第1話 赤髪のレンドル
誰が言ったか分からないが、英雄と呼ばれる人はみな《加護》を持っている。
英雄譚の剣士も、伝説の雷の魔法使いも、みんなそうだ。
母さんを殺した古の魔獣――銀狼も、加護を持つ者なら倒せたのかもしれない。
俺には、それがなかった。
あの時、俺は剣すら抜けなかった。
「レンドル!」
血の匂いだ。
手が、真っ赤だ。
――母さんが、倒れている。
母に手を伸ばす。
指が、滑る。
「起きろ! レンドル!」
息が詰まる。
視界が跳ねた。
目の前にロッサルの顔があった。同室の仲間であり、友人だ。
レンドルは息を整え、ゆっくりと頷いた。
「ロッサルか。……大丈夫だ」
「いつもの夢か? 汗がひどいぞ」
「そうだ。……母さんが、俺の目の前で殺される」
「……悪夢だな」
いつも表情を出さないロッサルも、心配してくれているのが分かる。仲間思いのいい友人だ。部屋替えで同室になって数週間、この友人の眉間にはしわが寄るようになった。
「この悪夢を終わらせるには、俺が銀狼を殺すしかないんだろうな」
「殺すって、伝説の魔獣だぞ……どうやって?」
ロッサルは、それ以上口にしなかった。
「とにかく、強くならないとな。兵役は義務だけど、そのために来たんだ」
レンドルは天井を見上げ、自分の手を見た。
心臓がまだ、速く打っていた。
目蓋が重い。連日の訓練で、体の節々が鈍く痛む。
修練用の革鎧を取り、留め具に手をかけていると、ロッサルが部屋の扉を開けた。
「レンドル。先に行ってるぞ。剣戦場に急いだほうがいい」
「そうだな、すぐに行く」
短いやり取りの後、ロッサルは部屋を出て行った。
レンドルは、枕元の小さな手鏡を手に取った。
目の下に隈ができている。頬には昨日の打ち身の痕。疲労が、顔に滲み出ていた。
――ひどいな。訓練だけじゃない。あまり眠れていない。
赤髪が寝癖でぼさぼさに広がっている。手で押さえても、どうにもならなかった。
レンドルは準備を整え、剣戦場へ向かった。
◆
木柵で囲われた剣戦場に着くと、訓練生たちがすでに集まっていた。
鍛冶屋の息子、貿易商人の跡取り、貴族のお坊ちゃんに孤児院出の……いろいろな奴がここにいる。さらには、長きにわたり敵対してきたはずのエルフや獣人、忌み嫌われる混じり者の姿まである。女であっても戦場に立てる。魔法が使えるなら、なおさら重宝される。
いつか誰かが吐き捨てた言葉だ。この場において、出自や血筋などは何の意味も持たない。国が求めているのは高貴な精神などではなく、敵を屠るための「戦える肉」でしかないのだと。
レンドルは、その冷酷な評価こそがこの場の真実だと感じていた。
――今、俺たちサンガード皇国は、ルベリア王国と戦争の最中だ。
建国以来、エルフの森とも長いこと小競り合いが続いていた。
戦場はいつも人手不足だと、上官達はボヤいていた。いつ「今日から正規兵士だ、喜べ」と肩を叩かれるのか。誰だろうと関係がない。順番待ちだ。
だからこそ、この訓練場という名の生ぬるい呼称は、いつしか剣戦場という実利的な呼び名に変えられていた。
レンドルは、入り口で足を止め、剣戦場をじっと見つめた。
この剣戦場は、あえて柔らかい土に、砂利や細かい石を散りばめて作られている。滑ることもあるし、わざと滑り込むこともある。石を踏んでバランスを崩すこともある。そうなった後に、どう動くかを学ぶための場所だ。
――戦う場所が平地や草原だと、銀狼の素早い動きに対応できない。
父さんから聞いた。書庫に討伐の記録がある、と。ようやく閲覧の許可が下りたその記録には、名のある冒険者や騎士、大勢の精鋭たちが、ことごとく死んだとあった。平地の野営地で挑んだ結果だった。
身を隠しながら戦える林か。それに、一人で戦って勝てる相手じゃない。仲間が必要だ。
レンドルは銀狼との戦いを考えながら、訓練生の列の端に腰を下ろした。少し離れたところにロッサルが座っているのが見えたが、他の訓練生と話し込んでいるようだった。
まだ教官は来ていない。
しばらくすると、目蓋が、じわりと落ちてくる。
――またか。抗えない。今日はひどい。
青い月が揺れている。
水面に映る月だ。美しいと思った。だから俺は駆け出した。
次の瞬間、闇の中に銀色が揺らいだ。
音もない。気配もない。銀色に光る狼がそこにいた。
母の声がした。剣を取りなさい、と。
――抜けなかった。
「レンドル! レンドルはいないのか!」
その大声で目覚めた。また眠ってしまっていた。
「います! ブルード教官!」
精悍な顔立ちの男は、刃の潰れたロングソードを右肩に乗せて、こちらを見ている。
よく手入れされた訓練用の革鎧に身を包んでいた。細かな傷、補修の跡が所々にあり、長年使い込まれているのが一目でわかる。油がまんべんなく染み込み、大切に手入れされていた。
レンドルたちが使うのは実戦の剣だ。
この人に勝てなければ、仇を討つなんてできやしない。
――銀狼には、届かない。
訓練生たちの目が一斉にレンドルへ向いた。眠っていた、とは誰も口にしない。ただ、寝起きの顔で剣戦場の中央へ歩いていく赤髪の背中を、全員が黙って見ていた。
足取りに迷いはなく、ただまっすぐに、ブルードのいる中央へ向かっていた。
疲れがどうした。銀狼を前にしたとき、言い訳になるはずがない。
剣を、鞘から抜いた。




