第80話 新しい花
春が来た。
薬草園に、新しい花が咲いていた。
白い花だ。五枚の花弁が星型に開いている。小さな花。目立たない花。
だが、匂いがある。甘い匂い。夜来花に似ているが、もっと柔らかい。刺すような甘さではなく、包むような甘さ。
カミラが花を見つけたのは、朝の水やりの時だった。
「お嬢様。見てください。植えた覚えのない花が」
薬草園の隅、エキナセアとカモミールの間に、ひっそりと咲いていた。
しゃがんで、花を観察した。
「夜来花の近縁種だ。だけど、毒性がない。花弁の構造が違う。夜来花は花弁の裏に毒腺があるけど、この花にはそれがない」
「毒がない夜来花?」
「夜来花の変異種か自然交雑の結果かもしれない。薬草園の土壌は解毒剤で処理してるから、毒を持つ個体が淘汰されて、毒のない個体だけが残ったのかも」
「つまり毒の花が、薬草園で育つうちに、毒をなくした?」
「そう。自然がやったことだ。私が意図したわけじゃない」
花に触れた。柔らかい花弁。露が指先についた。
「でも起きるべくして起きたのかもしれない。毒のある環境で、毒を持たない方が生き延びやすい。毒を中和された土壌では毒は武器ではなく負担になる。だから、毒を捨てた個体が生き残った」
「それはお嬢様みたいですね」
カミラの言葉に、息が止まった。
「……そうかもしれない」
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花を一輪切って、水差しに入れた。机の上に飾った。
国家薬務局の事務室。朝日が窓から差し込んでいる。
マティアスが出勤してきた。
「おはようございます、局長。きれいな花ですね」
「薬草園で咲いたの。名前はまだない」
「名前つけるんですか」
「つけたい。まだ考えてるけど」
書類に目を通した。全国の水質報告。解毒薬の在庫報告。薬師育成プログラムの進捗。
冬の間に、制度が動き始めていた。
北方と東方の修道院では、エレノアが育てた配布拠点が定着し、地域の薬師と修道女が連携して健康相談を始めていた。
南方では、シルヴァーノの港湾局が毒物流通の監視制度を導入した。
フローリアは植物学の文献を整理して、薬務局に寄贈した。宰相の娘としての償いだと本人は言ったが、その知識は確かに役に立っている。
ランベルト先生は薬師組合の教育プログラムを作り、若い薬師を各地に派遣し始めた。
一人で始めたことが、たくさんの手に引き継がれていく。
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昼休み、ユーリが学院から手紙をくれた。
『姉上。学院の春の試験で、薬学が一番でした。先生が驚いていました。姉上のおかげです。夏休みに帰ります。カミラさんの料理が食べたいです。ユーリ』
笑った。
あの子が、元気で育っている。
父の毒から救った五歳の弟が、学院で薬学を学んでいる。
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午後、セドリックが薬草園にやってきた。
「リゼット。少し歩かないか」
「仕事中だけど」
「局長命令で休憩しろ」
「局長は私だけど」
「なら局長の隣にいる人間からの提案だ」
仕方なく、立ち上がった。
薬草園の小道を歩いた。春の花が咲いている。カモミールの白、エキナセアの紫、ラベンダーの紫。そして、あの名もない白い花。
セドリックが白い花の前で立ち止まった。
「これは?」
「新しく咲いた花。夜来花の近縁種で毒がない」
「毒がない夜来花」
「うん。名前をつけたいんだけど、まだ思いつかない」
セドリックが花を見つめた。
「……ヴァレンティア」
「え?」
「ヴァレンティア。ヴァレンシアに似た音で、薬の花。……駄目か」
「駄目じゃない。いい名前だ」
ヴァレンティア。
毒の家の名前に似ていて、毒のない花。
「ヴァレンティアにする」
「本当に?」
「本当に。マティアスに正式な植物登録を頼もう」
セドリックが、微かに笑った。
「俺が名付け親か」
「そうなるね。薬草園で最初に名前をつけたのが王子って、変な話だけど」
「王子じゃなくお前の隣にいる人間だ」
「……そうだったね」
小道を歩き続けた。
二人の影が、花の間に伸びていた。
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夕方、薬草園のベンチに座った。
カミラが紅茶を持ってきた。蜂蜜入り。
セドリックと三人で、紅茶を飲んだ。
「お嬢様。今日のお仕事は、もう終わりですか」
「もう少しだけ。処方箋集の書き写しが」
「毎晩もう少しだけと仰います」
「毎晩もう少しだけなの。嘘じゃない」
カミラが呆れた顔をした。セドリックが横で笑っていた。
夕日が薬草園を照らしている。
花が金色に光っていた。
ヴァレンティアの白い花弁が、夕焼けに染まって、淡い桃色になっていた。
七歳のとき、荒れた庭に種を蒔いた。
一人で、泥だらけになりながら。
あの日の私は、生き延びることだけを考えていた。
処刑台の記憶に怯え、父の毒に怯え、何もかもが敵に見えた。
今は、違う。
隣にセドリックがいる。
後ろにカミラがいる。
遠くにエレノアがいる。フローリアがいる。ユーリがいる。トビアスがいる。
ランベルト先生がいる。マティアスがいる。王妃がいる。
薬草園には、名もなかった花に名前がつき、毒のない花が咲いている。
父は牢の中にいるけれど、処方箋集は私の手にある。
母は、もういないけれど、母の言葉が私の中に生きている。
毒花でも構わない。花は花だから。咲き方を選べるから。
選んだ。
私は、薬花として咲くことを。
紅茶を飲み干した。
立ち上がった。
「さ、もう少しだけ仕事する」
「お嬢様」
「カミラ。明日は朝から巡回があるから、お弁当をお願い」
「はい。何がよろしいですか」
「サンドイッチ。カミラの作る、あの卵のやつ」
「かしこまりました」
事務室に戻った。
机の上に、ヴァレンティアの白い花が、水差しの中で揺れていた。
ペンを取った。
処方箋集の最後のページ、母が書いた研究メモの続きに、自分の手で書き加えた。
『菌糸培養体Eの中和:アルニカ根蒸留液。有効。母の仮説は正しかった。
完全解毒法の確立:牛乳薊 + 活性炭 + ウラル甘草 + 白樺茸 + アルニカ根蒸留液。
八千人に投与。死者ゼロ。
この家の毒は、この家の人間が終わらせた。
母さん、約束通りです。リゼット』
ペンを置いた。
処方箋集を閉じた。
窓の外に、星が輝いていた。
春の夜。穏やかな風。
二度目の人生は、まだ、始まったばかりだ。




