レンドルは父親が以前話してくれたことを思い出した。
声を潜めて語った名だ。
「閃光のラクア。とてつもない剣の使い手だと、親父が言っていた」
訓練生たちから、唾をのむ音が聞こえる。
「レンドルの親父って、突きの名手だろ。魔物退治の武勇は、この国じゃ誰だって知ってるぞ」
誇らしかった。その父から学んだ剣。突きはレンドルの得意とする業だった。
「ダーウィ、口が軽すぎるぞ」
静かに食事をしていたブルードが口を開いた。
この食堂は、偉い奴も偉くないやつも、一緒に食事をする。
自然と仲の良い同士で固まるが、ブルード教官は訓練生とよく食事をとっていた。
彼なりのこだわりがあるのか、食堂にはよく顔を出していた。
気さくでいて、貴族らしい振る舞いも忘れない。
この人は、侯爵の立場でありながら、この訓練施設で戦い方を教えていた。
数十年前、神聖王国ヴォルテニアから開拓団としてこの地に渡り、サンブラント陛下と共に、この国を築いた英雄だ。
ルベリア王国の凶刃にサンブラント陛下は倒れた。暗殺だ。
責任を取るように政治の舞台から引退した。
レンドルは兵学院に入舎してから、身近にそんな人がいたことに身震いした。
「あ! すみません!」
ダーウィは、ブルード教官に気が付いていなかった。
慌ててパンにかじりつく。
そして、静まり返る食堂に、ブルードが、波紋を落とした。
「ラクア・クアヴレカ・カーミオン。英雄だ」
「あれ? カーミオンって、北方大陸のアステ・ガルズの大貴族だ」
「ほう、ダーウィ、良く知っているな」
「親父が貿易で……あれ、クァヴレカって聞いたことがあるな」
「クァヴレカは、ヴォルテニアの別れた王族の血だ。そのカーミオン家に嫁いだ」
「血筋だけでもすごい……」
「さてな、本当にその血統なのか。――誰も分からんが」
ブルードは果実酒を一口のみ、喉を潤した。
「古の魔獣、銀狼と戦ったことがある。俺は死にかけた」
闇の森を縄張りにする狼の一族がいるため、開拓が進まなかったのは誰もが知るところだ。
エルフの開拓団の伝記や物語は、この地に住むものたちが学ぶ重要な歴史だ。
闇の森を切り崩して村や街道を作ったせいで、狼の一族の怒りに触れた。
そして、何百年とエルフを襲っていた。
その中でも、神出鬼没の魔獣――銀狼が、エルフが開拓した地に現れるようになった。
エルフだけじゃない。この地に降り立った人族も獣人も、おしなべて犠牲になっていった。
討伐隊を何度も組んだが、今だ成しえていない。
犠牲者は増えるばかりだった。
ブルードが、レンドルに首を向ける。
「レンドル。お前の親父と、俺もその時一緒に戦ったんだ、そのラクアとな」
レンドルの見た討伐隊の記録にも、ブルードの参戦と重傷だった記録が残っていた。
「父は銀狼討伐隊の話を、あまり話したがらなくて」
「ラクアは剣だけではない、それと――」
皆が息を飲む。ブルードの次の言葉を待っている。
「とてつもない加護を持っている」
ブルードは一度、言葉を切った。
食堂の空気が、わずかに張りつめる。
「……だが、その英雄ですら、銀狼は殺せなかった。撃退するのがやっとだった」
静寂の中、喉を鳴らす音がいくつも聞こえた。
「剣も槍も、魔法も、弾かれる。信じられなかった。強い加護を持ったものだけが、何とか傷を負わすことができた」
レンドルが書庫で見た討伐記録の内容と同じだった。
静かに語る男の言葉には、何の感情もない。
ただ、実際に戦った者だけが、伝える光景だった。
「目を潰そうが、足を斬ろうが、瞬く間に傷が癒えた」
ブルードの目が、遠くを見ている。
レンドルには、その景色が見えるような気がした。
「そして、また襲い殺して回る――化け物だ」
ブルードの表情がこわばり、眉間にしわが寄る。
「みんな死んだ。知ってるやつも、知らないやつも。隣で話していた奴もだ。一体何人死んだ、一体どれほど……あいつに殺された」
ブルードはそこで言葉が止まった。その眼には悲しさが見えるようだった。
普段からは想像できない深い感情に、レンドルは思わず息を飲んだ。
握りしめたスプーンが指に食い込んでいた。
加護を持つ英雄ですら殺せなかったという事実が、レンドルの胸をざわつかせた。
ブルードは飲みかけの果実酒を飲み干した。
「サンルード様のもつ加護は凄まじい力だった。その加護をサンブラント皇帝陛下が受け継いだ。それからの快進撃は言葉で言い表せん。しかし、ラクアの加護は……」
――閃光のラクアの加護は、どれほどなんだ。
「ブルード教官も加護持ちです。剣を生身の体で弾いていた」
レンドルは思わず口にした。剣戦場でみたブルードの強さ。
「俺とは比べ物にならん。その後、俺は鍛えに鍛えたが、銀狼に傷を負わせられるか、今も分からん」
首を横に振りながら、空になったワイングラスに、果実酒を満たす。
そして、レンドルをじっと見つめた。
「レンドル、お前の父親は違った。その剣が皆を救った」
「本当ですか!? 父さんは加護持ちじゃないのに」
討伐隊の記録には、ファレンの戦いについて記されていなかった。
レンドルが口を開けたまま沈黙していると、ロッサルが話を紡いだ。
「教官は、どこで加護を授かったのですか?」
「太陽の神ベギラダに加護を授かった。俺が生まれたヴォルテニアでな。そして、聖人サンルード様の従者になり、大船団でこの地に来たのだ」
「ええッ!?」
食堂のあちこちから、驚きの声が上がった。
聖人サンルードは、この大陸に降り立ち、人族の開拓者の先陣を切った偉人だ。
強大な加護を持ち、エルフと協力して、戦いに明け暮れた軍神。
この国では歴史で最初に学ぶ傑物だ。
「だが、サンルード様は亡くなった。そして、その意思を継いだサンブラント皇帝陛下に、俺は手を尽くした」
しばしの沈黙があった。
「……何も守れなかったがな」
話過ぎた、とブルードは話を切り上げた。
「ルベリア遠征は三日後だ。丁度いい、明日は歴史の時間だ。予習はしておけよ」
不満の声が、あちこちから漏れた。
レンドルは、少しでも予習の時間に当てようと、急いで食事を口に運んだ。
木皿を片付けようと、立ち上がるとブルードが声をかけてきた。
「レンドル――後で俺の執務室に来い。話がある」
静かな声だった。食堂の喧騒の中でも、その声だけがはっきりと聞こえた。
レンドルはブルードを見た。穏やかな表情のまま、果実酒のグラスに手を伸ばしている。
ブルードの目に、燭台の炎が静かに揺れていた。




